第12話潔癖男子の弱音
「落ちついた?」
ペットボトルの中身が半分まで減った頃、羽柴が体育館の壁にもたれながら訊いてきた。
「……ああ。急に飛び出したりして、すまなかった」
一拍おいてから、俺は紫倉さんと羽柴へ謝った。頭は冷えたが、二人の顔をまともに見られなくて、俺は両手で握ったペットボトルのラベルを食い入るように見つめた。
六月のじめじめした空気が、冷や汗で湿った俺のカッターシャツを撫でる。部活動の喧騒がどこか遠くに聞こえる中、羽柴はハーフアップにした髪をぽりぽり掻いた。
「まあねー。初めからそう上手くいったら苦労はないっていうか、ね? また明日……」
頑張ろうよ、と、羽柴の声が頭上から降ってきて、俺はますます目線を下げた。
「シナガセさん……?」
「本当に俺は、潔癖症が治せるんだろうか……」
心配そうな紫倉さんの発言を遮って呟き、俺はついに塞ぎこんだ。
昨日から抱えていた不安をいざ吐露してしまうと、まるで筆から垂れた墨が半紙に広がるように、疑心が胸の内を浸食していった。
「俺が潔癖症を克服するために協力してくれて、紫倉さんにも羽柴にも感謝している。が……自信が、ない……。元からなかったが、さっき、完全になくなった」
たった三粒種を蒔いただけで取り乱して、気が触れたみたいに手を洗い続けた俺が、本当に潔癖症を治せるのか? 小さな汚れに過剰な恐怖を抱く俺に、人並みに恋愛が出来るのか? 何もかも、自信がない。
「何言ってんの、まだ初日じゃん。これからどうにでもなるって!」
羽柴は活を入れるように俺の背を叩いた。
しかし、後ろ向きの思考に陥った俺の胸には響かない。
「子供の頃から、ずっと潔癖症だったんだぞ。それなのに、今更それが治るのか……?」
一歩踏みだした結果が散々すぎて、先ほどまでの勇気があっけなく瓦解してしまった俺は、弱気な発言を連ねた。
……紫倉さんはどう思っているんだろう。今度こそ本当に、呆れてしまっただろうか。
隣に掛けたまま静観を貫いている紫倉さんを、横目で見てみる。彼女は困ったように微笑んでいた。
「確かに遠い道のりかもしれませんが……悲観することは、ないと思いますよ」
「結局逃げだして、手を洗いにいったのにか?」
俺が皮肉っぽく口元を歪めて言うと、紫倉さんは小さく首を横に振った。
「それはおかしなことじゃ、ないです。私だって、土を触った後は手を洗いますから」
「まあ、そーちゃんはちょっと洗いすぎだけどさー」
と突っこみを入れた羽柴は、もどかしそうな顔をする。
「いいじゃん、初めはそれで。そういったことを克服するために頑張ってんだから、最初から出来なくて当然じゃん。湊多は色々諦めるの早すぎ。もうちょっと、自分にゆとりを持った、優しい物事の見方をしろって。てゆーか、見方を変えろ!」
「…………」
そうは言われても……。
もともと悲観的な性格の俺は具体的に何をどうすればいいのか分からず、途方に暮れるしかなかった。
そんな俺の様子を見て、紫倉さんは苦笑を零す。それから、幼子を優しく諭す母親のような口調で語りかけてきた。
「シナガセさん、昨日私に言ってくれましたよね。『自分で自分をおとしめるな』って」
「……? ああ」
「その通りだと思いました。ヒクツになるのはよくありません」
「だから、あえて私からも言わせて下さい」と、紫倉さんは穏やかに続ける。
「潔癖症だから出来なかったと、ご自分の努力を頭ごなしに否定するのは、やめましょう。もっと、ゆっくり、潔癖症と寄り添いながらやっていきませんか?」
「寄り添う……?」
それが、優しいものの見方というものなのだろうか。俺は一つ瞬きをし、オウムのように繰り返した。
紫倉さんは、やはり陽だまりのような穏やかさで囁く。
「そうです。『潔癖症だから出来なかったこと』を責めるだけじゃなくて、『潔癖症だけど出来たこと』にも目を向けましょう。そうですね、例えば今日なら……」
と、紫倉さんは視線をちょっと上にやってから、嬉しそうに手を叩いた。
「種を三つも蒔くことが出来ました。昨日までのシナガセさんには出来なかったことが、今日は勇気を出して出来るようになりました。それは、進歩だと思います」
「進、歩……?」
俺は切れ長の目を見開いて、まじまじと紫倉さんの顔を見た。
「それはたった三つ、たった三つ種を蒔けただけでもか……?」
「はい、三つも蒔けました。進歩です」
あまりにも淀みなく告げられたので、俺は「だが」も「でも」も紡げなくなり、論破されてしまったように口を閉じた。
上手くいかなかった手洗いの件は丸無視で、出来たことだけを取りあげるなんて楽観的すぎないか、と思う。だが同時に、確かに俺には、そういう大らかな考えが欠けているのかもしれないとも反省した。
俺は、完璧主義すぎるのだ。初めから理想が高すぎるから、少し上手くいかなかっただけで早々にへこたれてしまう。
「シナガセさん。シナガセさんは成長、してるんですよ」
紫倉さんは目元を綻ばせ、俺は子供の時のままではないと、確信に満ちた声で告げた。
「紫倉ちゃんの言うとおりだよ」
羽柴はベンチに座る俺の前へ回りこみ、わざわざしゃがんで俺と同じ目線になると、辛抱強く言った。
「最初はだましだましでいい。もっと、自分を褒めてあげようぜ。小さな進歩が積りに積もったら、いつか必ず、大きな自信につながる」
「自信……」
だめ押しされた俺は、強張っていた肩から力を抜いてみた。
……紫倉さんの言うとおり、昨日までの俺なら、触ろうとはしなかったはずだ。出来なかったはずだ。
それが出来た! 出来たんだ。
俺は「オレなんていっつも自信に満ち溢れてるよー」と鼻を高くしてへらへら笑う残念なイケメンを一瞥してから、紫倉さんを見た。
俺の視線に気付いた紫倉さんは、絵画に描かれた女人のごとく温かな微笑を浮かべる。俺は普段あまり活用しない表情筋を働かせ、ぎこちなくではあったが微笑み返した。
胸に手を当ててみる。不思議なことに、紫倉さんや羽柴が言ったような前向きな考え方もあるのだと知ったことで、胸に燻っていた不安が少し減ったような気がした。
自分では成長が疑わしく思えても、他人から言われると、背中を押してもらったような心地になるから本当に不思議だった。
胸がすいたのは良かった。が、それと同時に俺はいつもの調子を取り戻したのか――先ほどのような無力感からくる情けなさとは別の、背中を掻きむしりたいような恥ずかしさに襲われた。
……そう、またカッコ悪いところを、見せてしまった……。
肩を落とす俺に、先ほどの自分の言葉が響いていないと思ったのか、羽柴は
「まあ、そーちゃんが辛いって言うなら、無理強いはしないよ」
と、観念したように言った。
「潔癖症の克服はオレが無理矢理勧めたようなもんだし。そーちゃんが嫌ならやめよう。お友だち付き合いには別の方法もあるしね」
諦観をにじませる羽柴に同調して、紫倉さんも神妙な様子で相槌を打つ。
「はい……。シナガセさんのお辛そうな姿は、見ているだけで胸が痛みますので……」
紫倉さんのポニーテールが、力なくうなだれる。俺は言葉を探すように目線を泳がせてから、ペットボトルがベコッと音を立てて凹むくらい強く握った。
俺が弱音を吐いたのは、活動をやめたいからではない。辛いから逃げだしたいわけでもない。ただ俺には、誰かに自信のない背中を押してほしいという甘えが胸の何処かにあったんだ。
だから……。
「勝手ばかり言ってすまないが……本当に、亀みたいに遅い成長でもいいなら……頑張ろうと思うから、付き合ってほしい……」
俺は何度も詰まりながら、恐る恐る願い出てみた。
勝手に落ちこんだり、かと思えばやる気を出したりと、情緒不安定な俺に二人が愛想を尽かしていてもおかしくないので、強くは言えなかった。
だが
「もちろん!」
と、二人から戻ってきたのは本当に快い返事で。俺は初めて不安以上に、やる気が上回るのを感じた。
しかし気を取り直して温室へ引き返す際、ただでさえ羽柴にまで元気づけられるというのはむず痒くて仕方なかった俺を
「そーちゃん、今日は紫倉ちゃんに恥ずかしいとこばっか見られたから、もうこれ以上幻滅されることはないよ。良かったねー」
と奴が小馬鹿にしてきたので、俺は除菌スプレーを三秒間奴の顔面に噴射して憂さを晴らすことにした。
人をおちゃらかさないと気がすまない羽柴は本当に残念な奴だ……奴には口が裂けても言わんが、普通にしていればいい奴だというのに。
俺と羽柴のやりとりに紫倉さんはおろおろするばかりだったが、例の花壇を前にすると
「シナガセさんの今日の努力で、きっと、未来にキレイな百日草が咲きます。ステキなことですね」
なんて、何のてらいもなく微笑みかけてきたので、俺は目をくしゃくしゃに細めた。
西日に照らされて豊かな黒髪を橙に染めた紫倉さんは、まるで後光を背負っているように眩しくて、温かくて、なぜか懐かしささえ覚えるほどで。
久しぶりに外気に触れた剥き出しの手へ、俺は視線を落とす。手のひらにまだ、軍手で紫倉さんに握られた感触がじんわり残っていた。彼女がかけてくれた、優しい言葉の数々も。
それらが指の隙間から零れていかないよう、俺はそっと拳を握った。
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