第28話

 夕景ゆうけいが忍び寄る。山の大気はゆるりと湿り気を帯びている。

 それには気づくことなく、棘を避けて、芳男は何度も何度も細心の注意を払い懸命にその手を伸ばすのだった。


 教授の家から100メートルほど下った山裾にうち捨てられた茶畑がある。

 上空から眺めれば城の天守閣を囲む外苑の、その終わりに見えるだろう。

 今はもう水の流れていない沢の名残りと山肌との境。わずかな平地に、石垣が整然と並んでいる。


 かつて、石を上まで運べず茶畑は、ぽつりその場所に作られたのだった。



 そこはもう、何年もまえに教授の作業場裏じょうりから外れ、囲う石垣は苔生こけむしていばらが茶の木をしぼるように絡みいていた。穂先の白い雑草が、我が物顔で威勢よく、遠慮もなしに賛美歌を歌っている。


 いつまでもそうしていた。欲張らず本当の新芽だけを用心深く選び、気づけば灰色に暮れるまでそこに居た。やがてそれもタイムリミットだと諦め、芳男はゆっくりと急勾配を登っていく。空が一瞬だけ赤く輝き、家にたどり着き、上がりかまちに足を乗せたと同じくして、太陽の沈む振動で小雨が背中に降りかかった。




「ひやぁっ! ひゃっこい」



「なにをさわいどるんじゃ」

 教授はタブレット端末の囲碁からまなこを外し、すぐまた元に戻した。



「なにってこれ摘んでたんだよ。……あれ? じいさんは?」

 芳男は竹かごをカサカサとゆする。


「ん? …… ”ケイ”なのか? あの人はなんか知らんがずっと塞ぎ込んで奥の部屋で布団かぶって寝とるけんの」

 教授は俯いたまま、手の感覚だけで小枝を囲炉裏に投げ入れた。



「そっか……せっかく旨い茶を飲ませてやろうと思ったのに」

 芳男は濡れた背中を囲炉裏に向け、ゆっくりと腰をおろす。


「茨の棘で怪我せんかったか? んなもん摘まんでも茶ならあるじゃろ」

「目の前にあるのに市販品か? もったいねぇよ。あれだけ綺麗に石を積んだのになんで放置してんだ」

「茶はそれほど好きじゃないけん。わしには酒があるけんのぅ」

「だからって届けて貰った米みんな酒に変えるこたぁないと思うがなぁ……ま、待ってろ。本当のお茶の味ってもんを教えてやっから」

 芳男は正面に向き直り、金属製のちりとりに摘んだばかりの茶葉を盛った。


「まめなやっちゃな……そんなんで出来るのか?」

「別に手揉みで針金にしなくたっていいんだよ。文句言わずに見てろって」

 夏場でさえ高地に囲炉裏の火は欠かせない。教授の循環する機能的システムにそれはいつも重要な役割を果たしている。生活のいろいろな場面で顔を出し鉄瓶には湧き水が静かに暖められている。(ぱっさぱっさ)と茶の葉を煽る音だけが教授と芳男にしずかに流れた。茶の木は年4回ほど新芽を吹き一応これが一番茶

――――なるほど、貴重品と言えば貴重品である。



「ふっ、……それにしても不思議だよな。教授だけは俺を認識できる」

「なんとなくじゃけん。おまえはタバコの吸い殻を空き缶に捨てたりせん。畑に機械油が落ちないよう気も遣ってる。ここを一番理解しているから……かもな。耕してるのもほとんどがおまえじゃろ?」


しょうに合ってるだけだ。ここの環境にゴミを出す余地はないんだが……そもそも体は共有財産だ。吸うたび咳き込んでやるんだが、一向にやめねぇ。じいさんが予備のガソリンの下に大量に隠し持ってたのは計算外だった(ぱっさぱっさ)」

 会話を重ねながらも、芳男は手を休めない。

 摘みたての張りのあった若草色の茶葉が、徐々に苔色に緩みつつある。





「なあ……教授」

「ん?」

「こんな化け物が側に居て……なんつぅか…………恐ろしくはないか?」

「……はぁ? ションベン臭いガキを怖いと思ったことは、一度もないなぁ」

 教授は囲炉裏の火を小粒の目で見詰めた。


 床下で首切螽蟖クビキリギスの音が響く。それを秘やかに翡翠ひすい色の蜥蜴とかげが狙っている。





 

「おまえこれからどうする?」

 瞳に炎を写したまま、教授は問いかけた。



「どうするって……保険の手続きがあるからな。一旦は福島に……」

「そのさきだ」

「…………さぁな」

 芳男は一度、大きく煽った。龍の姿をした白い蒸気が逃げてゆく。茶の葉には甘露のような小さなしずくが浮かび、それもやがては消えを繰り返している。





「あの人とは一緒にいないほうがいい……」

「それってじいさんのことか? おいおい、あれくらい真っ当な人間も……」

「おまえはなんもわかっちゃおらんけん」

 パキッと、教授は小枝を折った。



「あれか? あんなのほんの芝居みたいなもんだよ。VIPの自宅なんか極秘。そんなもんが提供されて行動も把握できるなら相手はひ弱な老人だ。警護のSPもこっち側だった。万が一失敗したらじいさんが全部ひっ被るつもりで……」


「そりゃぁ、おまえらに危害が及ぶようなことはせん。それがあの人の矜持……だとしてもだ。蛇を知らずに笑う赤ん坊じゃない。考えて、考えて、考え抜いて


             ” やっちまう ” 


じゃけぇ、恐ろしい……おまえが思うほど、あの人は甘っちょろくはないぞ」




 静寂が訪れた。首切螽蟖がもう鳴くことはない。




「恐らくあの人は、自分が信じたものに一度、絶望している。それが組織なのかなんなのかそれはわからんが……あの人が追っているのは、この事件じゃない」

 小さな金属の異物が灰の中で爆ぜた。高地の宵の冷気が囲炉裏の側に忍び寄り微粒子として混じり合いどこかにその余臭よしゅうを運んでゆく。

 夜は、静かに更けていた。




「やっぱ、元大学教授だよな。分析好きだ。でもまぁ、機関銃の推理はぴたっと辻褄があってる。俺も最初はそう思った……が、考えてる内に推理は揺れた」

 疲れたのか、芳男は煽るのをいったん休み、両の掌を静かに揺らす。

 


「茶化すな。あんなもん適当じゃけん。あ~でも言わなきゃあの人は止まらん。謎が残ったままならな……そんなことどうでもえぇ、手を引け。おまえはこの件にほとんど関わりがない。そうだろ? あったとしてもほんの僅かな……」


「矛盾してる。追ってるのはこの一件じゃない……じゃなかったのか? それにまるでじいさんが危険人物みたいな言い草だ。じいさんが聞いたら泣くぞ」

「人を一面で見るな。わしがここに来た経緯いきさつをおまえが間近で見たらわしを軽蔑するかもな。そんなもんだ。見方を変えれば正義なんてあやふやなもんじゃけ」


 五徳の上に置かれた鉄瓶の細いぐちから湯気が漏れた。黙ったまま、芳男は蓋を取り茶葉をそこに滑らせる。

 すぐには香りも漂わない。熱はゆっくりゆっくり馴染んでいき、そしてそれは切欠きっかけもなく芳香を放ち、突然に部屋を染めた。

 言葉は意味を失った。





 暫しの間、湯飲みに注がれたお茶に教授が(む~む~)納得なのか感嘆なのか、唸る声だけが響く。それを眺めてから、満足げに芳男も悠然と口をつける。



 

「……旨いな。あの茶畑も手入れすればまだ使えるんだが、わしも歳じゃけん。どうだ? ここで暮らさんか? 水なら十分ある。小さな家なら脇に建てられる。夏はな……湧き水で体を拭いて草の上に寝転がってみろ。そりゃ、気持ちえぇ。秋にはキノコが採れる。冬は、籠もっとりゃいい。なにかをせんでもええけん。……退屈なら好きなことを極めりゃいい。おまえ……絵が好きなんじゃろ?」 



「すんげぇ、魅力的……だが、気づいてただろ? 酔ったふりして俺が代弁してたの。一人は空中庭園を建てるつもりでいる。いい気なもんだ。保険かけたのは俺なのにさ。一応、優先順位はそいつにある。もう一人の気持ちは俺にはわからねぇ」


「…………やっぱりあれはおまえじゃったか。だが……優先順位とは?」


「俺達は教授の研究対象だ。後学の為に教えておいてやるよ。多重人格なんてもんは平等じゃない。スケールがある。例えれば脳に空っぽのお茶碗持って泣いている男がいる。わかるか? 男とお茶碗だ。俺はそのお茶碗にこびり付いた飯粒ほどの大きさで小さすぎて誰にも見えやしねぇ。燃費も悪い。そもそも、その泣いている男が暗闇から勇気を出して飛び出したんだ。金髪に髪を染めてな……」


「研究対象っておまえ……違うぞ。決してそんな風に思ってのことじゃない」

「人を一面で見るなっ、だろ? ふっ……わかってるよ。でもさ、抑えきれない知的好奇心ってやつも事実だろ? そんなことで嫌いになったりしない。教授は俺が今まで見てきた大人とは違う。全然違う。だから……ここは……美しい」

 芳男は上半身を緩め寝転ぶ。何も言えず教授は、二杯目の所作を引き継いだ。



(こぽこぽこぽ)茶の香りが広がる。        

(サタサタサタ)春の雨音と重なる。        




「…………そんな賢者に一つだけ異論がある」

「異論?」

「リーホァが二重人格じゃないって見解だ」

「……わしは確かにその道の専門家じゃない。だがな、学問は学問を知る。必要な検証は十分やった。正しいと見極められるところまでは……」





「俺たちは、お互いがお互いの別人格を誘導して、福島に行くことになった」




 教授の小さな目は見開きも閉じもしなかった。 





「なるほど。恐らくそれがこの一件とおまえとのほんの僅かな接点……ってことなんじゃろ。立木華カープ女子と出会ったのも偶然じゃなかったわけだ……」


「しらばっくれるな。ある程度、予測して聞いてるだろ? 話を聞き出したいんじゃない。確かめたいんだ。危険があるから彼女にはここに来るなと釘を刺した、

――違うか? なにが『ションベン臭いガキを怖いと思ったことは一度もない』

――だよっ! そうじゃなければ、彼女は飛んできている。彼女は恋をしてる。残念ながら、俺にじゃないけど……」


「聞き出すもなにも、わざとらしくフライケーキなんぞ大量に買ってきおって。確かに60年以上も歴史はあるが有名なもんじゃない。あんなもん地元の奴しかしらん………………何歳まで呉に居たんだ?」


「ん? ぅ~ん5歳くらいまでかな? それほどよくは覚えてない」

「おまえが5歳……すると相手は10歳と14歳……あれだな、初恋の相手ってのは一人と相場が決まってるが、それが二人ってわけか? 贅沢な話だ。しかし5歳の初恋が中学性ってのはちょっとませすぎじゃ……」



「残念ながら初恋の相手は三人かもしれねぇなぁ」

「は?」




「俺は、当時の橘梨花の中に眠る、5歳のリーホァに会っている」




「!………………………?」











(ガァァラガラガラガラァ バーーーーーーーーーーーーン!)







 引き戸が勢いよく開けられ、そこには寝汗をかいて火照った様子の喜一郎が、ヨレヨレの甚平さん姿で立っていた。






「なんだじいさん? ちょうど良かった。今、旨いお茶を……」


「ああああああああぁぁぁあああああああああ」

 喜一郎は囲炉裏の五徳を飛び越えて灰を巻き上げながら芳男に飛び掛かった。



「おいっ! なんだどうしたじいさん? おいおいおいって」

「うおぉぉぉぉぉぉ」

 重戦車のように喜一郎は敷居の先、縁側まで芳男をプッシュしていく。


「じじいっ! なにすんだてめぇ! っておいおいおいおい」

「うおぉぉぉぉぉぉりゃぁあああ!!!!」

 喜一郎は勢いそのままノンストップ。あり得ない技で芳男を投げ飛ばす。

(ズサァグイングインシャ)




(ヒュ――――――――――――)




(ドスンッ)


 芳男は空中を舞い、庭の腐葉土が敷かれた大地に背中から着地した。




「ぐっ……アイタタタタッ…………突然なにすんだよっ……じじいってめぇ!」







「芳男っ! 明日の朝、福島に帰ろう」

 喜一郎は暗い空を見上げて叫んだ。

 晩春の冷たい雨が細く降っていた。



 










 

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