第21話

 




 車中で最後に流れていたのは、 Beatlesビートルズ のノルウェーの森だった。

 喜一郎は、呉のはるか手前、尾道にて独り、車を降りた。

 カブト虫はそのヒップをゆらし、振り返らず立ち去ってゆく。




 案内すると言って聞かないカープ女子を喜一郎は唇を塞ぐことなく黙らせた。 

 日本は民主主義国家だから多数決。芳男は同意し脳内でFも賛成票を投じた。



 素人はここまで。

 カブト虫はそのまま広島県警本部で押収されている軽自動車とハイタッチし、駐車場の真ん中で昼寝をすればいい。車の、

 ……鍵は二つある。用事が済めば、喜一郎が回収する手筈。



 ふたりの行く末がどうなるか、気にならないではない。我が家の隣が空き地になるのも寂しいが、それは仕方のないこと。ふたりはどこにだって行ける。

 束の間の旅であったが、彼らと過ごしたいとまはとても愉快なものだった。





 一応は宣言通り、尾道ラーメンの店にも入る。だが、完食とはいかなかった。






 尾道は『瀬戸内の十字路』と呼ばれる要所で、坂の街。映画の街でもある。

 古くは小津安二郎の『東京物語』、大林宣彦『尾道三部作』、最近は、アニメの舞台にもなっているようだ。



 妻がまだ元気だった頃、一度行ってみたいねと話した場所に今、自分はいる。映画の中に再々さいさい映る美しくも切ない情景の中に季節もほど良いこの時節に自分は今、ここにいる。



 なのに喜一郎は砂漠に取り残されたような気分だった。



 些細な疑問から巻き込まれ、踊らされるように行動した。何をしても空回り、なにひとつ見えてこない。親殺し? 遙か昔の出来事に現実味がない。

 佐藤豊の死で世間は毛ほども動かなかった。彼を巨悪に仕立てることで、指の先、まだなにか取り付く島もあるのかと思い込んでいた。それも……霧散する。



 Fの言葉が今更ながら、ボディーブローのように効いてくる。


『リーホァはまだ5歳の子供で少女の中にあるのはたったひとつ、佐藤への

 。少女は見つけて欲しかった。少女は佐藤を守るために行動している』


 初動捜査での思い込み? そもそも自分は元刑事に過ぎない。

 違う角度で物事を見る。ただそのことさえも忘れていた。錆びた老人。




 リーホァが佐藤豊を殺そうとしたにせよ、守ろうとしたにせよ……

 そのどちらであったにせよ、彼女は目的を失った。その先に道はない。

 正直、ほとんど興味がなくなった。憧れの風景に思うのは昔のことばかり。





 最後の事件。もしも妻が生きていたのなら、娘が嫁ぎ独立をしてなかったら、自分はどうしていただろう。

 結局は逃げ出した。なのにまだ拘っている。目先の正義に振り回されただけ? あの時、巻き込んだ人の人生は? 俺を切った飛田は? そのことを、俺は考えたことがあっただろうか。 



 砂漠に独り取り残された気分。なにもかもわからず仕舞い。

 なんて美しい光景だろう。こんな景色の中で、自分はただ空しくなる。


 

 混乱している。過去の事件と今が、螺旋状に絡まる。

 最終的に俺の行動は飛田が全部、事後処理をした。俺は……何もしなかった。

 逃げ出した。俺は何もしなかった。ただ逃げ出した。なのにまた、事件に首を突っ込んで、あいつに助けを求めたのだった。



 いい気になっては策を練る。繰り返し。警視庁公安部と対峙し、ほくそ笑む。

 繰り返し。昔から結局、俺は対象に突き進むだけの、ただの、犬に過ぎない。





 黄金色に輝く夕日がそこにある。それもやがて、影を飲む。



 言葉だけ浮き、実感も、体感も、共感もない。なんだそれ?







 



 手のひらで、” 掌底しょうてい ” で、相手の体の一部分を叩く。



 その男はこの街の漁師の一人息子だった。



 手のひらで、” 掌底 ” で、相手の体の一部分を叩く。



 当然のことながら、呉にいられるはずがない。だから今ここに居る。



 手のひらで、” 掌底 ” で、相手の体の一部分を叩く。




 既に依願退職として処理されている。つまり、警務じんじマター。

 やったのは……靖彦。それで終わりか? 靖彦?



 手のひらで、” 掌底 ” で、相手の体の一部分を叩く。強く、強く、強く。




 警察官が何らかの事由で退職を余儀なくされたら、まず真っ先に警務が動く。 

 それは地元企業、有力者に再就職の斡旋をする為で、そこには元警察官が犯罪を犯すような愚を……つまり警察組織を維持するための遠因たる理屈であるが、ともあれ彼らは救われる。退職者の生活の安定が、すべてを越えて優先される。

 だからこそ、組織の中で、警務は恐れられ、管理し、鳥瞰を許される。


 気取ったところで、自分も現役時代は警務を恐れていた。

 自分はよくとも世話になった先輩、同僚、後輩が、その恩恵に預かっている。迂闊には逆らえない。がんじがらめ、情実の薄汚い渦。



 手のひらで、” 掌底 ” で、相手の体の一部分を強く叩く。

 繰り返す。どれほどの痛みか、自分は何回もやられていて知っている。

 柔道の鍛錬は地獄だった。とくに自分は強かった。だから先達に睨まれた。




「ひぐらしさん……勘弁してください」

 切れ切れに話し飛ばすつばきに血が混じる。


 ここで反応してはならない。相手には恐怖心だけを残す。

 



「げっごふっ……御手洗さんには昔から世話になって……なにかしようと思ったわけじゃないんです。もう報いは受けてるでしょう? ……勘弁してください」


 相手の言葉を聞いてはならない。人間の耐えうる限界。それを突き詰める。

 ただ、息は苦しいだろう。窒息は避けねばならない。脳に血がゆかない。かと言え外傷のつかない秘密の場所を、執拗に絶え間なく憐憫の情を表わさぬよう、徹底的に…………その行為を重ねてゆく。




 再就職は通常、最優先で斡旋される。元、警察官が犯罪を犯すことがないよう組織の論理がそうさせる。だから裏金を作り、有力者の横やりも縦にする。



 だが、彼の場合は違う。彼の依願退職は死刑宣告。

 手に職もない癖のある特殊な経歴の者を雇う会社は少ない。呉は当然として、県内は無理。中国管区警察局内、全域でも無理。

 名前を変えても無駄。己が所属していたのがどれほど恐ろしい組織であったかを知るのは恐らく、かなり後だ。彼はもう……十二分に報いを受けている。



 手のひらで、” 掌底 ” で、相手の体の一部分を叩く。

 


 彼とその家族がどれほど辛い目に遭うかもわかっている。それが理不尽だと、それにあらがった……自分には痛いほどわかる。

 それはわかってる。




 

 こんな姿を娘や孫に見せられるだろうか? 


 自分は悪魔なのかもしれない。真実など、もはやどこにもないのに……


 


「御手洗は消えました。本当です。連絡がつかない。入院したのでもない。ま、まるで透明人間だ。一人息子と嫁と孫も忽然と姿を消した。だが、京エレは何事もなく動いている。わからないんだ。俺は利用され見捨てられ……俺だけ、俺だけがなんでこんな仕打ちをうけなきゃならん? なぁひぐらしさん。俺がどれほどの罪を犯した? やるんなら御手洗やればいいじゃないか、ひぐらしっ!」




 喜一郎は自分自身を嫌いになった。彼はもう報いを受けている。それでも自分は真実を引き出すために、鬼になった。こんな姿を誰にも見せられはしない。








 ……透明人間……アメリカの証人保護プログラムのようなものか?


 靖彦……先回りしておまえは一体、なにをしている?




 無言のまま、喜一郎はその場をあとにする。

 彼は報いを受ける。仲間を裏切った報いを受ける。

 自分が所属していた組織が、どれほど恐ろしいものであったかを……

 ……知るのは、随分と先のことだろう。





 煙草を咥えライターを探す。ポケットの中に一万円札が数枚入っていた。


 どっちが入れた? 去りゆく車の光景が目に浮かぶ。


 紫煙は海風に運ばれ、どこかへと流れていった。






 暗闇に紛れ、密やかに呉への侵入を謀る。そして、呉には何もなかった。











 











 呉に公安の網が掛かっている…………それさえも嘘だった。



 一晩掛けて侵入を謀った経路に、その気配はなく、驚いたことに、リーホァの養父母殺害においては、地元の強行犯(1課)の捜査が粛々と執り行われていた。

 進展なし。



 たった一つ、歪められた情報。

 惨殺。そのことだけが……




 刑事の直感でそれは仕組まれたもの、リーホァに罪を着せるべくプロが犯した犯行であろうと喜一郎は考えていた。

 だが惨殺は、嘘であった。リーホァの養父母は恐怖を感じる暇もなく速やかに脳髄を突かれ絶命し……それだけではなく……厳かに並べられ、腕を組み整然と部屋の中央に置かていた。そして骸にはシーツがかぶせられ……・・・・あぁ。


 遺体に対する愛情、尊厳……やったのは、リーホァだ。






 もうどうでもよくなった。巻き込まれ、辿り着いた先が、そこか?




 遠い昔の おやごろし そして 現在の おやごろし 言葉だけが浮つく。




 サングラスを掛けた女の目撃情報は真実で、それは裏付けでしかない。








「料理がクソ不味くて、毎日殴ってやったよ!」

「兎に角、暗い女だった。陰気でさ」

「教養があって前向きな女性だったね」

「随分、金をせびられた……強請ねだるのが上手くて、可愛げがあって」

「やさしい子で、いつも励ましてくれた」

「普段は明るいのに、かっとなるとすぐ暴力だ。どんな育ちかたしたのかね? あの人」


 なにひとつ、彼女の実像に迫ることはできなかった。





 喜一郎は海のそばに住んだ経験がない。穏やかな海の眺望、それは魅力的だと存ずるが、潮風は毎日では辛いのではないだろうかと、そう思う。

 尾道に比べ坂は少なく、呉も素晴らしい所であるが、住みたいとは思わない。


 ああ、またどうでも良いことを考えている。

 彼女はこの地でどのように暮らしていたのだろう。

 しょうがない。もうすべきことなど何も残っていないのだ。









「あのぅ、すみません。杉崎霊園には?」

 杉崎霊園前と書かれたバス停にひとり座る、女性に声を掛けた。


「え? あの、ここは確かに杉崎霊園前ですけど……そこにコンクリートの階段ありますよね。それ登ればいいんですけど……大変ですよ。誰もここからは……何段くらいあるんだろ。皆さんタクシーで峠の上まで行かれます。ワンメーターですし、一旦戻ってタクシーを拾われたほうが……」


「いえいえ、有り難うございます。まっすぐ登ればつくんですよね? じゃあ、登ることにします。どうせもう、やることもないので」




 忠告したのに急な階段を登っていく老人をあきれ顔で見送り、バスが来たので女は仕方なしにそれに乗り込む。車内に人はまばらで、後ろに年配のご婦人が、前のほうに二人の学生がいるだけだった。制服を見れば懐かしい。母校の中学のものではないか。中ほどの席に座ると、女の鼻がヒクヒクと膨らんだ。






「おじいちゃん……生きてるじゃん」誰にも聞こえぬ声で、そう漏らす。





 

 どこ行きかも確認せずにこのバスに乗り込んだ。なんだか可笑しくなった。

 謎だらけ……息が止まりそう。私に殺されたはずの老人が、生きていたこともさることながら、間一髪、墓参りの最中に出くわせていたらと思うと冷や冷やとする。

 でも心は、少し軽くなった。よくは解らぬが、あの人に恨みはない。



 私を追いかけて来たの? お墓参り?

 謎だ。なぞなぞだぞ、おじいちゃん。



 

 なにが面白いのか、学生達がきゃっきゃと笑う。

 それに合わせるように……バスは静かにゆれた。





 もしかすれば、議員の山林からなにか引き出したのかも……

 佐藤豊の隠し子だとでも思ったのか、山林は研究機関で密かに関係者のDNA検査を行っていた……当然、親子ではない。私の父はひとりしか居ない。


 だが、科学の進歩は目覚ましく、そこには大いなる違和感があった。


 全くの赤の他人ではなかった。私はおじちゃんの……佐藤豊の姪に近い存在であった。近い存在とは私の父とおじちゃんは純粋な兄弟ではなく種違いの兄弟。

 そして私の養父母は種違いの姉弟。そして養母は私の父と腹違いの兄妹。



 図解しないと意味がわからない。ぐっちゃぐちゃだ。ぐっちゃぐちゃ。



 そんなものを後生大事に隠し持って、あいつはなにかを目論んでいたのか?

 物語だとすれば面白可笑しい。けどそんなものが脅しのネタになるものか?

 よくわからない。

 謎ばかり。



 血筋の複雑さは天文学的だが、そもそも昔はそんなことはざらにあった。戦国大名の系譜を見てみればいい。閉ざされた村は血が濃くなるのを恐れ、山間部を流浪する民に種をもらい受けたなど、説話もあるではないか。それほど近親者の交配はかつては普通のことだった。



 私はそんな細かいことを気にしない。遙かなる大陸の血が半分、流れている。






 窓越し後ろを振り向くと、老人は長い坂のまだ五分の一も進んでいない。

「がんばれ、がんばれ」リーホァは囁くように口遊くちずさみ、どこに着くかもわからぬバスの中、ちいさな溜息をついた。
















 喜一郎はただ、白いコンクリートの階段を登る。人の忠告は聞くべきもので、それは忽ち、後悔するほどの距離だった。春なのに汗ばみ、風は吹いていたが、そこに含まれる潮の香りには、やはり馴染めないでいた。



 唯一の救いは、登りきったその先、それが直ぐそこにあったことだろう。



 辺りには風変わりな形の墓石が並び、近頃はどんな宗教でも構わないそうで、その自由は秩序を乱し、それも相まって外国にいるような錯覚にとらわれる。

 目当てのものは、比較的まともな形であった。

 本人達の希望が反映されなかった結果だろう。





 

 墓石には大輪の赤花が添えられている。なんという花だったか……?



 二人共、養子に行って名字は変わったが、あのプレートの中の二人が眠る。



 出来ること。その殆どが終わった。あとは目眩するような階段を下るだけ。















 本当に目眩が起こりそうだった。気持ち的には登りよりもつらい。



「はぁ、やれやれ……」口に出したその瞬間、



 シュッ! パチン! 空隙くうげきが詰まる音。喜一郎は10㎝ほど後退した。




「おいおい、油断してんじゃねぇぞ。俺が本気だったらやられてたぜ?」


「!…………エフ……!?」


「あんたは双子ふたごを産んだお母さんか? なんで見分けがつくかな」


「なぜこの場所が? おまえ、どうして……彼女は?」



「は? 一遍に質問すんじゃねぇよ。スマホなんてのは情報の塊だ。位置情報、垂れ流し。彼女にはちょっと眠って貰った。まぁ用事が済めば、会いに行くさ」


「用事?」


「暫く一緒に居て、あんたの行動原理が極々単純だってのは判ってる。車で広島に来たのは車が必要だったからだ。でなきゃ普通は電車を使う。つまり…………教授の家に行くんだろ?」


「もうなにもすることはないんだ」


「自分の目でどういう人物か確認をする。ただそれだけだろ? それはいいけどあの場所に住所だけでどうやって辿り着くつもりだ? ……それに」


「なんだそれ?」


「土産だ、土産っ! 浅草の家を何日もただで借りたんだ。ばあちゃんに土産もなしじゃあんまりだろうがよっ!」



 そう言って破顔一笑、手に持っていた包みを喜一郎に見せるのだった。













 

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