第14話

 柳沢省吾の自殺は新聞に取り上げられた。彼の父親が大使経験者だったからである。彼自身は、東アジア担当のいち外交官に過ぎなかった。

 彼はタワーマンションに住む、心穏やかな、優しい人物であった。





慈恵医科大教授、原谷総次郎が心臓発作で急死した。年齢87歳、大往生と言って差し支えない。転院する前まで、彼は佐藤豊の主治医であった。








|衆議院議員、山林健一の第一秘書、刺殺される|


 このニュースは、大々的に取り上げられた。現職の議員秘書が殺されたこともさることながら、その人物が大帝印刷社長の御曹司であったからである。事務所ビル地下の資料室に侵入した賊に、アイスピックのような形状の凶器で首を刺されたとの警察発表は、なぜそのような場所に賊が侵入したのかも含めて、不可解な事件としてマスコミを賑わせた。



|佐藤豊は嵌められたのか!? 山林健一のアジア工作、その全容|

 矢継ぎ早に週刊誌からスクープも出た。疑惑の技術供与においての山林健一の海外動向が克明に、しかも裏付けも確かに報じられた。これをきっかけに些細な交通違反のもみ消し、諸官庁への口利き、マスコミへの恫喝など……真綿か洪水か、一人の人間の生ける呼吸のような活動そのものが沙汰止さたやみになっていく。


 彼は、資金的なバックアップを失った。

 紫苑は世評を気遣い、彼を切り捨てた。



 山林健一は、優秀なだけの、ただのガラクタになった。









 喜一郎は週刊誌をゴミ箱にほうった。


(リーホァの逮捕きゅうしゅつは間に合わなかった)


 あのモンスターの言葉が呪文の如く響く。


(彼女は自分の体を玩具にした人間以外を殺害していません)

(彼女は自分の体を玩具にした人間以外を殺害していません)

(彼女は自分の体を玩具にした人間以外を殺害していません)


 

 茶断ちゃだちでもして神仏に祈ろうか? 煙草はやめられそうもない。



 喜一郎は観光に来ていた。移り住んだら最初に行こうと決めていた場所に。

 福島は広い。同じ県内でも気候、風土、歴史が異なる幾つもの表情を持つ。 

 おおざっぱに言っても会津、中通り、浜通り。だから一年以上も、ここに来ることがなかった。


 正式名称「円通三匝堂えんつうさんそうどう」 通称、会津さざえ堂。

 堂内を上り下りすれば観音巡礼が叶うと言われる、ありがたい全国のさざえ堂の中でも、ここは特別な存在。東に磐梯山ばんだいさん猪苗代湖いなわしろこを望む飯盛山の中腹に建つ、他と同じく名称そのまま栄螺サザエの形をしたそれは、その内部構造が全く特殊だ。 

 高さは約16メートル。それほど長大な建築物ではなく、それでいて日本建築史上、唯一無二の異質な存在。


 DNAの二重らせん構造を思い浮かべると解り易い。上り右回りと下り左回りの動線は途中交わらず、人は他者とすれ違うことなく、約3周の巡礼を終える。

 だから通常と違い、入り口と反対側に出口がある。


 レオナルド・ダ・ヴィンチの着想から生まれた石造建築の傑作シャンボール城をスケッチした一枚の挿絵が出島から日本に渡り、遠くこの地で木造建築としての実現をみた仏教建築の奇跡……らしい。


 驚くべきことにここは重要文化財でありながら個人の所有物である。

 その所有者に400円を支払い、喜一郎は板張りに足を踏み入れる。


 総体そうたい、斜めの構造物に音の鳴る床、思いの外の急勾配きゅうこうばいは人の心を静謐せいひつにさせ、世俗を忘れさせる。忘れた所で空しさは変わらない。自分はなにもしていない。  

 えん罪による指名手配を取り消した、それだけ。警察関係者で唯一、リーホァとあいまみえた人間として、自分はなにかするべきではなかったか。政界と任侠のすさみなどもはやどうでもいい。自分はそれだけを自問自答する。


 自分は弱い。自分は古巣、山梨県警と関東管区警察局に助けを求めなかった。

 自分を早期退職に追い込んだ、自身最後の事件、県警の過去のえん罪を暴き、同僚を幾人も恥辱と路頭に迷わせた……あのときは正しいと思った。今でも正しいと信じている。迷いはない。迷いがないからこそ、俺は弱い。


 俺は卑怯だ。事情を知らない他管区の人間は利用したのに。自分は正義だと、刑事の中の刑事だと、彼らに偽りの虚勢を張った。


 関東管区警察局、誰だか分らない声が「確かに受けたまりました」と言った。

 組織を裏切った俺の存在を知っているのか? それさえわからない新人に言伝ことづてして、自分は電話を切った。なにをしているんだ? なにがしたかったんだ? 


 

 己の躊躇ちゅうちょさえなければ、リーホァだけは救えたかもしれなかった……。


 でも、最後の電話は空を切った。そこになにもない。なにもなかった。


 もうすぐだった。頂上まで僅か、16・5メートル。全くあっけない。








「そこで止まってください、ひぐらしさん」

 声がした。


「すみません、名前と顔は勘弁してください。子供が小学校に入ったばかりなんです。出世するつもりはないのですが、この状況は……やばいです。一応、関東管区警察局の刑事部代表として私が来ました」


 絶望の中、伸ばした指先は、なにもできない自分に何かしろとささやく。


「もう無茶苦茶です。私も自分が所属する組織が、これほど酷いとは思いませんでした。上層部は空手形乱発で機能していません。それでなくとも我々刑事部は日頃の業務で手一杯です」

 組織の理屈は所属する人間にしかわからない。組織の外側から放たれたどんな効率的で正しい理屈も現実には通用しない。そこに骨まで染まっていた自分にもそれはよくわかっている。


 彼らは犯罪の最前線に真っ向から立ち向かい。


「私は今から独り言を言います。ですがそれには条件があります」


 理不尽なこの社会の歪みの中で逃げずに戦っている。


「条件?」


 言葉として表現できない気持ちが、喜一郎の胸を突く。


「公安が丸腰であるはずがない。くすねた武器はそこに置いてください」


(頼もしい)


 喜一郎は、使い方も知らないそれを足下に置いた。





「20年前の事件はどこからか圧力が掛かり捜査は中断しました。だから資料になにもなかったのです。これはそのとき担当した刑事のメモの内容です。リー 学良シュエリャンは、れっきとした中国人です。彼は非常に温厚で、慎ましやかな人物だった。小さな商いを堅実に営んでいました。ただし、渡航履歴が余りにも多い。費用を計算するとそれは莫大です。これでは売り上げと経費の兼ね合いがつきません。その著しくおかしなバランスを成立させる可能性は三つあります。一つ目、売り上げを誤魔化していた。二つ目、麻薬など非合法の密輸に関わっていた。三つ目……」


「……スパイだったのか?」


「おそらく……ですが、学良シュエリャンが職務として佐藤豊に近づいたのか、利用するため佐藤のほうから近づいたものなのか……その辺りはわかりませんでした」

 顔もわからない彼は、いい顔をしているはずだ。掛け値なしに仲間から全幅の信頼を受ける、その顔を喜一郎は見てみたかった。



「もう一つ。これは秋田県警の刑事部をめてやってください。ひぐらしさんが秋田に来た一報いっぽうだけでやっこさん達は上層部を無視して徹底的に調べ上げたのです」

 この構造物のどこに、彼は潜んでいるのだろう?

 


「その集落は1940年代に生まれました。人別帳にも戸籍にも名前のなかった数十人が突如、合法的な村を形成したのです。時代が時代ですが、周囲の村人はその集落を特別視していた。政府の温情で山の民に与えられたものだと。当然です。行政の関与がなければ、戦争中だろうとそんなことはできっこない。彼らに農地はありません。生業もない。それなのに戦後、兵隊と民間併せて600万人が難民として日本に帰還した混乱期でさえ、彼らは飢えることがなかった。生活の糧がない彼らが生きられた理由はなんらかの公的資金の流入です。……しかし1950年代、朝鮮戦争の特需とくじゅにも関わらず、その資金はストップしたと思われます。周囲の証言、それ以降、何人もの自殺者が出たことから考えても……」


「将来を悲観した大人達が次々と自殺していく地獄を子供達は……こっちが調べた内容と符合ふごうする……ありがとう。だが、もはや俺にはなにもできることがない」

「無論です。そのときなにが起こったのか、今なにが起きているのか、我々にもわかりません。ただ我々は職務を越えて人間です。このままでは終わりません。この混乱は我々でなんとかします。私がここに来たのは、あなたの最後の事件、あなたが石もて追われたあの事件を皆がどう感じていたか、先輩に一言、伝えねばならないと思ったからです。その先をゆっくり登って、太鼓橋たいこばしを渡り下ってください。後ろを振り返らず、そのまま出口へ」


 喜一郎は相応に動いた。下りスロープのほどなく、白い封筒があった。


|山梨県警、有志一同|


 それは金だった。だがただの金ではない。喜一郎は自分の愚かさを恥じた。あの時、自分は失望した、自分の生きてきた組織に。少なからず寄せられる励ましの言葉も携帯まで解約し遮断した。福島に移り住んだのも娘の近くで暮らしたい……ただそれだけではなかった。自分は逃げだしたのだった。

 頼ればよかった。もっと……もっと早くに。自分は無力でも、馬鹿でも、やはり少なくとも、一人の女の強行を止めるチャンスはあった…………



 入り口とは反対側の出口を通る。振り返らず、喜一郎は背中で敬礼した。








 家に戻った喜一郎は、警務から預かった鍵で、不破家の玄関ドアを開けた。 

 あのグロテスクな時間、モンスターとのやりとりの最中、気がついた違和感を放置していた。ぬぐえない、目を逸らしていた、それが目の前にある。



 喜一郎はぶっ壊した。映るはずのない、古い、ブラウン管のテレビを……。


 







 風通る、比較的大きな縁側は、暖かい日が二日三日続けば満開になるであろう桜がそこにあった。老婆はお茶を飲み々のみのみ顔をほころばせる。


「本当にびっくりポンでしたよ。よし君がそんなことする分けないのに。まったくねぇ、お隣さんが喜一郎さんでよかった。もう心配ないんでしょう?」

「大丈夫です。彼は誤解を受けやすいんでしょうな。警察も平謝りでした」


「やさしいよか子なのに、ほんとうに嫌なことです」

「まったくですなぁ」

 冷めただろうかと湯飲みに手を伸ばすが、老人は諦めて手を引っ込めた。


 こよみの上ではもう桜が咲いてもいい頃なのに、今年は少し遅れている。帰り際、周囲より少しだけ大きい家の、その門扉もんぴを抜ける。


「すまんかったな。余計なことを頼んで」

「喜一郎が二人もいたんじゃオカルトだからな。この仕事は俺にしかできない」

 スカイフィッシュは、ボイスレコーダーを喜一郎に投げた。


「靖彦はどうだ?」

「出世は二年ほど遅れそうだが、主軸だ。問題ない」

「お前の再就職は?」

献上けんじょうした。それが条件だったからな」

 喜一郎には把握できない、駆け引きがそこにあった。


「なにもできないなぁ、俺たち」

「お前は積み上げてきたじゃないか」

「まあ、退職間際に楽しめたよ。世間はすっちゃかめっちゃかだがな」

 スカイフィッシュは、立ち去ろうとしている。この男には決して勝てないと、若き日の喜一郎に思わせた、その背中は余りにもか細かった。


「前から言おうと思ってたんだがな」

「うん?」

「お前は元水泳のオリンピック候補だったから、飛び魚の龍なわけだが……」

「おう!」

「飛び魚は flying fishフライングフィッシュ で sky fishスカイフィッシュ だとなんか変な化け物だぞ」

「……そんなことは10年も前に靖彦にさんざんに言われたよ。しるか。じゃあ俺もお前に一言いわせて貰おう。お前の捜査は独りよがりだ。今もわけのわからないことを俺にさせたな? お前を信じている人間になにも言わずそれをさせるのは酷だ。お前は確かに正しい。常に正しい。でもな、人間をもっと勉強しろ。お前の魅力に引き寄せられる馬鹿のためになっ!」


 その背中は立ち去った。その背中が喜一郎に無価値な行動の許可を与える。

 決して勝てないと、若き日に思わせた、その背中を眺め、自分は暴走する。


 答えなんかなくてもいい。俺はやれることをやる。





 (ルルルルルル ルルルルル ルルルル)



「…………もしもし。……遅かったな。先を越されるかと思ったぞ。そう怒鳴るな。……にしても大雨のあとであそこを通るのは大変だっただろ? 泥だらけだろうな。指名手配は解除されたんだ。今夜は風呂にでも入ってゆっくり寝ればいい。お前の家なんだ、誰に遠慮することもない。……場所は、お茶飲んでいる時に話が出たことあったろ? せっかく福島にいるんだ、一度は見ておきたい場所じゃないか。12時でどうだ? 真昼の決闘といこうじゃないか」





 




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