第6話潔癖男子の否定

「昨日は、本当にありがとうございました」


 多目的室や図書室が並ぶ特別教室棟、その中でも特に人気のない階段の踊り場まで辿りつくと、掲示板を背に紫倉さんは頭を下げた。


「私の責任ですが、志摩さんたちに叱られて凹んでいたので、シナガセさんが声をかけてくれた時は、すごく嬉しかったです」


 いや、俺はあんたの前で盛大に気をやっただけで、役に立てていないどころかむしろ迷惑をかけてしまったのだが……。


 そう思いはしたものの、紫倉さんがそう受け取らなかったのは幸運なことだと自分を納得させ、俺は墓穴を掘る発言は避けることにした。


 自ら失態を蒸し返す必要はないはずだ、多分。


「実は、これをお返ししたくてお呼びしたんです」


 そう言って、紫倉さんは歩いている時もずっと隠していた両手を前へ出した。


 軍手をはめた彼女の小さな手には、昨日俺が差しだした、チャコールグレーのハンカチが握られていた。


 ――――……いや待て、何故軍手なんだ?


 俺が軍手に目を奪われている間に、紫倉さんは一生懸命身ぶり手ぶりで話しだす。


「あ、あのっ。私のクラスの方からお聞きしました、シナガセさんは潔癖症だって……。汚いのが苦手なのに、私にハンカチを貸して下さるなんて……申し訳なかったです」


 叱られた子供のようにうな垂れた紫倉さんは、パッと顔を上げて訴える。


「このハンカチ、キチンと洗いましたのでっ」


「あ、ああ……。わざわざすまない……。その軍手、は? どうしてはめているんだ?」


 俺は紫倉さんの手を指さした。


 軍手は見たところ、おろしたてのようだ。これから授業が始まる前に土いじりでもするんだろうか。素朴な疑問だったが、紫倉さんは言いにくそうに苦笑を零した。


「もし私が素手で渡したら、『ハンカチが汚れてしまって、色加瀬君がまた倒れたら困るでしょっ』て、クラスの方に言われましたので……」


 紫倉さんは自嘲気味に続ける。


「私、『ドロ子』だから、その通りなんですけど。あっ! でもあの……ハンカチは軍手をはめた手でしか触れていないので、受けとってもらえますか……?」


 紫倉さんは親の機嫌をうかがう子供のような目で俺を見上げ、控えめに懇願してきた。


 はっきり言って、オニキスの瞳に薄い涙の膜を張って、しかも上目遣いで尋ねてくる紫倉さんは、そこらのアイドルより何倍も愛らしいし、どんな願いでも叶えてやりたくなる。


 が、そんなことに気を奪われている暇もないほど、今の俺はショックを受けていた。


 紫倉さんが素手でハンカチを渡したら俺が倒れるとクラスの奴に言われただと?


 私はドロ子だからその通り?


 ……何だそれは。


「――――……違う!」


 目の前が真っ赤に染まって、俺は腹の底から否定した。


 叫び声は踊り場に反響し、運動場に面した大きなはめ殺しの窓を震わせる。紫倉さんは飛び上がり、ハンカチを固く握りしめた。


「し、シナガセさん……?」


「違う、誤解だ。俺はミミズや土が汚くて嫌だっただけで……紫倉さんが汚いと感じたから倒れたわけじゃない」


 だから紫倉さんが、自らを卑下する必要なんてないというのに。


「え……?」


 紫倉さんは不意打ちをくらったように目を瞬かせた。


「私のこと、汚いと思ったから倒れてしまったんじゃ、ないんですか?」


「そんなの違うに決まってる!」


 俺は即座に否定した。


 誤解だ。というか、完全に俺の失態だ。潔癖症の本人である俺にとっては、失神した理由がミミズや土に拒絶反応を起こしてしまったからだというのは考えるまでもないことだが、俺の内情なんて紫倉さんが知るはずもない。


 俺が倒れた理由が「潔癖症だから」ということしか知らない彼女が、悪意のこもった周囲の人間に「ドロ子のせい」と言われて、鵜呑みにするのは無理もないことだ。


 いや、そもそも、その悪意のある周囲すら、俺が何の汚れに拒否反応を起こして倒れたのか正確に理解していない以上、紫倉さんのせいだと勘違いして、いい加減なことを吹聴していても責められない。


 つまりは、俺が潔癖症であることに問題があるのか……。


 俺が不潔恐怖症でなければ、紫倉さんが誤解をして、嫌な思いをすることもなかったはずだ。


 俺は自分を放り投げたくなるくらい、自分が嫌になった。


 ……とにかく、俺のせいでこんな誤解を生み彼女に不快な思いを抱かせてしまったならば、絡まった糸はほどかねばならない。


 とは言ったものの、どう説明すればいい……?


 上手い言葉が見つからず言いよどむ俺に、紫倉さんは曖昧な微笑を浮かべた。


「気を遣わなくても、ダイジョーブ、ですよ。シナガセさん」


「いや、そうじゃなくて……」


「私『ドロ子』ですから、シナガセさんでなくても嫌悪感を抱く方は沢山います。だから……」


「――……あんたは『ドロ子』なんかじゃない。自分で自分を『ドロ子』なんておとしめないでくれ。あんたは綺麗だ!」


 俺は半ばムキになって、勢いよく断言した。


 ……そう。勢いで言ってしまったのだが――――……大きな目を零れ落ちそうなほど見開く紫倉さんの反応を見て、俺は自らの失言に気付いた。嫌な汗がダラダラとこめかみを伝っていく。


 おい、待て俺。落ちつけ。


 紫倉さん本人に向かってどストレートに綺麗だと?


 かろうじて友人と呼べるのは羽柴しかいない俺だ。コミュニケーションが下手なのは自覚していたが……直情径行にもほどがあるだろう。何なんだ、俺のチャックの緩い口は。好きな先生に思わず告白する幼稚園児かっ。


 恥ずかしさがじわじわとこみ上げてきて、耳がやたらと熱を持ちはじめた。穴があったら入りたい気分だ、もちろん穴を殺菌してからしか無理だが。

 いや、今はそんなことどうでもよくて、ああ、でもどうでもいいことへ思考回路が現実逃避しているくらいには、俺はうろたえているらしい。


 しかし戸惑っているのは紫倉さんも同じようで、彼女は新雪のような肌を額から首まで真っ赤に染めた。言葉を探すように黒髪を耳へかけている。


 そんな初な反応も可愛らしいが、相手に赤面させるような台詞を言ってしまったとますます思い知らされて、俺はこの場から煙のごとく消えてしまいたくなる。


 紫倉さんは視線を泳がせた後、小さくはにかんだ。


「あの……」


「言っておくが、お世辞じゃないぞ」


 彼女の言わんとしていることが読めた俺は、やけくそになって叫んだ。


 ああ……もうどうにでもしてくれという心境だ。己が恥ずかしい思いをするよりも、紫倉さんに誤解されたままの方が嫌だ。


 そうだ。これを限りに彼女と関わることもないなら、言ってしまってもいいだろう。腹をくくった俺は、自動操縦にでも切りかわったように話しだした。


「潔癖症で土に触れない俺にそう言われても……信憑性はないかもしれないが……本音だ。土は苦手だが……初めて紫倉さんを見た時だけは、土に塗れていても、汚いとは思わなかった」


 瞳を震わせる紫倉さんへ、俺はだめ押しした。


「あの時だけは、泥も気にならなかった」


 これは、まごうことなき本音だった。


 そもそも俺が今まで他人に恋心を抱いたことがないのは、人に対して汚いという意識を持ってしまうからだ。


 けれどあの時、雨の中で彼女の微笑みを見た時は、彼女の姿が泥だらけだったにもかかわらず、汚いという感情が湧いてこなかった。何故かは分からないが。


「だから……だから、紫倉さんが周りの人間から心ないことを言われて、気にすることなんてないし、ましてや俺に、申し訳なさそうな顔をする必要なんてない。むしろ……俺が潔癖症なせいで、紫倉さんに嫌な思いをさせてしまった。……すまない」


 つたない言葉で伝えた後、俺は紫倉さんへ頭を下げた。頭上で紫倉さんが小さく息を呑む気配がする。


 俺は顔を上げると、紫倉さんの手に握られたままのハンカチを掴んで言う。


「クラスも違うことだし、もう関わらないから安心してくれ」


 短い初恋だったが、紫倉さんの穏やかな人柄を知れただけでも大きな収穫だったと思う。


 さらば、俺の初恋。


 勝手に紫倉さんとの出会いを昇華しはじめた俺は、ハンカチを受けとってその場を後にしようとした。


 ……したのだが。


「……あの、紫倉さん?」


 何故か紫倉さんは、両手でハンカチを掴んだまま、頑として離そうとしなかった。


 俺もハンカチを握っているので、バーゲンで獲物の服を掴み合って離そうとしない客同士のような図になっている。何だこの状況は。


「紫倉さん、あの、手を離してくれるとありがたいんだが……」


「え? あ、す、すみませんっ」


 紫倉さんはたった今気付いた様子で、弾かれたように手を離した。それから軍手に包まれた手のひらを物思いにふけった顔で見つめ、寂しそうに唇を結んだ。


「し、シナガセさんは、優しいですけど、ちょっと勝手ですね」


 目を見開く俺へ、紫倉さんは声を裏返らせながら言った。


「いえ、か、勝手ではないですけど、でも……すみません、混乱、してて……だけどあのっ、私のこと、汚くないって、き、キレイだって……言ってくれたのに……そんな風に言ってもらうの、初めてで、すごく嬉しかったのに……もう関わらないなんて…………寂しいこと言うから……」


 尻すぼまりに言った紫倉さんは、くしゃりと顔を歪めた。


「え、あの……すまない……?」


 俺は困惑の色を隠せないまま、とりあえず謝った。


 気を利かせたつもりだったのだが、もしかして紫倉さんは、俺と関わらないことを、少しは残念に思ってくれているのだろうか――――……。


 そんな甘い期待が膨らみかけたところで


「そーそー、せっかく知りあえたんだから、仲良くしなきゃ」


 と、能天気な声が割りこんできた。


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