第11話潔癖男子の挫折

しかし、それでめでたしめでたし、今日の活動は終わり。なんて――そうは問屋がおろさなかった。


 俺がこの蒸し暑い温室に何しに来たかって言うと、紫倉さんから優しい言葉をかけてもらうためではないのだから。


 そう、話を戻すと、俺は百日草の種を蒔かねばならんのだ。素手で。


「そーちゃん、今の気分は?」


「お前で言うところの、魚の内臓をブチブチっと素手でえぐり取るように引っ張りだして三枚におろすくらいの恐怖を感じている」


 拳をマイクに見立ててレポーターよろしく尋ねる羽柴に、俺は今わの際のような声で囁いた。


 羽柴は「うえ」と不快そうに呻くと、鳥肌の立った腕を抱きこむように、カッターシャツの上から摩る。


 それを見て溜飲が下がるのも一瞬だけだ。俺は死地へ赴くような気持ちで机の上に五つばかり並べられたポットと対峙した。


 ビニールポットの中にはすでに、紫倉さんによってカクテルのように割られた用土が入っている。培養土や牛ふん堆肥の割合が何たらと言っていたような気がするが、紫倉さんの説明に耳を傾けている余裕など、今の俺にはこの用土の一欠片分もないのが正直なところだ。


「し、シナガセさん、無理はしなくていいんですよ……?」


 俺の顔色がどんどん青くなっていくことに気付いたのか、右隣に立った紫倉さんは、労わるように声をかけてきた。


 素手で触るよう促していた羽柴も、さすがにちょっと心配になってきたのか眉を曇らせる。


 多分、このまま俺が尻ごみしていれば、最終的にはこの二人は折れてくれる気がする。そうすれば俺は、手が竦むほどの恐怖と嫌悪から解放される……が……。


 それでは、いつまでたっても俺は潔癖症のままだ。


「やる。素手で」


 楽な方に逃げてはダメだ。


 紫倉さんに手本を見せてもらったあと、俺は自らを奮起させ、机の上に用意された百日草の種のパッケージを指先でつまんだ。


 一口に百日草と言っても様々な種類があるらしく、三種類ほどのパッケージが紫倉さんによって買い揃えられていた。


 俺が選んだ物はそのうちの一つ、黄色やピンク、赤や白の百日草の写真がプリントされたパッケージのものだ。


 エレガンスという種類らしく、丸い花弁がウェディングドレスのパニエのように幾重にも重なっていて、いかにも女子が好きそうなダリア咲きの花だった。


 花にはあまり興味のない俺だが、そういったことに思考を向けていないと、このパッケージは誰かが汚い手で触ったものではないのかと、どうしても不潔恐怖が湧いてしまう。


 紫倉さんたちが息をひそめて見守る中、震える手で封を切った俺は、汗ばんだ手のひらに、一センチにも満たない種を三粒落とした。


 土の中に植えるだけ、植えるだけだ。一つのポットに間隔をあけて三粒、置けばいいだけだ。


 俺は大きく深呼吸すると、一息にトライアングルに種を蒔いた。そして土に触れた人差し指を、熱いやかんから手を離すようなスピードで引っこめる。


「あとは覆土して、種が顔出さないように土を軽く押さえるだけだよ。そーちゃん!」


 羽柴め、軽く言ってくれる。普通の人にとっての単純な作業が、俺にとってどれだけ苦痛を強いられると思っているんだ……。


 不快感が着実に上がっていくのを感じながら、俺は袋に入った用土を新品のシャベルですくい、見た目だけはカップケーキのカップのようなポットの中へ流しこんだ。


「シナガセさん……」


 紫倉さんが固唾を呑んだ。


 ここからが最難関だと、彼女の目が訴えていた。


 大丈夫だ、汚くない、汚くない。平気だ。泥だらけの紫倉さんを見たって、嫌悪感など湧かなかったんだから、俺が土に触るのだって、大丈夫なはずだ。


 両手の指の腹で、冷たい土に撫でるように触れる。思わず手を引っ込めそうになったが、歯を食いしばってこらえた。種の上に土を被せていき、軽く押さえる。


「やった!」と紫倉さんと羽柴が声を重ね、紫倉さんは小さく拍手した。


「やりましたね、シナガセさん!」


 息を弾ませ、ポニーテールを揺らしながら紫倉さんが俺の顔を覗きこむ。そこで、紫倉さんの笑顔が歪んだ。


「……シナガセさん! 大丈夫ですか!?」


「そーちゃん?」


 泣き出しそうな紫倉さんの声に異変を感じ取ったのか、羽柴も俺の顔を覗きこみ、鼻の頭にしわを寄せた。


 ……どうやら今の俺は、イケメンの顔を台無しにしてしまうくらいには、様子がおかしいらしい。


 息が浅くなり、額に脂汗が滲む。今すぐ全てを洗い流したい衝動に襲われて喉が渇いた。


「……わ、るい……っ」


 息もからがら謝ると、俺は土から手を離し、生気の抜けた顔でよたよた後退した。踵を返し、温室から逃げ出す。紫倉さんたちの引きとめる声が背中へかかったが、俺は振り返れなかった。



 水道、水道、水道。


 頭の中で念仏のようにその単語を唱える。


 俺はもつれる足で走りながら、水道を求めて目をぎょろつかせた。


 一種の興奮状態にでも陥っているのか、普段ならすぐ見つかる水道も、体育館の裏に来るまで見つけられなかった。


 部活の時間帯だからか、運動部のマネージャーがそこの水道を占拠してスクイズやコップを洗っていた。


 しかし俺が血相を変えて走り寄ると、彼女たちは短い悲鳴を上げて飛びのいた。


「借りるぞ……っ!」


 吠えるように言うと、俺は蛇口の開いた水道を横取りした。勢いよく流れている水へ両手を突っこむ。ばしゃばしゃとうるさい音を立てながら、一心不乱に手をこすった。


 息を荒げながら、皮膚を剥ぐような勢いで手を洗う俺に、異様な気配を感じとったのだろう。一年生の体操服を着たマネージャーは、流しに転がっている泡だらけのスクイズをかき集めると、尻に火がついたように逃げだした。他のマネージャーも怖々とそれに倣う。


 申し訳ないとは思いつつも、俺は手を洗い続けた。


 もはや執念に近い。こすってもこすってもまだ汚れがこびりついている気がして、気が狂いそうになる。


「……大丈夫だ、大丈夫……もう汚くない、汚くない……」


 俺はままならない呂律で、呪詛のように言葉を吐きだした。


 大丈夫、汚くない、汚く……汚くないって、無理矢理納得させているだけで、本当は汚いんじゃないか?


 そういえば、親指がささくれていた。そこから何か菌が入って病気になったりするんじゃないか――――……。


 不快感や疑心が胸の内でボコボコと泡立って、俺の恐怖心を沸騰させていく。自分ではそれを止められなくて、いっそ気絶して楽になりたいと思った。


「シナガセさん!」


 半狂乱に陥った俺の動きを止めたのは、紫倉さんの大声だった。


「シナガセさん、もう十分キレイです。手を洗うのを止めて下さい!」


 気付くと俺の両手は、紫倉さんの軍手に包まれた両手によってしっかりと押さえこまれていた。びしょびしょに濡れた軍手の隙間から覗く俺の手は、血が滲みそうなくらい赤く染まっている。


 それまで遠くなっていた耳に一気に音が流れこんできて、水の流れる音がやけに痛く感じられた。


 紫倉さんは走って追いかけてきてくれたらしく、首元におくれ毛をまとわりつかせていた。息も乱れ、肩が忙しなく上下している。


 それでも、俺の呼気の荒さに比べれば数倍ましだった。


「もうキレイです。汚れは落ちましたから、これ以上洗わなくても、大丈夫ですよ……」


 紫倉さんは息を切らしながらも、いつになくしっかりした声で、俺の目をまっすぐ捉えて言った。そして「大丈夫」と根気よく繰り返す。


 安心させるように告げられた言葉は、水が柔らかいコットンに浸透していくように、しっとりと俺の心へ沁みこんでいく。そして逆立っていた俺の神経を、羽がかすめるような優しさで撫でていった。


 俺は電池が切れたように動きを止め、ふやけかかった手のひらに視線を落とした。紫倉さんは静かに手を離すと、最大限に開かれていた蛇口をしめる。


 しめられた蛇口とは裏腹に、俺の心からは諸々の罪悪感が溢れ出して、全身をずぶ濡れにしていった。


「座りましょうか」


 紫倉さんに凪いだ声で提案されて、俺は言葉を知らない子供のように顎を引いた。



 体育館の軒下にある冷水機。その隣には、背もたれのないベンチがある。


 紫倉さんは濡れた軍手を脱ぎ、スカートのポケットから予備の白いハンカチを取りだして、ベンチに広げた。


 広げた際に洗剤の香りが鼻孔をくすぐって、俺は何故だか少し泣きそうになった。紫倉さんは俺へ、ハンカチの上に掛けるよう勧める。


 普段の俺なら何か言っていたはずだが、まだ本調子に戻らない俺は、伴侶を失った老人のごとく打ち萎れ、背中を丸めて座った。


 その隣に紫倉さんが腰掛ける。ほどなくして、食堂へ続く渡り廊下からミネラルウォーターを手にした羽柴もやってきた。


「自販機で買ってきた。飲みなよ、落ち着くから」


「……悪い」


 受けとったペットボトルは濡れていて、少し温かった。羽柴は口に出さなかったが、恐らく奴は、俺を気遣ってペットボトルの表面を洗ってからきたのだろう。キャップを開けながら、俺は情けなさに死にたくなった。


 こんなに弱い姿を二人に晒すはめになるなんて、と悔み、それから俺は元々根性なしだと思い返した。


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