第22話潔癖男子の過去①
ケーキ屋の角を曲がり、駅前の大通りを抜ける。最近舗装されたであろう瀟洒な酒蔵通りを、俺と紫倉さんは無言で歩いた。
姉さんたちの姿が見えなくなったところで、俺は歩くスピードを落とす。息を切らしていた紫倉さんは、ほっとしたように隣へ並んだ。そのことに少し罪悪感が湧く。彼女を見下ろすと、ちょうど紫倉さんも、うかがうように俺を見上げていた。
「何か聞きたそうだな」
俺は苦笑交じりに言った。
それはそうだろうな。あんな修羅場を見せられて気にならない方が不思議だ。
「あっ、いえ、あの……」
紫倉さんはうろたえたように目線を泳がせたが、質問してきた。
「シナガセさん、ご家族と一緒に住まれていないんですか」
「ああ、実家はこの街にあるが、高校に上がる際に一人暮らしになって、今は学校の近くのアパートに住んでいる」
ちなみに俺の実家の向かいに住む羽柴は、この街から電車で通学している。そこまで説明すると、紫倉さんは「あれ?」と一つまばたきをした。
「……わざわざ一人暮らしする距離でもないと思っただろう?」
「ほえっ!? あう……あの、はい……。でも、何か理由が、あるんですよね?」
理由……か。
「……理由は、俺が潔癖症だからだ。今の会話、聞いていただろう? 母さんとは折り合いが悪いんだ」
「あ……」
紫倉さんは地雷を踏んでしまったような顔をした。
「あ、あの……」
「何だ?」
「どうして潔癖症になったか……お聞きしても、いい、ですか?」
紫倉さんにしては珍しく踏みこんできた。でもそれは一瞬のことで
「あ、あの! ダメなら、いいんです! 言いたくないですよね! すみません、私ったら、無神経、でした……」
と、申し訳なさで死んでしまいそうな顔で言った。
「ただ……もっと知りたくて、シナガセさんのこと。私、知らないことが沢山あるなって、思いまして……」
俺は前に向き直る。歩道橋の向こうに、ホームセンターの看板が見えてきた。
着くまであと五分くらいか……道中の会話にしては暗いかもしれないが……。
「きっかけは些細で、瑣末なことだ」
紫倉さんはパッと顔を上げた。俺が本当に話しだすとは思わなかったらしい。だが今の俺は、潔癖症になった理由を、紫倉さんには知っておいてほしい気がしていた。
「俺の父は開業医の眼科医で……母はそこで受付の仕事をしているんだが……眼科は結膜炎の感染症患者などが多くて、衛生面はとてもうるさかった。どこの病院でもそうだろうが、職場の人間は手洗いを頻繁にするし、問診票のボードやボールペンは使うたびにアル綿で消毒してた」
「……アル綿?」
「アルコールを浸したコットンのことだ。感染症患者が来た場合は、患者から受けとった金も、お札まできちんと拭いていた。その患者が座った椅子もだ。消毒したあとは、一週間別の場所に置かれ、触るのは禁止されていた」
「そんなに……」
「そういうのを物心がついた頃から身近で見ていたし、仕事面において両親はうるさかったから、必然的に『不潔はいけない』『清潔でいなければいけない』って強迫観念が植えつけられていった。周りには菌がうようよ繁殖していると思うと気分も悪くなった。ああ……両親が他の事務員に衛生面の管理についてがなりたてているのを見て、自分が怒られている気分にもなったな」
当時の光景は、目を閉じるだけで瞼の裏にありありと浮かんでくる。託児所を嫌がる幼い俺を、家に置いておくわけにもいかないからと、母さんは医院に連れて来ていた。
そこでの母さんは鬼のように怖い顔で、よく事務員を叱りつけていたものだ。
「ねえ、何回言わせるの? ちゃんと拭きとらないと菌が残るでしょ!? 他の患者さんが感染したらどうするのよ!」
「す、すみませんでした……っ」
平謝りするアルバイトの女性へ向かって、母さんは苛ついた様子でボードを押しつけた。
「それからあんたも! さっき診察室に通した患者、目が赤かったでしょ! あれは結膜炎患者だから、別の診察室に通さなきゃ、他の人に移るじゃない!」
受付のアルバイトの子にも、母さんは怒鳴りつける。別に、至極当たり前の注意をしているだけだ。でも、当時の幼い俺には、母さんは血も涙もないくらい冷たく見えた。
それに……
「湊多! その椅子には触らないでって言ったでしょう!」
消毒するために退けておいた椅子へ俺が座ろうとしているのを見つけた母さんは、俺の頭を叩いて叱った。
「ご、ごめんなさい……」
「他の人に移ったら大変なんだから、すぐに手を洗ってきなさい! 洗い終わったら、あっちで大人しくしててよ!?」
汚い物はあちこちに溢れている。そういう観念が、俺の中で蓄積されていった。綺麗にしていなければいないのだと。
……刷りこみにも近かったと思う。
幼い俺には区別がつかなかった。医療機関だから清潔にしていなければならないというルールを、日常生活にも当てはめて考えてしまっていた。
その頃から、手を洗う回数が増えていった。指先に汚れが詰まっている気がして、深爪になるくらい爪を短く切ったりもした。……自分が汚れているように感じた。
職場では衛生面に口うるさい母だったが、お世辞にも家の中は綺麗とは言えなかった。
両親は一週間のうち六日も働いていたから、掃除にはあまり手が行き届いていなかったのだ。
背の届かない棚の上に飾られた写真立てや置物へ、埃が溜まっていくたびに感じる嫌悪。シンクに口紅のべったりついたグラスが、中の水が飲みかけの状態で置いてあるのを見るとわく不快感。
……親から『綺麗に手を洗いなさい』と言われているのに、綺麗でいなくちゃいけないのに、周りの物が汚れていて、触ると自分まで汚れるんじゃないかと、怖くなっていった。
病的なくらいに、掃除をするようになった。洗面所の水滴一つさえ、綺麗に拭きとるくらいに。けれど、その時はまだ家族の誰も、俺の異変に気付いていなかった。
……私生活を顧みないほど仕事人間の両親だったから、当然と言えば当然だった。
今では何かあるたびに世話を焼いてくる姉さんも、当時は青春を謳歌するのに忙しかったのだろう。年の離れた俺は、面倒がかかると煙たがられてさえいた。
大人は、俺に無関心だった。
「美波、母さん仕事に行ってくるから、湊多のことお願いね」
靴べらを使ってハイヒールを履きながら、母さんはこちらを見ずに言った。当時高校生ながらませた化粧をしていた姉さんは、アイラインに囲まれた目を不服そうに細める。
「えー? 何で土曜日なのにアタシが湊多の面倒みなきゃいけないのよー」
「当然でしょ、お姉ちゃんなんだから。じゃ、行ってくるわね」
小気味よい足音を立てながら、母さんはさっさと玄関を出てしまう。閉まった扉に向かって、姉さんはヒルのような舌をベーッと突き出した。
それから腕を組み、俺を見下ろす。姉さんは笑っていたが、その目から発せられる視線は、厄介者へ向けられるそれだった。
「湊多、ごめんねぇ。お姉ちゃん、今からデートなのよ、デート。でも、お姉ちゃんがいなくても湊多は一人でも平気よね。いい子にしていられるでしょ?」
「いい子?」
「そ。冷蔵庫に多分おやつ入ってるから、手洗って食べて、部屋は散らかさないでいてくれりゃいーんだけどぉ? あ、ゴミは綺麗に片付けといてね」
「……手洗いうがいして、いい子にしてる」
「そうそう、偉い偉い。綺麗にしといてよー。あ、汚い物には触んないで。家事増えちゃうから。むしろ掃除してくれてると助かるんだけど、まっ、ガキんちょにそれは無理か。まあ、いらないことしないで、いい子にしててね」
「…………うん」
毎日、耳にするのは玄関の扉がガチャンと閉じる音。そしてそれから訪れる、一人ぼっちの物悲しいような静寂。
「……うん。清潔にして、いい子にしてるよ……」
その場にしゃがみこみ、床に向かって言い聞かせるように呟く。
……俺のねじ曲がっていく性癖を、止めてくれる人はいなかった。
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