今回で終わるよ。
登場人物が勝手にしゃべったり動いたりするなんてあり得ない。
それは『創作』とはいえない。
そんな主張をする方は、まず、主題をしっかり持っているのでしょう。
「銅山の公害問題について書く」とまず決める。
「ここは先祖代々の土地だぞ、耕してきた土だ、なんでおらたちが追い出されるんねー!」と叫ぶ者がいる。
それを叫ぶのは誰だ。
村人で、サチの父親だ。
サチは十六歳。弟と妹が二人ずついる。
すんでいるのは尾賀町字松村。銅山の排水で汚染される渓谷。
サチは村の三郎と仲良しだ。
祖父はすでに他界し、祖母がいる。サチは祖母に懐いている。
「おらはここから出て行きたくないがなあ」
囲炉裏の前で祖母へこぼすサチ。
「じいちゃの墓も裏山にある。おらは出て行きたくないが」何度も繰り返すサチ。
事前に、
「誰が、何を喋るのか」
「そのキャラはどんな生い立ちで、どんな家族がいるのか」
「誰が拳を振り上げ、誰がそれを止めるのか」
最初から焦点がひじょうにクリアに絞られている。
このタイプの方にとっての小説とは、演劇の脚本のようなものです。構想を基にして、台本どおりにキャラが喋り、動く。
作者は配役した人物を、舞台の上で役者を動かすようにして、小説の中に書くのです。
だから登場人物が、主役から村人の末端にいたるまで、勝手にしゃべったり動いたりすることなど、『絶対に絶対に絶対にない』と断言できる。
舞台上のことで知らないことなど、『絶対に絶対に絶対にない』と言い切れる。
もし勝手に動いたり知らないことがあるなら、それは創作とはいわない。
小説とも呼べない。
ただの文字書きだ。
誰よりも創作する資格がないゴミお疲れさまーw
しかしです。
キャラが勝手に動いたり喋ったりする人は小説を書いてはいけなかったんだ……
分厚い設定資料集を作らない人間は小説を書いてはいけなかったんだ……
と傷ついて、創作を止めてしまう人が出るのならば、
「世の中にはその方法をとらずに書かれた傑作だって沢山ある」と誰かが云わないといけない。
他者をゴミ呼ばわりするだけあって、彼らの方法は最高級であり最上位かもしれないが、世の中には、「最高級で最上位の作り方ではないが、良い小説」だって沢山ある。
「キャラが勝手にしゃべったり動くんです~♪」
そんな歌って踊るノー天気な文字書きはどうなっているのかというと、現実には勝手にしゃべったり動いたりなど、作者が寝ている間に文字が魔法のように出現するわけではありませんので、
「小人のくつやさんかw そんなはずないじゃんw」
厳密な意味では「ない」のですが、感覚としては「ある」という。
そしてこの感覚を「ない」人に理解してもらうことは不可能でしょう。
読書中の没入感を知っている人ならば「分かる」かもしれません。
小説の世界がどこかに本当にあるような感覚。そこにいる登場人物は、作者の手を離れ、その世界の中で彼らの人生をそれぞれに生きている。
書き手は舞台監督ではなく、全体を俯瞰している傍観者という位置です。
銅山かぁ……山が近い。空との境界がはっきり見える。白い雲がもくもくと現れてくる。
「サチ」
峡谷に呼ぶ声がする。
「サチ。見てみ、今日もまた川が青いで」
川が青白く見える日。それは魚が死ぬ日だった。
タイトルは「青い川」とでもするか。
松村の名のとおり、松林がある。稲作…はやってない。養蚕業をいとなんでいる。桑の木がある。
「黄色い煙が流れてくるようになってから山が枯れはじめた」
「魚が死にはじめた」
「水すらそのうち飲めんようになるぞ」
古木のような皺を顔に刻んだ老人たちが顔を寄せ合い、嘆いている。
金さえもらえりゃ土地を売って出て行くが、と嫁をもらったばかりの若いきっちょんが腕をかきながら口を出した。
「おれも、出て行ってもええ」
きっちょんに賛同する者もひとりふたりと、このところは増えてきた。
千年以上も同じところで生きてきたのに、今さらどこへ行くというのか。
その重みはサチにはまだ分からない。分からないなりに、山向こうの鉱山が大雨に流されて消えてしまえばええのに、と思うことがある。
「おらはこんな汚れた処で死にたくねえな」
きっちょんが、また云った。その頭をきっちょんの父親が強く叩いた。
問)きっちょんはなぜ、「金さえもらえりゃ土地を売って出て行くが」と言ったのですか?
問)父親はなぜ、息子の頭を叩いたのですか?
回答)知りません。分かりません。
それっぽい回答)
きっちょんはサチと同じように若いので、千年以上続く村の歴史の重みが腹におちていない。そのうち生まれる子どものことを考えて汚染されていない土地に行きたいと願っている。若いので闇雲にただ外の世界に出ていきたい。金さえあれば新天地でも何とかなると楽観している。
父親は息子が迂闊なことを言うのを止めさせたい。村八分になることを父親はおそれている。先祖代々の土地を離れようというきっちょんの言葉に賛成する者が増えていくのが怖ろしい。
脚本家タイプの人ならば、自分が舞台の監督です。指導している客席から舞台を見るようにして、
「そこで村人Bが鼻の頭をかく!」
「そこは、こういう気持ちで、そうしたんだ!」と台本を手に迷わず回答するでしょう。
書く資格がないタイプならば、「それっぽい回答をしてもいいけど、読者にお任せ♡」だったり「それは~こうです」と語ったり・語らなかったりする。
※よくコメントの返信で、作者さんが「それはーああでーこうでー」「実はこんな裏設定があって~」と語ってますが、わたしはあれはいいと思っていて、何故かというと、コメントした人も作者も、同じ作品に対して熱いやりとりをしているwin-winだからです。
なんかあそこで説明するのはダサいみたいな風潮もありますが、語りたい時は語ったらいいんじゃないですか?
本文にない裏話をきくことは楽しいです。
ファンサービスとしても十分にありです。
どちらを選んだところで、「本編で語れよバカ女w」「分かりませんだってw これだから小説を書く資格がないボケクズ女はw」と批難する人はするでしょうから、一緒一緒。
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豆知識。
ダンスィ―を味方につけて、操りたい時。
「あの女は感情的なんです~」と泣きつくと100%成功します。驚異の成功率です。
理由。
男性は「感情的」と言われることを何よりも嫌がるので、「あの女は感情的」と囁かれた女と縁を切り、攻撃する立場に自動的に回ってくれるからです。
上記は男子限定ですが、男女問わず、敵対させるのに100%成功する方法。
「あの女は人を大切にしない」
「あの女は感謝しない」です。
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脚本家タイプの人は、「テーマはこれ、キャラのセリフはこれ、この場面で駐在が出てきて、このセリフを言い、この場面で去る」と舞台監督として書き始める前からコンテやプロットで全てを把握しています。
「外観はこう、声優はこの人、着物はこの柄と色。小物はこれ、背景はこれ」と事前に設定資料集で決めています。
なので、
「登場人物が勝手にしゃべったり動いたりすることはあり得ない」という回答になります。
彼らにとっては、コンテにないこと、(勝手にしゃべる・動く・知らないことが発生する)というのは、アニメーターや声優が勝手に何かやってるくらいの「異常」です。
勝手に動き始めたら、殺意を抱き、舞台に駈け上がってきて丸めた台本で殴りに来るでしょう。
一方、ざーっと流れていく脳内の映像を掴むように書き始めて、徐々に焦点を絞り込んでいく園芸タイプの人は、世界観やキャラとお知り合いになるようにして、「山鳩が鳴いている」みたいなことをそのまま書きます。
「村人Kの設定は、ちゃんとしたんですか?」
「その山鳩は何才設定ですかぁ? 決めてない? はい、書く資格がない」
パンツァータイプの人は両刀いけるし、プロッターの理解も出来るのですが、事前に登場人物をすべて決めてセリフを決めて、物語の中のタイムスケジュールを最終シーンまで固めるプロッタータイプの人は、パンツァーの人の脳内がそもそも理解できないので、「そんな方法はあり得ない」とよく言うんですよね。
「劇が始まってから、いきなり予定外の役者が舞台にあがってきたら台無しになります!」
そうおっしゃる。
ごもっともですねー。理解できますねー。
ですが、「本当はこんなことをする予定ではなかった」動きを始めるキャラのせいで思わぬ方向に物語が転がっていくことは、かなりよくあることです。
書いているうちにどんどん理解が深まって、最初にはなかった「実はこんな裏設定」が出来上がって、主役をくうほどに育つキャラなんていうのもそれでしょう。
完全なちょい役だったはずなのが、重要人物としてどんどん生きてくるのも、そうです。
または、人気が出すぎて殺す予定の回で殺せなかったキャラ。そのまま生かして物語を進めなくてはなりませんから、これも「最初に決めたプロット」ではないですよね。
勝手にキャラがしゃべったり動くのは「いけないこと」ではありません。
彼らが物語のなかで血肉をもっている証左です。
※収拾のつかない暴走は駄目よ