第6話

 


 グリーンの色鉛筆の領域線に茶色や水色の線が侵食している。それはやがて、中心部に落ちた一滴のインクの色にすべて染められてゆく。赤く 赤く 赤く。

 そしてなんだか、柔らかい、柔らかい、いろいろと柔らかい。


「うぅん?」

 混沌と覚醒の狭間はざまにいる。カフェインとアルコールの戦いに似ている。芳男は首を振って少しだけ覚醒のほうに舵を切った。


「ここどこだ?」

 まったく身に覚えのない光景、いや、部屋。と言うか……赤い。

 ……………………と言うより、柔らかい!


「ぅぅうん。あんっ? 起きたの?」

 いろいろ柔らかかったのは芳男の足に絡みつく太ももと、胸と、首筋にある唇だった。(え!? だれ?)


「なによぉ、キョトンとして。それとも昨日の話ってマジ?」

 そう言うと女はシーツを滑り、ベッドから冷蔵庫に向かう……ほぼ全裸で。


(え? え? ええ? えーっと、これはドラマでよくあるやつか? 酔っ払って前後不覚になって知らない女と……酒? 飲んだ覚えがない。弱いし。えーっと昨日は①冷蔵庫にあった煮物を持って出かけ②髪を染め直して③ばあちゃんの家に行って④猫のこと謝った⑤家に帰って⑥自動販売機でジュースを買い⑦釣り銭口をチェック……)


「そんなわけないじゃんね。ほい、ビールも駄目なんじゃろ?」

 女はスポーツドリンクを芳男に渡し、自分はプシュッと缶ビールを開け旨そうに飲む。それから思い出して、濡れた唇で芳男の胸にキスをした。


「ひゃひゃひゃひゃひゃ」

「何よ? ひゃひゃって? 夜あんなに凄かったくせに」

「えーーと、あのあの部屋、赤いね」

「だから、私は生粋きっすいのカープ女子じゃーって何回もいうとるじゃん。広島の女、舐めんといてくれる?」

「広島出身なんだ」

「あんたねぇ…………この際だから言うとくけど、あんたの野球の知識めちゃくちゃやけんね。いわんとこおもぅとったけど」

「サッカー部だったから野球のことはあんまり、あの……」

 女は両手で芳男のほほをむにゅっとし、まじまじと目を合わせた。


「あんた、昨日、言ってたことマジなん?」

「はい?」


 10分後、カープな卓袱台ちゃぶだいを挟んで、服を着たふたりが向かい合った。そこらじゅうに掛かる、赤いTシャツとウインドブレーカー。それと、ヘルメット、メガホン、ぬいぐるみ等、所狭しと並んではいるが、部屋は清潔で女性の部屋だった。


「はい、お財布、スマホ、バック、あっそうそう、一番肝心なやつ」

 女は白い封筒を差し出した。


「まず外に出たらこの中の手紙を読むこと。それまでは荷物に触らないこと」

「はぁ? 誰が?」

「誰がって、あんたがそう言えっていうたんじゃん!」

(なにがなんだかわからない)


 バタンっ


 女は、芳男をアパートから追い出して「いくらセックス凄くても、覚醒剤やってる奴はうちぃあかんわ」と、つぶやいた。



――――――――――



 芳男は放心状態で通りに放り出された。

(なにがどうなっているのか、さっぱりわからない)


 周りの街並みは見たことがない。が、目に映る様々な粒子をつなぎ合わせるうち、芳男にある明快なひらめきが降りてくる。

 早速、近くに立つ紳士に声をかけた。


「あの、ここ広島ですか?」

「はぁぁぁああああ、わりゃおちょくっとんか! 金髪やったら誰でもビビるおもたら大間違いじゃボケぇ。広島もんいとったらいてまうど!」

 胸ぐらを捕まれる。……確定した。




 しかしその直後、芳男の脳裏にもっと甘美で鮮烈な閃きが浮ぶ。

 

 先ほどのアパートの方向に踵を返す……が、勢い余って一周した。








「俺は……卒業したのか?」
















「若い人はよかね。新婚さんごっこをしたかったんでしょうねぇ」

 風通る、比較的大きな縁側も春の陽気でじんわりと暖まり、そこで老婆はお茶を飲み々のみのみ顔をほころばせる。


「彼らにはすっかり騙されましたよ。叔父さんの家を自由に使えるらしいが……しかしまあ、最近の子の親はずいぶんと寛容なもんだ」

 隣の老人は自分の白髪頭しらがあたまをパチンッと叩く。


「やさしいよか子達ですよ。ほいでも弓絵ちゃんのお母さんが心配なこと」

「大丈夫なようですな。過労だとか」

 冷めただろうかと湯飲みに手を伸ばすが、老人は諦めて手を引っ込めた。


「なにかお仕事を頼まれたようですねぇ」

「あなたにはなんでも話しとるんですなぁ、彼。そのことで電話をかけましてね。慌てて駆けつけて損したと言っておりました」

 老人はすすめられた茶菓子に手を伸ばす。


「あの子は時々、生意気なことを言いますねぇ、本当はいい子なのに。うふふっ生意気と言えば、私はお隣さんはもっと怖いお人かと思ってましたよ」

「私がですか?」

「柔道の達人だとか。まともにやったら勝てないと……喧嘩することなんか考えないでええの、と叱っときました」

 桜の季節には早いのに、舞い落ちる花びらを待つように老婆は目を細める。


「持ち上げてくれたもんですな、はは。あの……こちらにはずっとお一人で?」

「えぇえぇ。ここいらは昔、木場きばもあるし水も抜けんで流行病はやりやまいも多かったもんで嫁をもらうのも嫁に行くのも難儀しまして、口の悪い人なんかは谷の民……」



 もう聞き出すことは何もないと判断して、スカイフィッシュは滑らかな手の動きで部下が仕掛けた最新型の盗聴器を回収した。間欠泉かんけつせんのように1日24時間中、指定した数分間だけ外部と交信するタイプで、盗聴発見器でも見つけることは不可能に近い。


「落ち着いたら二人とも一旦は帰ってくるでしょう。ごちそうさまでした」

「また来てくれると嬉しかねぇ」














(たとえ美人でもこれでは意味がないな)

 かえるのように仰向けにされた女を見て、山林はそう思った。

 周囲のえた匂いと壁面や床ににじむ血、それよりは女の顔に浮かぶ表情が哀れみを誘う。そこには苦痛だけではなく、明らかな愉悦ゆえつ余韻よいんが残っている。

 痛みと快楽と羞恥を繰り返す……………………延々と終わりなく緩やかに。


 特別高等警察、通称 ”特高” にて実際に行われた拷問で、主に ”赤” や無政府主義者、それもインテリ女に仲間を売らせるために使われた手法。当時の男達の下卑た手慰みの側面も大いにあったのだろう。特高の組織網とノウハウはその後、公安警察に引き継がれる事となる。


(このひっくり返された蛙は、今の俺か?)


 紫苑しおん政策会に寝返るのが一呼吸、遅かった。早ければ警視庁公安部を自由に使えた。手駒の暴力団員は次々とミスを犯す。

 老人宅に侵入したぞくを泳がせ、取り逃がす。人員を増やした上で老人には消えられる。おまけにこそ泥の餓鬼にまで虚仮こけにされた。


「洗いざらい喋って嘘はないはずです。これ以上やれば死にます」

 今、話している男は唯一使える。少なくとも女一匹は捕まえた。


「軟禁して栄養つけて太らせておけ! つまらない女だが利用価値はある」

 山林は背中を背もたれに叩きつけ、ライターをカチリとさせた。煙草に火をつけたわけではない。脳みそに着火したのだ。


 この女から得た情報は弱い。外務省のチャイナスクールに頼み込むのは佐藤の常套手段で、懐刀だった自分には先刻承知のワンパターン。

 国際情報統括官組織(表向きは外交情報の収集・分析を専門に行う外務省の一局である100名にも満たない弱小組織)が豊富な裏金を使い、孫、ひ孫を動かして非合法な工作をする。この女もひ孫組織の一員に過ぎない。……ただしこの女は、東アジア担当外交官の若いのと男女の関係にある……らしい。

 外務官僚などほとんどが世襲。馬鹿が次々と難関試験を突破する。

 若い外交官に価値はなくとも、その父親は大使経験者。佐藤には届かなくとも対外務省限定の揺さぶりのカードにはなり得る。



「くれぐれも逃げられるようなヘマはするなよ」

 山林は今度こそ煙草に火をつけ、部屋をあとにした。





「栄養つけて太れってさ」

 山林が出て行った後、(唯一使える)と言われた男が女に話しかけた。


「人の体だと思って好き放題してくれたじゃないの」

 女は目を開けた。


「そう言うなよ~。おまえもけっこう感じてたじゃねぇか。な、リーホァ」


 


 


 








 DTどうてい卒業疑惑の混乱から少し持ち直し、芳男は海を見ていた。

 土地勘はないが海の方向だけはわかる。人の少ない場所に行く必要を感じた。


 やや震える手で、白い封筒を破り、中の手紙を取り出す。



|スマホの電源を入れて、メールを読め|

 手紙にはそう書かれていた。





           なんじゃそれ!!!!!!!!!




 イライラしながらスマホをいじるが、使ったことがないので要領がわからない。

 家から持ち出した古い携帯しか使ったことがない。その携帯もいつの間にか失くしてしまった。

 コンクリートと倉庫と海だけの一人ぽつねんとした空間ではあるが、遠くに犬を散歩させている人が見える。その人に聞けば良いのだが……



 広島で人にものを尋ねる勇気を、芳男は完全に失っていた。









 








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