前回書くの忘れてた。
憲政史上初の女性総理が誕生しましたね。
世襲でも何でもない、庶民の家にうまれた女性が、六十代で本当に一国の首相に。
二十代で「わたしは首相になりたい」と云って、志を果たされました。
彼女にとっては政治こそわが人生なのでしょう。
いつか日本札の顔になるのかなー。
文章教室では高確率で出るであろうお題「仮面」
「仮面の告白」とは云うまでもなく三島由紀夫の作品のタイトル。
人間社会に生きていてわたしは仮面なんかかぶってないと云い切れる人がもしいたら、レア中のレアで本当にそうなのか、もしくは、自分を客観視する目線がまったくない。
それで、積み重なってきたその仮面を勇気を出して取り外して本当の自分の顔で生きていく、というオチを物書き一年生さんだとそのまんまストレートに書きがちです。
それでいい。
ぜひそうして。
筋が平凡?
いえいえ、たとえ「本当の自分の顔にあたる風があたらしい明日を予感させた。」なんていう、百人が書いたら五十人くらいは同じものを書いてきそうなものであっても、その人自身の視点や感性があればいい。
それは無理やり凝った文章を書くのとは違います。
どこかで見たようなものをどこかで見たような表現で「こんな感じでしょう?」と上っ面でさらさらと書くのではなく、文章世界にご本人が深く入り込んで貼り付いているかどうか。
たとえ平凡な一文であっても、文章に貼り付いている方ならば、確かにそうだ、ここはこの言葉でなければならないという執念で書き上げている。
小説とはその積み重ね。
文体とは、その編み込みの果てしない連なりによって生まれてくるものです。
ただね。
それがね。
パクリの集合体であるAIで代筆されてしまうと、もう分からないわけですよ。
エンタメならしらんけど、純文の人は言葉に対して感性が研ぎ澄まされているので、AIなんか入ってきた日には塩まいて追い払うでしょうよ当然。
「いったい誰の言葉で語っとんのじゃワレ」
腹に巻いたさらしからドスを取り出して血吹雪ですよ。
『AIアレルギー』と揶揄されても、逃げ込んだ山中で自衛隊と最終バトルしたとしても、純文の人の多くは、AIでの代筆を認めることはないでしょう。
AIの侵略はここが最後の砦となるはずです。
言葉がその人の魂から出ている、その人そのものなのだから当然。
こういうのはどれほど文学に真剣に打ち込んできたか、一文字たりともおろそかにせずにうんうん唸りながら自分で悩んで書いてきたかなので、さくっとAIを使って、
「三島由紀夫風の文章できた~」
「これでわたしもかっこいい文豪風☆」
「バカどもとは違い、これが合理的な小説の書き方」
高笑いしながら承認欲求を満たして大量生産する人とはまったく分かり合えないところです。
創作に対する身構えが根本からして違うので。
「外向きの仮面を取って、楽になる」
この筋立てを、才がある、または熟練の皆さまが書く場合。
「わたしは仮面を外したのだ。おわり」
たとえ同じこの終わり方であっても、やはり一年生さんとは一味違うものが出来上がるんじゃないでしょうか。
殺人者が崖の上で笑っているかもしれません。
仮面とは幼少期からの刷り込みもあれば、社会が求めてくる仮面、他人から着せかけられた仮面もありましょう。
教室から飛び出したいのに、
「おとなしく座っていなさい」
と仕込まれてきた自然体の否定でもあるわけなんですが、それが「しんどい」のか、わりと適応できちゃうのかは個人差があって、骨折しやすい人・そうでない人みたいに、体質的なものもありそうです。
適応できちゃう人は無理してるのかといえばそんなこともなくて、「生来ぼーっとしててべつに教室にいても苦ではない」だったり、「教室に座っていないと先生やお友達に迷惑がかかるし、自分も怒られるんだな」と納得できたから自発的にそうしていたりする。
自分が納得しているのだから、ストレス値だってぐーっと低い。
一方で教室から飛び出したい児童からすれば、彼らのそんな姿は、
「あいつらはいい子ぶっている。本性は違うくせにさ。絶対に腹黒。正体を暴いてやる」
と映るのかもしれません。
困るのは、「教室にいたくないのに無理やり教室にいることを強いられている、あるいは我慢出来てしまう生徒」で、適応障害を発症しがちです。
違和感を抱きながらそのまま大人になっている。
それで心の方が壊れはじめてくる。
本当のわたしはこんなわたしじゃないのよ。
でも本当のわたしって?
もう分からない。
わたしは元々はどんな人間だったのだろう。
でも勇気を出して変わると決めたの、心を覆う仮面を捨ててやりたいことをやるわ……!
アナ雪のエルサみたいな。
これをストレートに、でも上手に書こうとするのは難しいです。
だからこそぜひ!
これのどこが悪いの? がまだ分からないうちに!
そのまま素直に書いてもらいたい。
なぜかというと、わたしや、生まれつき純文の人はひねくれ者が多いので、こんな課題を出されてもまず最初に、
「は?」
という意識がきちゃうので(笑)
なにそれ?
仮面をとって素顔のわたし心を解放してこれからは風を感じて自由に生きていく?
は?
って(笑)
なにが「は?」なんだかwww
とにかく純文に傾くほど、そういう人たちなのでwww
わたしなんかは小説とはエンタメだー!と思ってる派ですから純文の人たちのあの姿勢は尊敬こそすれ仲間にはなれないんですけれど、でもホント好きだわ純文の人たちの独特のねじくれ具合w
それだからこそ「大勢の読者さまから愛されちゃう心のあったかな小説を書く可愛いわたし💕」ここに執筆の目的がある方々には絶対に書けない、狂人の心理なんかも書き切ることが出来たりします。
読者の共感を呼ぶって何スか?
それで、それを書くことによって「外からどう思われるか」はどうでもよいんだけど、書くことでその自意識まで「これは俺にしか書けん」と逆に高く保つっていうのが純文の人々なのよ(笑)
三島由紀夫と太宰治は双方にコアなファンがいて、両名ともに仮面をテーマにして書いてますよね。
三島は太宰が大嫌いで、公言して憚らなかったんですけど、都会っ子の三島は教室にいることが出来る生徒で、田舎者の太宰は教室からふらあっと外に出てしまう生徒で、そんな太宰に三島は苛々して「文章がなってない」だの「身体を鍛えろ」とキィってなってしまうんですけど、太宰はそんなの慣れっこで、たとえ面と向かって三島由紀夫に詰められても太宰のことですから、
「してはいけない、とは、いけないといふ、その人の都合なのではないでせうか」
「ぼくはやぶれかぶれの自然体として、ちからいつぱいこの世を叩く赤子になりたひのです。ありのままをありがたがりながら、いつぽうではありのままではいけないといふ。そんなのは自然ではないのではないでせうか」くらいのことは云いそうです(wwwうぜえw)
一文字一文字が魂そのものという気高い純文の方々は天守閣にいる別格として、脇においておいて、野戦場にいる我々にとってAIの使用はどこまで心情的に認められてしかるべきかっていう話なんですが、これが漫画ならアシさんの担当分、トーン貼ったり背景やモブ描いたり枠線ひくまではOKみたいな?
担当さんに相談するところまではOKみたいな?
でも漫画なら、主役クラスを描くのは漫画家本人でそこは動かないじゃないですか。
それをAIは文章自体を生成できちゃうんですよね。
人間の手がまったく入っていない場合は、今ならまだ破綻が見えますので、運営さんがBANしちゃえばいいのでは。
AIちゃうわい!(涙) という人もいるので判定は慎重にしないといけませんが。
AI執筆小説がランキング上位を独占していくのは、単純な話、自力派ユーザーさんたちのモチベーションがだだ下がりになるんですよ。
(※弱小ノウチハ関係ナイ)
(新作)
◆「神社の白ねこ」
https://kakuyomu.jp/works/822139838878465425
柴田恭太朗さんの三題噺をまとめてドン。
今週分のお題に紅葉が出てきたので、これ以上貯めたら冬になってしまいそうなので慌てて書きました。