第17話
「あんときサインもらっとくんだったなぁ」
「…………だが、困ったことにもなった」
そのままの姿勢で柱の横を滑り、ごろんごろん、新聞を顔にかけて寝転んだ。
胡座は組んだままである。
「 ”やーこ” の親分が捕まったんでしょ? めでたし、めでたしじゃぁあん?」
カープ女子は来期のドラフト会議に向け、バットの素振りに余念がない。
芳男は庭の隅のほうで、まっしろな灰になっていた。
ぽかぽか天気の One day。
かつては日本有数の繁華街、今では外国人押し寄せるポップなナイス
東京・浅草は、古い一軒家の中庭。ずっこけ三人組は昼めしあとの腹ごなしの余暇を、それぞれ思い思いのスタンスで過ごしていた。
喜一郎が死んでゾンビ化してから福島にいるわけにもいかず、立地条件を鑑み3人は
「まあそれはそうなんだが、色々ややこしくてなぁ」
(ジャジャーーン)
|日本最大暴力団組長、殺人教唆の容疑で逮捕される!| (ジャジャーーン)
(ジャジャーーン)
(ジャジャーーン)
新聞一面、でかでかと文字が躍っているが近すぎて喜一郎にはもう読めない。
殺人
他人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科する。
(刑法第六十一条)
早い話、殺人罪適用。
組織の上層部は自ら手を下したりはしない。刑事たちは幾度となく砂を噛んできた。だがこれならば、本当の悪党を最高刑に処しうることも……可能。
教唆者を教唆した人間にもこの法律は適用され(ややこしいが)応報、芋づる式に組長以下幹部も一網打尽。組織に致命傷を与えうる、天使のランドセル!
今では珍しい木造平屋の庭は広く、レフリー役の喜一郎が縁側の丁度真ん中、赤コーナーにカープ女子、青コーナーには三脚椅子に佇む、不破芳男。
だがこれからタイトルマッチが行われるわけではない。
芳男はかわらず、真っ白な灰となっていた。
「やる奴だとは思っていたが、ここまでのことをすっとはなぁ~」
喜一郎はもはや誰に物言うでもなく念仏のように口をごにょごにょとさせる。
どこに潜んでいたのか会津栄螺堂。自分の十八番、闇夜の囁きを逆に仕掛けた顔も名前も知らない…………関東管区警察局、刑事部のエース!
破天荒の偉業。全国紙の一面を埋めつくし溢れさせる快挙。こんなことは戦後から数えても例がない。大、大、大金星。
刑事生活を振り返って喜一郎にもこんな経験はない。マスコミに対しては精々昔なじみの週刊誌の記者に、依頼した内容を書かせるくらいが関の山。
殺人教唆での立件に失敗は許されない。純然たる現物を握った上での逮捕。
(盗聴テープでも入手したか?)証拠を集め検察をねじ伏せ……いやねじ伏せたのではない。その信頼たり得る存在をして検察も含め、全ての警察の良心をかき集め、説得したのだ。
本来ならば圧力がかかり、塵、霧散する。捜査することさえ許されない。
これは警視庁が一種のパニック状態に陥り機能停止になったが故の間隙を突く特攻……なぜゆえ警視庁全体が機能停止になる程までに追い詰められたのか?
世間の誰も知る由もない。まして漏らすわけにいかない、大失態。社会の安全と信頼を担う完全無欠の組織においてあってはならぬ、スキャンダル。
警視総監が誘拐されたなど……
暴力団抗争の真っ只中、末端の刑事達の中で噂は燻り、上層部への不満は爆発寸前だった。喜一郎の死は猟犬達の闘争本能に火をつける、謂わばトリガー。
ここまでは喜一郎の思惑通り……ではあったが……なにせエースが凄すぎた。
巨人軍が盛り上がれば、阪神球団も黙ってはいない。大阪府警2課が、大阪―京都―広島と連なるマネーロンダリングの容疑で関西の金庫番と目される人物を逮捕した。(惚れてまうやろ~~~~~~)
海外に飛ばした違法資金をJ-REIT(日本版不動産投資信託)として回収する、巧妙な仕組み。
驚いたことにその推定額は甚大で、水面下における名古屋と関西の資金力は、ほぼ互角。専門家であるはずの暴力団対策課をも驚愕させる、予想外の真実。
物事は表面だけでは判らないことだらけ……
しかしこうなっては、靖彦が絶体絶命の窮地に追い込まれたことになる。
政治が割れたら、警察も割れ、やくざも割れた。
カルタの名人なら「せ」の字で「ハイッ」だ。
広域暴力団の組長など、実質は
複雑に絡み合う分子構造。ナノに至るまで密着した相思相愛のカップリング。
隠された、魔物の壺。
警察の裏金がどこで浄化され、どこにプールされている?
官僚の天下りのワンクッション。ダミー会社はどこが供給している?
手を汚せない立場で、もろもろの後始末をどこに任せた?
法律外の圧力を法律外の圧力で相殺しなくては、やってはゆけない社会構造。
仮に靖彦がモンスターの殺害を決行したとしても、責めを負うことはない。
寧ろ、モンスターの処遇をボスに
だが…………、
”恐らくこの現状は、ボスからそれだけは回避しろと言明を受けた……最悪の様相”
靖彦はエリートだけに末端の人間の心情に疎いところがある。もっと深い所で組織を見なければ、もっと泥臭い寝技が出来なければ、このような事態を招く。
(俺の最後の事件。関東管区警察局局長である警視監に助言を求められ、最終的に俺を切ったのは、おまえの
とは言え、喜一郎がモンスターから懸命に情報を引き出すべく苦心していた、あの時間。同じ時間の分だけ靖彦が苦しんだかと思えば、喜一郎の胸は張り裂けそうだった。
……心配ない。保険はかけてある。
(ルルルルルル ルルルルル ルルルル)
「靖彦っ! グズグズするな警視総監を救出しろ! 場所はわかってるんだ、内偵の末、偶然見つけたことにして恩を売れ! 警視庁と警察庁のパワーバランス、そのキャスティングボートはおまえが握れっ!」
電話を終えた喜一郎は、もうそのことを忘れた。靖彦ならきっと泳ぎ切る。
「お~い芳男っ! 彼女借りてくぞ?」
真っ白な灰は、うつむいたままバンデージを巻いた左手をあげた。
平和な下町の午後。
浅草に住んで82年。米沢雅子は、着流しヤクザ風の老人とバットを担いだ、長澤ま○み似の美女が目の前を通り過ぎるのを、ただ呆然と眺めるのだった。
※
桜木を植えるつもりだった。
あの土地は水捌けが悪く流行病も多くて、近隣から酷い差別を受けてきた。
嫁を貰うのも、嫁にゆくのも難儀したと、猫のばあちゃんが言っていた。
低い土地には、大きな木場があった。折好く材木景気が起こり、周囲は言うに及ばず遠く流れて人々がそこに住み着いた。鉄道は黒い煙を吐き出し活況は……人の魂を振るわせた。
桜木を植えることはささやかな成功の証し、幸せの象徴だった。
やがて不景気になり、少なからずや、人々は去った。
コンクリートに埋め尽くされた歪な土地だけぽつり。
自分も、あの家の庭とも呼べない庭に、桜木を植えるつもりでいたのに……
「火事になるかなぁぁぁぁっぁぁぁぁぁふつう…………」
芳男は頭を抱えた。
家は全焼。警察によれば、自宅ボイラーから醤油ちゅるちゅるのようなもので灯油を抜き出し家中にばら撒いたすえの放火。喜一郎の庭も被害を受けた。
だが問題は反対隣の離れ。子供のピアノ練習用に作られた防音が施された……
「がぁぁぁぁぁぁ。ぴすっがぁぁぁぁ1000万って!」
目眩がした。そして芳男は算数が苦手だった。
「土地だけだと500万円では厳しいでしょうなぁ。400万、最悪300万、なら売る自信はあります。地元の人間はあの土地は買いたがりませんから……」
不動産屋の言葉が脳髄を溶かす。
(土地付き一戸建て2800万から家が無くなって300万? マジック?)
喜一郎の庭はともかく、法律上責任はなくとも隣家の保証だけは自分がどうにかすべきだと……たとえ借金をしてでも……償うべきだと……芳男は考えた。
差し引き700万。この先7の数字を見ただけで灰になる自信が湧いてくる。
やっと落ち着いた、あの場所に。望んだはずじゃなかった、あの場所に。
もう帰ることもできない。この旅が終わっても。ばあちゃんは猫がいなくなって本当に寂しそうだった。こんな俺でも顔を見せれば、無邪気に喜んでくれた。
居ても許される場所。
誰かに必要とされた場所。
知らぬ間にそこにあった場所。
(ルルルルルル ルルルルル ルルルル)
「はい、もしもし。はい? そうです。不破芳男です……どこからこの番号? え……あー警察から……へ? それってどういう? すんません、ちょっと意味が……はい? 俺が……俺が? はーサインして? ほへ? どういう、え? え? マジっすか? えーーー。はい。はい。畏まりました。ほへえええ~」
芳男の身長が……3センチ伸びた瞬間だった。(無意識の俺、天才じゃね?)
※
「さぁっーーっ」
この
商店街の隅に追い込まれたチンピラ達は、カープ女子の赤バットでその殆どが地面に転がっている。大きく振りかぶってからのフェイント、
最後に残ったのは恐らく相撲経験者なのだろう、おかっぱのように伸びた髪で体格は恐ろしく大きい。喜一郎は加勢しようか迷ったが、どうせ危なくなったら監視している警務の助さん格さんが飛び出してくるはず。中々、気の良い連中で昨夜は一緒に晩飯も食った。「憧れの存在です」と持ち上げられ、ついつい飲み過ぎてしまったほどだ。
千秋楽の取り組みイメージは、ドット絵のカープ女子が放つソニックブームを力士が垂直ジャンプして躱す動作を延々と繰り返している、そんな和やかな光景だった。
商店街だけに、アーケードチックなのは致し方ない。
喜一郎はラインのやりとりに集中することにした。
・二重人格ではありません。
それは喜一郎にとって予想外の答えだった。
暴走などしていない。個人で出来ることは限られている。個人で出来ること、捜査できうること……喜一郎は特別なことは一切やっていない。昔からそう。
地道に順序立て、思い込みを排除し、何ものも見逃さず、人物と重ねてゆく。
ここ数週間はリーホァの生きてきた道筋を辿っているに過ぎない。呉から東京そして大阪、流転して名古屋のソープランドの小汚い寮の一室……逆方向から。
関係を持った男達は禄でもない奴ばかり。しかもその証言から得られた印象は……バラバラ。
あのグロテスクな時間。モンスターから聞き出した、この事件のきっかけともなり得る外務官僚との付き合いなど、まるで幼稚なお
彼女にオセロの角を取っただけで喜ぶ単純さはない。恐ろしく大胆かつ狡猾。
・録音テープの内容だけですが、カマキリは人間性は別として、至極、真っ当な検証をしています。解離性同一性障害(DID)ではありえません。そもそも根本の精神の分岐がない。
・それはつまり?
・彼女が殺人を犯しているのであれば、それは彼女の確固たる意思です。
喜一郎はどこか、リーホァが病気であればと願っていた。そうであるならば、痛ましい過去を鑑み、犯罪者であろうとその存在に寄り添うこともできる。
いくらかは自分の気持ちも救われる。
・ただ、彼女は一切の躊躇なく人を殺せるのかもしれない。
・二重人格ではなく、サイコパスとか言う?
・ノン。正確にはサイコパスを完全に演じきれる、女優シンドロームとでも表現せざるを得ない一種のヒステリー症状、そう言ったものではないかと思われ……
・女優?
・表情筋のバリエーション制御。脳からの指令で、聖人にも娼婦にもなりうる。
喜一郎の脳はカチリと音を立てた。長年の刑事の勘で本筋に辿り着いたときにだけ起こる、肌の粟立ち。
・教授、ありがとうございました。
・いえいえ、それよりあの子のこと、くれぐれも宜しくお願いします。
・しかしそれは……
・元刑事のあなたが民間人を危険にさらせないとの立場はわかります。ですが、彼女は危険があったとしても、あなた方と行動を共にすることを望むでしょう。闇はいつか晴らさねばなりません。学者としてではなく、この家で死のうとした自分を救ってくれたあの子を今度は私が救いたい。だから、引き受けたのです。お約束したはずです、そのことはお忘れなく。
・暫くの間はですが……やはり気は引けますが……わかりました。
・……では、報酬のほうは指定の銀行口座に ヨ ロ シ ク 。
(最後の最後でがっちりしてるなぁ、この学者……)
喜一郎は呆れながら、ことの成り行きを確かめるべく正面を向いた。
勝負はついていた。
この娘の職業を聞くのはやめておこう。喜一郎は、あらためてそう思った。
※
「人使いの荒いじじいだぜ、ったく!」
その金髪は、東京の郊外、月明かりに照らされたアスファルトの上で揺れる。
Fは不満だったが昼間は働いていないのでしょうがない。お陰で髪を染め直すこともできた。それに一応、この手のことに関しては、担当と言うことになっている。
遠くで乾いた犬の鳴き声がする。案の定、警察の気配は微塵もなかった。
最新型の盗聴器は
月極駐車場にずっと放置されている
愛依の父親とは気が合う。センス抜群。艶めかしい曲線に惚れてしまう。
少し大きめの受信機にFは静かに乗り込み、仕事前にシートに頬ずりをする。
いまや自分は、これをキャッシュで買うことができる。
この色が良いけれど、お揃いは御免だ。
真っ赤に塗られる前に、金色に塗られる前に、自分の色に染めようか?
昼間、保険会社から連絡があった。我が家には、火災保険が掛けられていた。
だからFは身長において、2センチの差をつけられた。そして………………
妄想にふけりながらも、きちんと仕事はしていた……
死人になって復活する儀式はやはり、可也の恐怖を相手に与えたようだ。
新興宗教の教祖は泣きながら電話をかけている。恐らくそれは国際電話。
相手の声はなく、巧みなナレーションのように自分ひとりで語っている。
Fの楽しい妄想は、あざやかにその色を失う。こんなことに関わったことを、Fは静かに後悔するのだった。
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