連載「どうせならば俺の手を」
完結しました。
目標だったPV150は同時更新した第一回第二回目で100に届いていたこともあり、最終回直前でPV460まで達しました。
過去最高のPVです。ありがとうございました♡
カクヨムの7割の人が星一桁台なのです。
その中には誰からも読まれないままに何十万字も大長編を書いている人も大勢います。
とくに中篇以上になると、みんなも自分の作品を書いていることもあって、特定ジャンル以外読み専がほぼいないカクヨムではなかなか読んでくれないものです。
今回はずっと連載を追いかけてくれる人が数名いて、とても励まされました。
ありがとうございました。
恋愛小説、書いていると楽しいですよね~。ほんと楽しかった。
「自分の好きな作品を書いている」と云うと、「自分の好きな作品を書いているなんて、それでいいと思ってるのか」とボロカス中傷されるのですが、それの何が悪いのかわたしには分かりません。
もっとも、中傷する人は何としても叩き落すことに目的を置いているので、
「世の為、ひとの為に、みんなが喜んでもらえるものを書いています」
とたとえ云ったとしても、「だからお前はダメなんだ」「良い作品を書いている人は流行など気にしてませんよ? 無知ですねw もうちょっと世間を知ったら?」と今度は正反対のことで、同じだけの熱量をこめて必死になって非難してくるでしょう。
「自分の好きな作品を書いていいと思ってるのか」
これを平気で云う人は、書き手が自分の好きなものを封印して、死んだ目をして、発言者の好きなものを指示命令に従って書いていないと許せないという強迫観念を持っています。
『無料』で、自分の都合のいいように他人が動いていないと気が済まない。
「いいえ、わたしは世の為、ひとの為、みなさんが読みたいと思うものを奉仕の精神で書いています」
イイ子ちゃんぶるのではなく心底この解答が出来る人は、よほどの人格者なのでしょうか。
そんな作品なんて、「みんな」という漠然とした何かにおもねって書いているだけだから、しかもそれとても特定の対象あてだろうから、灰汁もえぐみも深みもない、自身の好印象を狙って書いたふわっとした作品じゃないでしょうか。
絵本ならともかく、わたしはあまり読みたいとは思わないけどなー。
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(以下、8月10日分)
カクヨムで愕くことは連休や盆暮れ正月にまったく関係なく、大勢の人がずっといることです。
里帰りとかレジャーとかしないの?
お休みだけど小説書いてるの?
「好きなものを書いていいと思ってるのか」
も謎すぎる言葉なのですが、
「合理的に書け!」も意味不明でしたよね。
仕事の効率面では合理化って必要ですよ?
わたしなども、そこまで減らすかっていうくらい無駄な過程をばっさばっさ省きたいタイプだし、職場の手順が無駄だらけで眩暈をおこしてたし、何の考えもなしに「合理的にやらないと駄目なんだぞ」と、『ただ賢そうに見えるから』という理由だけで偉そうに合理化合理化と口にしている中身のない人間からまず消してやります。
「この無駄な時間なに??」
そんな会議にうんざりしたことは、誰でも山のようにありますよね。
かたちだけが重要で、中身はない。
社員の時間を拘束していることだけが重要で、中身はない。
もちろん定期的に顔を合わせておくというのは職場においてとってもとっても重要です。
定例の会議やミーティングがあるのはそのためです。
でもその時間が、ただの惰性におちた無駄ならば無意味です。
無駄込みで給料とはいえ、無能なのに「仕切りたがり・口出ししたがり」が上司だと、部下は大変ですよね。
でも小説において「合理的」って(笑)
合理的に書かないとダメなんだぞ!って(笑)
いちばんやっちゃいけないことだわ、小説を合理的に書くって。
合理的に書きたい人はAIさんに書いてもらって、適当にちょっと整えて自分の名前で発表したらいいんじゃない?
それがもっとも合理的ですよね。
その人が一番欲しいであろう、大絶賛はそれできっと手に入るでしょう。
合理的に小説を書くタイプの人なら、感動テンプレや流行テンプレをただなぞるだけで、「今日も合理的に書けたか」と大満足するんでしょう。
自分の中で「これが最も合理的な書き方だ」と自分なりの方法を確立するのはいいんですよ。
それは全然いいんです。
たとえ人から「何してるの?」と想われるようなことであっても、それがその人の執筆スタイルだからそれでいいんです。
たとえば、
書く前に筋トレしないと書けない。
歴史小説を書く前に着物を着て抹茶をたてないと書けない。
瞑想したり。
散歩しないと。
猫と戯れないと。
それは本人の中で儀式化したものであって、それをやることで合理的に小説世界にアクセスできるのならば、それでいいですよね。
自分の身体が欲していることなので逆らわないほうがいい。
「合理的にやれ!」
でも、人に向かってこれを云う人って何故か、最も不合理で無駄なことを人に「やらせよう、やらせよう」とするんですよね。自分ではやらないの。
そして他人に向かって「合理的に小説を書け!」と怒鳴りつけてくる人に対して、「具体的にはどういうことですか?」と訊いても実になる回答はないんですよね。
何十年もかけて一ミリの矛盾もミスもない設定とプロットを創れ!
そんな、自分はやったこともない非合理的なことをゴリ押ししてくるのがせいぜいです。
偉そうにしたいというだけで、「合理的」という賢そうな単語をぶつけてきているだけだから本人に何の考えもない。
ことこまかに設定を作り、最初から最後までプロットを完璧に作り、執筆とは、プロットと設定を書き込んだ分厚いノートをなぞって書く『作業』であるというのが、一番合理的で書きやすいと本人がいうのなら、それでいいんですよ。
それがその人のスタイルだから。
わたしが疑問視しているのは、いったいいつから小説は、「1つのマニュアルで書くことだけが正解」そんなことになってんのか?っていう点のみで。
そして人に「やらせよう」とする人は、自分では決してやらない。
「合理化、合理化」とそれが正しく唯一の解であると触れ回るわりに、自分ではやらない。
自分の労力を使うことは大損だし、具現化する力がないと知れ渡るのが怖いから。
だから人に命令して、人の労力を使って自分の正しさを証明しようとする。
相手がどんなやり方を好むのなんかどうでもいい。
ただ「合理的にやれ!」と頭から怒鳴りつけるだけ。
合理的。
合理的な小説はAIさんが全て書いてくれる時代です。
AIに下書きさせて、ちょっと手直ししたら、すぐに賞が取れるような、そんな時代です。
人間である我々は、手作りの味という最も古臭く、非合理で、時代遅れの方法をとっているのです。
小説とは人間を書くこと。
だからAIが描き出す、お手本文章の寄せ集めの名作とは違い、わたしたちが書くものには読者の首をひねらせたり、重くもたれたり、「なぜこうなったw」があり、時としていつまでも後に尾をひいたりするふしぎな要素がたくさん入るのです。