第5話潔癖男子の再会

 羽柴が人を食ったような笑みで言った言葉の意味を、俺は近い未来に痛感することになる。


 しかし廊下の一件から一夜明けた朝、透き通った声で紫倉さんが俺を呼んだ時には、まだそんなこと、予想すらしていなかった。


「シナガセさん、いますか」


 可憐な声が聞こえたのは、ホームルームが始まる前の時間帯。紫倉さんが訪ねてくるなど露ほども想像していなかった俺は、窓際の席に腰かけたまま固まってしまった。


「色加瀬ーっ。紫倉が呼んでんぞー」


 教室の入り口付近にいたクラスメートの水野が、大声で俺を呼んだ。


 スタジアムの端から端に向かって叫ぶような声で呼ばなくても、聞こえているに決まっているだろう馬鹿め。わざとクラス中に聞こえるように声を張りあげたな、その坊主頭を除菌するぞ。


 不本意なことに、昨日の一件はクラス内に留まらず学年全体に浸透しているようだった。今のところ、直接俺へ何か言ってくる輩はいないが、紫倉さんの登場によってクラス内はにわかに騒がしくなった。


 くそ、黙らないと除草剤をまくぞ。


 苛立ちのせいで呪縛が解けた俺は、教室の入り口で待つ紫倉さんの元へと歩みを進める。


 その途中でひやかすような視線があちこちから飛んできたため、俺は鋭い目線を送って牽制しておいた。


 しかし、だ。俺は元々が仏頂面なため、外面こそ落ち着いているように見えるだろうが、内心は早鐘を打っていた。はっきりいって、小鳥の方がまだゆとりのある脈を打つんじゃないだろうか。


 頭の中では、鍋をお玉でかき回したように「何故」の二文字がグルグルめぐる。


 紫倉さんは何しに来たのだろう。何の用だ、何を言われる……?


 好きな相手に会えることは嬉しいが、何せ昨日の失態が最悪すぎて、ネガティブな想像ばかりが脳裏に浮かぶ。


 気乗りしないまま紫倉さんの前まで行くと、彼女は緊張した面持ちで、舌足らずに確認をとった。


「シナガセさん、ですよね?」


「……ああ」


 今日の紫倉さんは、まだ朝だからか、さすがに泥だらけではなかった。むしろ首元できっちり結ばれた赤いリボンや、細い手首を守るように留められたカフスボタンは、見ているこちらに清潔な印象を与えてくる。


「あ、あの、いきなり訪ねてきてすみません。シナガセさんにお話があって。あ、わ、私、紫倉砂子っていいます。それで、ええと」


「すまない」


 後ろ手に何か持っているのか、後ろに隠した手元を気にする紫倉さんの台詞を、俺は強引に遮った。


「え……」


 紫倉さんは虚を突かれたような顔をした。


 彼女はどうやら、話す内容を前もって決めていたようだ。俺に出端を折られると頭が真っ白になってしまったらしく、途端に動揺しだした。眉がしょんぼりと下がっている。


 俺はそんな彼女に申し訳ないと思いながらも「場所を変えてもいいだろうか?」と提案した。


「ここでは人目につくから……」


 聞き耳を立てている周囲を一瞥しながら紫倉さんへ囁くと、彼女はたった今気付いた様子で、「あ、は、はいっ」と首がもげそうなくらい頷いた。


「す、すみません。気が回らなくて……私みたいな『ドロ子』と一緒にいるところ、見られたらマズイですよね……!」


「は? いや……」


 そういう意味で言ったわけではないのだが、どうやら紫倉さんは勘違いをしてしまったらしい。


 俺は彼女とのツーショットを見られるのが嫌なわけじゃなくて、動物園のパンダでも見るような周囲の視線が不快だと伝えたかったのだが。


 それに、自業自得だと分かってはいるが、出来れば「目の前で倒れるなんて失礼ぶっこかないで下さい」とか「白目むいててキモかったです」みたいな死刑宣告は、誰もいないところで頼みたいというのが本音で……。


 というところまで思考が行き着いて、俺はどこまで意気地がないのかと、自らの不甲斐なさを呪った。


「ば、場所を変えましょう、シナガセさん!」


 鬱屈とした俺の心中など露知らず、勘違いしたままの紫倉さんは、率先して廊下を歩きだした。


 その後ろ姿を見つめながら、先ほどの誤解を解かなくては、と思う。


 しかし……


「ええと、昨日は大丈夫でしたか?」


 という、予想外の気遣わしげな質問が飛んできて、俺の思考はフリーズしてしまった。


 聞き間違いでなければ、紫倉さんは今、俺を心配した……?


 どうやら聞き間違いではないらしい。耳を疑うような言葉が次々と紫倉さんの舌に乗っては、俺の耳を喜ばせる。


「あの、保健室まで付き添うべきだとは思ったんですが、先生方に廊下を掃除するよう言いつけられてしまって……。五時間目が終わった後で保健室を覗いた時にはもう、シナガセさんはいらっしゃらなかったので……シナガセさん?」


 気付けば歩みを止めていた俺と紫倉さんの間には、六メートルほど距離があいてしまっていた。


「どうしました? もしかして、まだ具合、悪いですか?」


 リノリウムの床を蹴ってこちらへ駆け寄る紫倉さんに、俺は「いや……」とかすれた声を返すのが精いっぱいだった。


「平気だ、ありがとう紫倉さん……」


 口ではそう言いつつ、少し、厄介かもしれないな、と思う。


 一目見た時から恋心を抱いてしまっているのに、彼女の優しい一面を垣間見てしまっては、ますます慕情は増すばかりで諦めがつかないではないか……。


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