第8話

 日本国民の99%は本当の意味での林道をしらない。

 田舎暮らしでも、そこに辿り着く人間は極わずかだ。


 画家が遠近法を無視したようなスケッチが、フロントガラスに飛び込んでくる。小枝が車体を打ち、乗り出し価格32万円のタントはそのくるぶしあたりで幾つもの飛礫つぶてぜた。

 迷宮のトランス状態は、ハンドルを握っている者に限られる。助手席に座る芳男にはめまいを伴う苦痛でしかない。ただ、車が上下に揺れるたび、カープ女子の胸も左右に揺れる。うっかり噛んだ舌から鉄の味はするが、それは苦痛だけでもなかった。


「拳銃って……」

 トランス状態のまま、カープ女子が沈黙を破る。


「相手に確認させて地面に置こうとしたんだ。でも急に振り返った拍子に……」

「おもしろくなってきたわ~。なんか興奮するわぁ。あんた、クライドには見えへんけどな」

「クライド?」

「で、私がボニー。ラストは機関銃で蜂の巣にされるの」

「機関銃? え!? あの事件のこと、もしかして?」

「はぁ? 冗談よ冗談。古い映画くらい見なさいよ」

「すんませんっ」

 タイヤぎりぎり、崖の際から小石が落ちる。


「悪党のバイブル。私はこう見えて元レディースやけんね」

「はぁ(ジョブチェンジしたんですね)」

 上昇していた車は、今度は渓谷の脇を急降下する。


「で、どこに?」

 ふたり同時に問いかけた。











 脳の中で、Fは覚え立ての煙草を吹かす。

 灰色の脳細胞をバックに、染めたばかりの金髪がえる。


 短期記憶は海馬タツノオトシゴに似た海馬かいばと呼ばれる部位でその大部分が処理され、能力が限界を超えるまえに不定期なパルスとなって大脳皮質に送られる。コンピュータで言うところの実装メモリとハードディスクの関係に似ているだろうか。

 これが所謂いわゆる、浅い眠り。


 流星花火が静かに吹き上がるように、Fの記憶の粒子は静かにあるべき場所に向かう。そしてその一部が大脳に届き、それ以外の大部分は前面を覆うFirewallファイアウォールによって遮られた。

 その状況を見せつけられ、Amazonから届いたばかりのソファーに沈むFは溜息をつく。所詮は脳内の ”想像の世界” なのだから、Amazonで買い物しようが、ジャグジーで泡吹いてる蟹を食おうが、ドンペリあおろうが自由なのだが、この目の前の光景だけはどうしようもなかった。


 昨夜、見た映像の記憶も叩き落とされていく。小さな火花が一瞬、輝きを増し力尽きて消えてく。


 暫く一緒に暮らした女だ。覆面をしていても体付きを見れば誰だか分かる。


 5人組の黒ずくめの中、一人だけ小柄な体格はそれだけが異質で、かなり遠くから撮られたのであろう映像は、賊が二手に分かれどっちを追うか一瞬、彷徨い、男女二人を捉え直すが、それもやがて闇に消えた。



 ”残すべき記憶” が選別されている。それは…………










 芳男の脳は本当の林道を認識した。カープ女子のおっぱいはクルクルと回る。


「よし! 丁度いいわ! 教授プロフェッサーの家いこ!」

 なにが丁度いいのかさっぱりわからないが、その一言で行く先は決まった。カープ女子は当初、山道を抜け日本の地中海に向かう予定だったが、車体をあり得ない細道にねじ込み、世界の日本海の方向を目指した。


「大丈夫! 日本海行くまでの途中の山だから。満タンのガソリンが切れるか切れないかのギリギリにあるの。前もそうだったから」

 なにが大丈夫なのか芳男にはさっぱり分からなかったが、取り敢えず ”林道” の認識だけは改めることが出来た。脳内では世界ルンルン滞在記のオープニングが流れる。俳優がアフリカや南米の奥地で実際に生活する番組で、テレビを持っていない芳男もこれだけはネットで毎週、楽しみに視聴している。


「丁度いいって?」

 揺れるおっぱいから目線を下げ、ウエストが細いことを確認して芳男は聞いた。


「あんたがいったんじゃん。○ンカの話が聞きたいって?」

「○ンカ? なんすかそれ?」

「…………もうそのリアクション疲れるわ。たちばな梨花りかの話してたらその話題になったんでしょぅぅぅぅが!」

「橘……梨花(弓絵……いや、リー 麗華リーホァの日本名!?)……あのおねえさんは同級生……かなにか?」

「もぅ大概にしてくれる? たいぎいわっ! 近所に住んでたんだって。あの子が小学校2年のとき私が6年だったから、中学、高校は一緒じゃないけどね。まあ高校は3日で辞めたけど、テヘっ。そもそも梨花の話がどうしても聞きたいってあんたがコンタクト取ってきたのが、テキサス・レンジャーから追われるこの逃走劇の始まりじゃん」


 カープ女子が最後のほう何を言っているのか、芳男には理解できなかった。

 そんなことはどうでもいい。それよりも、驚愕の事実が芳男を貫いていた。






(カープ女子……カープ女子……カープ三十路じょしですやん!!!)











 普段は威張っていられる立場だが、今日の日はそうもいかない。特に見ず知らずの誰彼なしに、愛想を振りまかなければならなかった。

 淡い色のスーツに淡い色のネクタイ。親しみやすい印象になるであろうか?

 迎えの車が来た音がする。同じ官舎の敷地内だから、手に取るようにわかる。


「お父さん、お出かけですか?」

「ああ、例の橋の竣工式しゅんこうしきだ」

 リビングでテレビを見ている息子に、スカイフィッシュは靴べらを取りながら答えた。



 震災で津波に壊された半島と半島を結ぶ橋が、今日よみがえる。小さいとは言え地元住民には象徴的なもので、だから他はなにも片付いてなく、なにもできていないのに、ぽつんとそれだけが復活をする。政治家のきもり、人気取り。で、その政治家に頼まれてそこに行く。数合わせの人数合わせ。キャリアの本部長は今日は家で寝ている。




「どうも副本部長、お待ちしておりました」

 薄っぺらい笑顔が出迎えた。


「どうも医院長、お忙しいところどうも」

 同じ笑顔が背後でも浮かんでいるはずだ。


 ベルトコンベアにからくり人形。自分もその一人であることに陰鬱となる。偽善者が子供たちと手をつなぎ風船もって橋を渡る。



 異常。なにもかもが異常。

 国内で機関銃がぶっぱなされ、事相じそうはなにも明らかにされていない。 

 本来ならプレス(報道機関)に吊し上げられ、自分が矢面に立たなければならない状況ではないか? なのに沈黙。気持ちの悪いことに、復興事業の縄張り争いで突発的に起こった暴力団同士の抗争であるかのような、まるで県警擁護の動きすらある。報道マンとしての矜持きょうじなど、どこにもない。

 そもそもここまで完璧にコントロールできるものなのか?



「それでは雄志の方々、子供たちに風船をお配りください」


「はい、いい子だね~」

「はい、いい子だね~」

「はい、いい子だね~」

「はい、お! 君は太っているから、この一番大きい風船をあげよう」

「は~い、いい子だね~」


 200人以上が風船を持って橋を渡る光景は、それはそれなりに花を添える効果があるだろう。よくは考えてある。そして、こんな下らないイベントにマメに参加することこそが、自分の退官後の再就職に直結する。

 ……私の警察官としての矜持は?


「お疲れ様でした」

「ああ、疲れた」 

 気の置けない部下は、そう言うと吹き出しそうにしていた。

 イベントどうこうより、その後の自慢話合戦のほうが疲れた。こんな日は旨いものも出てこない。せめて酒でもあれば、気持ちのやりくりの仕様があるというもの……。


 春にはなったが、日が陰るのはまだまだ早い。薄灰色になりかけた、官舎まではもう少し、並木道で「ここで下ろしてくれ」と部下に告げた。あと一寸経てば芽吹く青葉を楽しめるだろうが、なにもない道もまたおもむきはある。



「どっちの方向から声が聞こえてくるか分からんだろ?」



 ヒグラシが鳴く声を聞いた気がしたが……それは幻聴だった。

 それでも、誰かから監視されている気配はひしひしと感じた。


 15分ほど歩いて官舎の壁面が見えてくる。すれ違う部下達に軽く挨拶をされる。もう長いこと、この門を車でしか通過したことがない。また挨拶をされた。

 本部長宅は別館なので、私の自宅がこのテリトリーの最深部に当たる。

 また5分ほど歩く。

 玄関先にたどり着き、ドアを開け、出かけた時と同じようにテレビに向かう、息子に声をかけた。


靖彦やすひこ、俺を監視していたのはおまえか?」


 自室に戻り、革張りの椅子に腰をかける。昇進祝いに……息子が無理をして……皮肉なもので、今はここが一番落ち着く。

 靖彦はあと数年で、警察庁のトップ50に入る。ノンキャリアとしては最高位の役職に就いた自分にも、遠く手の届かなかった場所。東大卒の自慢の息子。


 公安調査庁でも警視庁公安部でもなかった。佐藤の命をうけた警備局だとばかり思っていた。




 自分は自分の根っこに、自分の身内に、警務部じんじに、監視されていたのだ。





「ひぐらし……すまん」呟くことしか自分には出来なかった。











「もしもし? もう~やっとつながった。なによ! 電源いれなきゃ携帯の意味ないでしょ? もうね、大変なのよ、大変! 愛依まいがもう ”ぶりぶり” に怒ってるの、”ぶりぶり” に……え? 北京? 居られるわけないじゃない。そうそう。PM2.5……そうそう帰ってきたの。愛依がぜんそくになっちゃう。  今? 自宅じゃないわよ。おじさまに……そう飛び……そうそう! だってお父さんに連絡つかなかったんだからしょうがないじゃない。え? 危険? それはおじさまから聞いたわよ。だから今、知らないアパート。大体、お父さんは昔から説明が下手すぎるの。え? だから大丈夫だってば。福島は福島だけど、市寄りの……あんな説明でそこまでわかるわけないじゃ……だから鍵はおじさまから受け取って……愛依が……だからもうぶりぶりに怒ってるの! わかんないわよ。もう石みたいになってるんだから。……バルーン受け取るときに…………あ! なにかお父さんに渡して欲しいって……違うってバルーンに付いてたメモに……だからそのメモじゃなくて、鍵と一緒に変なチップみたいな……取りあえず住所言うね……愛依、泣かない! もう~今度は泣き出しちゃった。だから住所は……」












 一枚カードをめくった。深海の悪魔のカード。


 第二次世界大戦後、各国は戦闘時に蓄積した化学兵器の処遇に困った。

 作ったは良いが、それを処理する科学力が当時はなかったのだ。

 覚悟の遺棄、地中への埋設、そして……大規模な海洋投棄が行われた。


 戦後70年をして海洋投棄に於いては、その保管資材の経年劣化から、汚染が深刻な問題となりつつある。殆どマスコミで報じられることのないこれらの事実は、政治の世界では少なからず動きを見せていた。


 曰く、世界貢献の一環としての無償、技術供与。東南アジア歴訪中の総理大臣は、あっさりとそれを約束した。

 根拠はある。確かにこの分野における日本の研究、技術力は世界のトップであろうことがその一点。ただし、その一点のみである。現実としてその技術が、海を汚染せず化学兵器を無力化できるかどうかまでは、未知数みちすう。当然のことながら調印にもそのことは明記されている。

 つまり……技術の空売り(参照:株式市場における現物がない売り注文)

 

 技術を提供する企業群にはそれに見合った対価が支払われる。無論、日本の税金からである。そして技術が確立されなかった場合、サルベージが行われない代わりに、途上国にはそれ相応、代替えとしての見返りが約束される。(国際通念上)


 無償とは、裏を返せば膨大な公金の垂れ流しとなる。



 週刊誌に渡す資料を厳密に精査しなければならない。本当に足が付いては、自分まで飛び火する。交渉における実働部隊は自分だったのだから。


 佐藤豊の名前だけが出ればいい。他のマスコミが食いついても、後情報は一切出さずグレーのまま有耶無耶にする。今回は揺さぶりだけでいい。


 

 山林はソファにもたれ掛かりその脳は、次のカードを選び始めていた。








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