第28話潔癖男子の決起
片鱗はあったように思う。ここのところずっと雨続きだったし、夏が近付くにつれて奴が勢力を拡大させるのは、毎年のことだ。
奴が何かって……台風、だ。
「直撃するとしたら夜だってさ。いつも通り多分それるけど」
「だよな。この地域ってあんまり直撃したことないし。でも明日の練習試合は中止かもなー」
土曜日の午前中、水飲み場にたむろしていた生徒たちが言う。部活の休憩中なんだろう。体操服を着た彼らの会話を耳に挟みながら、俺は水道の蛇口をひねる。じょうろの中に水が溜まりきる前に、水面が波紋を描いた。
「……もう降ってきたか……」
じょうろの中に、ボチャボチャと雨が落ちていく。水やりに来ていた俺は、その必要なかったな、と曇天の空をあおいで思った。
「紫倉さんから百日草の面倒を頼まれているってのに……」
普段なら紫倉さんや羽柴と共に水やりに来ているのだが、今日は朝一で二人から都合が悪いとメールがきた。
傘を置いている温室まで走って戻り、スラックスのポケットから携帯を取りだす。メール画面を開き、控えめな文章が書かれた紫倉さんのメールを読み返した。
『すみません、シナガセさん。一人暮らしのおばあちゃんが心配なので、様子を見に行くことになりました。水やりに行く約束をしてたのに、今日は無理そうです。ごめんなさい』
画面の向こう側から打ちひしがれたような気配さえ感じる文面。一緒に水やりに来られなかったことは残念だが、彼女の人柄がにじみ出た文面に和んだ俺は、メールを保護した。
羽柴から届いたメールは紫倉さんの文面に比べると、風に舞っている紙切れのように軽いものだった。
『ごめんそーちゃん、妹ちゃんが風邪引いちゃってさー今日行けない!』
デコ文字で装飾されたメールは、画面を開いただけでチカチカする。その上奴の文面といったら、何だ、申し訳なさの欠片も感じない。いや、奴が年の離れた妹を可愛がっているのは俺だって重々知ってるから、それは別にいいんだが。しかし何となくイラッとしたので、俺は羽柴のメールを削除した。
「風が強くなる前に、俺も帰るか……」
朝一番に携帯で台風の進路を調べた限りでは、直撃はなさそうだった。それでも校門へ続く道に植わった木々が風で大きくしなっているのを見て、俺は歩く速度を上げた。
「…………」
午後になると、先ほどよりも風が強くなった。
帰宅してからアパートに閉じこもっている俺は、窓ガラスを叩く強風に目を細める。ベランダの方から、隣人の物干し竿が倒れる音が響いた。どこかでバケツの転がる音が聞こえる。
俺はカーテンを開け、磨き上げられた窓ガラス越しに空を見上げた。夏前の十七時だというのに、空はスモッグに覆われたような灰色をしている。これは部屋の電気をつけなくては暗いな、と、俺はサランラップでくるんだスイッチを押した。
同じくサランラップでぐるぐる巻きにしたリモコンを手に取り、テレビをつける。ちょうど警報のテロップが流れていた。
「……台風の進路が変わってる?」
思わずテレビにかじりつき、台風情報を聞き入る。朝にニュースを見た時とは進路がずれ、俺の住む地域を直撃するコースに変わっていた。しかも、速度が格段に上がっている。
「どうりで、風が強いわけだ……」
そう言うや否や、遠くで雷が鳴りはじめた。次第に雨音は大きくなっていき、大きな雨粒がベランダの桟を叩き始める。そろばんを弾くような雨音が室内に響いた。
再び窓際へ寄ると、窓ガラスに雨が滝のように伝っていた。ますます激しさを増す雨の中、時折フラッシュを焚いたように外が光っては、地鳴りのごとき雷鳴が轟く。
強風が近所の木を揺らしているため、視界の悪い中では、無数の不気味な影が蠢いているように見えた。
「もしかして、暴風警報まで出ているのか……?」
気象情報を調べて見るが、まだ注意報しか出ていない。しかし、警報が出るのは時間の問題だろうと思った。
買い物は昨日済ませてあるから、今日家から出る特別な用事はない。このアパートで水漏れしたことはないから、その心配はいらないし、停電にだけ備えて準備をしておけばいい。
そう、俺はいいんだ。
「だが……」
花は、どうだろう。芽が出たばかりの百日草は、この嵐に耐えられるのか……?
「大丈夫だよな、マルチングもしたし……」
こんな日のためにマルチングをしておいたんじゃないか。そうだ、大丈夫だ……。
俺は落ちつきなく、台所から寝室を行ったり来たりした。時折窓の外へ視線をやっては「うう……」と頭を抱える。窓の外は、豪雨でけぶったように白くなっていた。
そもそも、マルチングって、台風を想定した対策なのか? 根っこごと吹っ飛んでいきそうな強風に、百日草が耐えられるのか? というか、この降雨量だったら、一発でやられてしまうんじゃないか?
「だからって……どうすれば……」
部屋の中央で立ちつくす俺。そんな時、風と雨の轟音に混じって、中年の太い声が外から聞こえてきた。気になって玄関の扉を開けると、アパートの隣にある瓦屋根の家に住むおじさんが、カッパを着て屋根の上に上がり、青いビニールシートで屋根を補強し終えたところだった。
「これで大丈夫だろうよー!」と、おじさんが屋内にいる奥さんへ声をかけている。俺の視線は、おじさんが手に持っているビニールシートに釘付けになった。
そうだ……! あれなら……。
今の俺は、珍しく冷静さを欠いているように思う。一時の感情のまま行動しようとするなんて。
傘をさしてアパートの階段を駆け降りた俺は、おじさんに余ったビニールシートを借りるために交渉した。
「いいけど……兄ちゃん、何に使うんだ?」
「学校の花壇に植えてる花へ、かぶせようと思って……っ」
手短に説明する。もしかしたら、これから「風がきつくなるから止めておけ」と止められるかと危惧したが、おじさんは情に脆い人だったらしい。
「兄ちゃんお前、いい奴だなぁ! いいぞ! 持ってけ!」
と、快くビニールシートと杭、トンカチを貸してくれた。
俺はおじさんに頭を下げてビニールシートなどを受けとる。ラテックスをはめた俺の手におじさんは不思議そうな顔をしたが、突き上げるような突風を食らって、それどころではなくなった。
「うわっ!?」
重力に逆らったように傘がひるがえった。そうかと思えは、強風に煽られて傘の骨が折れる。俺は一瞬で濡れネズミになった。
「兄ちゃん、お前まさか、学校まで傘で行く気じゃねえだろうなぁ?」
「え……」
バケツをひっくり返したような雨に打たれながら、俺は口ごもった。
「そのつもりでした。カッパなんて小学校以来着てないし、そもそも持ってないんで」
「はあ? そんじゃあ、これ着てけ! この暴風じゃ傘なんか役に立たねえぞ!」
おじさんは着ていたカッパを脱ぎながら言った。俺は思わず一歩後退する。
おじさんには感謝しているが、人がはおっていた物を着るのは……。
「い、いえ、悪いですから……遠慮します」
やんわり断ろうとすると、おじさんは眉を吊り上げた。
「遠慮なんていらねえよ! いいから、これ着てはよう行け! 返さなくてもええ! それよりもたもたしてたら花壇、やられちまうぞ!」
「……!」
雨がしとどに俺を濡らしていく中、紫倉さんの曇った表情が浮かんだ。
花を我が子のように可愛がっている紫倉さんが、もしこの台風で百日草がだめになったとしたら、どう思うだろう?
優しい彼女のことだ。きっと自分を責めるに決まってる。「私の落ち度です」って、俺たちに申し訳なさそうに謝って、自分は平気な振りをして笑って、きっと誰も見ていないところで肩を落とす。
「……すみません、借ります」
そんなのは、嫌だと思った。
多分紫倉さんは今頃、不安そうな顔で窓の外を眺めているはずだ。昨日のうちに補強しとけばよかったって、自分を責めているはずだ。そんな優しい紫倉さんに、後悔なんてさせたくない。
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