◆「煙草の先」
天川さんの【紫煙~物語を彩る昭和の文化遺産】の趣旨、創作内の煙草文化を守ろうに賛同したので書き下ろしてみました。
お世話になっている柴田恭太朗さんの三題噺企画との抱き合わせです。
現代ドラマならば、このくらいで丁度いいのかも。
純文仕立てにするなら、煙草の描写にもっと何かを被せていって「何が云いたいのか分からん」という仕上がりになったかも。
白黒映画なんか観てたら男性はみんな煙草吸っててかっこいいです。
◆「どうせならば俺の手を」
第二章も後半になり、終着点も見えてきました。多分15話で完結します。
書き終わるの寂しいなー。
「率直に言えば、☆が少ないと思います。」
本作と去年の「あなたの許に嫁ぐとき」の双方について九月ソナタさんから率直に心配されてしまったのですが、えっーと、いつも中篇や長編はあんな感じなのです。
星ひと桁から、じりっじりっと☆が増えていき、去年の「あなたの許に嫁ぐとき」はお陰さまでようやく星30になってます。
変に「読まれない」耐性があるのがよくないんでしょうねー。
不遇時代があまりにも長いものですから、作品を読んでもらえない状態が当たり前みたいになってるんですよね自分でも。
原因の二つ目は、わたしが面白いと思う作品と、多くの人が面白いと思う作品がひじょうに離れてます。
「流行ものしか正解ではない」方々からは、一瞬で瞬殺です。
これは「良い作品とは何か」という問題ではないのです。
まったくの別問題。
ポルノが読みたいのにポルノ要素がなければ誰も興味をもたないという感じに近い話です。
頁をめくるたびにそういう場面がある。
これがポルノ小説を読みたい人が求めているものです。
流行がNTRなら、タグにNTRと入れるだけで読者数は伸びる、これと同じです。
わたしの考える恋愛小説と、多くの人が望む恋愛小説の間にすさまじい落差がある段階で、人気を目安にする方々の眼からは無価値なのです。
それでも書き上げて、置いておくと、
「こんな小説が読みたかったのです」
と後々からでも、わたしの作品をすごく気に入ってくれる人がちらほらと現れるのです。
そんな時こそ、
「自分の好きな作品を書いていて良かったな」
と心から想えます。
最近、過去作の中でもまとまった分量の中篇を通しで読んでくれる方がいて、とっても嬉しいです。ありがとうございます♡
こうやって後から後から、ちょっとずつ☆が増えていくのが我が家のスタイルです。
べつにわざと斜に構えて、「流行に逆らおう!」とか考えているわけではなく、わたしにとっては今書いているものは十分に恋愛小説なのです。
溺愛と過剰を含んだ恋愛小説を書くことに挑戦して、わたしなりに、それを書いているのです。
【人は書けるものしか書けない】
そんな賢者のお言葉(みちのあかりさん)に素直に従っております。
それとは正反対に。
悪役令嬢が流行なんでしょ?
流行の溺愛を書いたら人気が出るんでしょ?
と、ここにさっさと照準を合わせて対応できる人は商業作家への【近道】が開けている人です。
あくまでも近道なので、それがいいか悪いかは別です。
成功する方だと、そのつど流行要素を取り入れて、生きのいい作品で軽々と売れっ子になります。
そこに葛藤や苦しみなども微塵も発生しません。
何故ならこちらのタイプの方は、もともと強く書きたいと思っている物語がその人の内面には、「ない」のです。
指標となるものが人気や売り上げです。
だから簡単に「次はどうしたらいいと思いますか~?」と読者にリクエストを募れるし、ウケが悪ければ未完結で切り上げるし、
「自分の書いたもので大勢の人が喜んでくれるのがすごく嬉しい!」という気持ちだけがある。
そこは持って生まれた書き手としての性質の違いです。
ある意味とっても幸せな作家生活を送れる方です。
良いですよね。
「お前うまいな」「続きは?」「こんなキャラ出してよ」「この人とこの人をカップルにしてよ」と読者に云われて、にこにこしながら書いている。
「出来たよー」
「おーいいじゃん」
この流れの、そのまんまなのですから。
後に何も残さず小説を読んで人生が変わるほどの衝撃を受けたり慟哭する経験も一度もなく、ただただ『みんなが喜んでくれるものを』『好感度の高いものを』『お金になるもの』を目指して書くのです。
「プロを目指すならば流行を調査して戦略的に流行ものを書くのが当たり前」
とある人にある人がコメント欄で絡んでいるのを見たことがありますが、そりゃもうその人たちとは、最初から書く動機からして違ってるんだからさー。
討論にもならんですよ。
小説を書く主目的が、「いかに人から受け入れてもらえるものを書くのか」にあるのはとってもいいことです。
ただ、物書きしてる人って、そういう人ばかりじゃないのよね。
小説を書き出した動機が、外側ではなく、内面にある人もいるのよね。
プロだって、内向きと外向きがいるのよね。
たまたま内向きで自分の譲れない小説世界を書いていて、それでいて外からの評価も高くて衣食住を支えるだけの稼ぎが出るというのが、作家としては最も幸せな形態なのかなって思いますが。
というのもやっぱりこちらの書き手さんの方が強い。
作品が強い。
「あの作品に影響を受けた」
と多くのクリエイターが名を挙げるのは、有名無名問わず、内面から出るもので生み出された作品の方です。
でも作家というのはそういう方ばかりではないので、商業として通用する、人気追及型に振り切っていても別にいいんじゃない?
「プロを目指すならば流行を調査して戦略的に流行ものを書くのが当たり前」
これが出来る人は作家というよりはライターで、生まれつき、そういう人なのです。
はじめて小説を書いた瞬間からそういうタイプの物書きさん。
ただそれだけ。
「戦略的」
「合理的」
「分析」
このあたりの単語が出てきたら、単子葉植物と双子葉植物のように書く動機が根底からまったく違う人なんだなーと判断します。
面白いのは内的な動機で書いている人は外側向きの書き手さんのことが理解できるんですが、外側向きの人は、内的な動機の人のことが「さっぱり分からない」んですよね。
いかに広く受け入れられるかを目的にしている人はお外の世界に迎合して合致していくことが大切なので、内的な動機なんて「分からない。意味がない」のです。
それで、心配されてしまった星の数の少なさなんですが、「通りすがりに手に取って読んでみたら面白かった」と想ってもらえるには、あまりにもわたしが無名で底辺なので、手に取ってくれる人もいないのですよ~。
つまりすべては無名の哀しさです(笑)
亀の歩みのようにじりじりと星は伸びていきますのでご心配なく~。
カクヨムにおいて、星が少ないことの利点は、「読者を大量獲得する目的での星くばりや営業としての星爆はこの人はやってないんだな」ってところだけでしょうかね。
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「読者の共感」について。
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「わたしの共感を呼びました」ならそのまま理解できますが、「この作品は読者の共感を呼んでいる」という場合。
「読者の共感」とは、作中でペットが死んだら哀しいとか、困難を乗り越えて優勝したら嬉しいとか、ほとんどの人がマッチするであろう感情を生み出す描写のことですよねきっと。
それがあったら、
「読者の共感を呼ぶ工夫をしている」とプラス評価になる。
これ、怖いですよね。諸刃の剣。
例)東日本大震災のちょうど一年後に、桜並木の下「それでも生きていく」とばかりに桜に手を伸ばす老若男女の笑顔を撮影し、そのフィルムをフランスの何かの映像コンクールに持ち込んで相手にされなかった作品があったのです。
美しい日本の桜。
大災害から立ち上がる人々の笑顔。
愛。
希望。
絆。
ペラペラすぎてこうして書いていても脳から消去したくなるほど恥ずかしい作品でした。
この映像作品、大震災への同情など微塵もなくバッサリ切り捨てられまして、そこも実にフランスらしくて、変な意味で記憶に残ったフィルムです。
いやいいんですよ、桜に笑顔を向けても。
「震災から立ち上がり、ラストは希望をこめて桜に笑顔を向けること」
そんなお題で作品を書けっていわれたら、わたしだってそのラストを書きます。
でもその感動テンプレを詰め込んだ桜のフィルムって、『誤解されず、分かりやすく、読者の共感を呼ぶ』かもしれませんが、観たら他の作品と一緒になってすぐに頭から消えていきそうですよね。
住宅か保険会社のコマーシャルでも観たのかな~って。
その映像作品、老若男女が桜を見てにっこーと微笑み、桜吹雪に向かって手をのばし、昼間の桜並木の下で立ち直って前を向いて生きて行きます感をごりごり出してました。
「これって感動でしょ?」
「愛と夢と希望でしょ?」
日本の桜きれいでしょ?
笑顔だよ?
撮影者はこれで、「観客の共感を呼べるだろう」と思ってるわけじゃない。
春になりました。
桜を見上げて「わあ……」と眼を見開く人々。
あんなことがあったけれど今年も変わりなく桜は咲いたんですねえって。
出演者、アホみたいな笑顔で桜を見上げて踊ったり、手を伸ばしてました。
これが読者の共感を呼ぶ工夫だよ!
呼ばねえよ(笑)
少なくともわたしの共感は呼びませんでしたよ。
「辛い現実を忘れて映画を観た後、人の気持ちが明るくなるような作品を」
ならねえよ。
一年しか経ってないんだから、どう考えたって現実の悲惨のほうがまだまだ勝るだろうよ。
むしろその幸せな作品で現地の人を傷つけてるよ。
水が引いた後の、真っ平な茶色の大地。
親戚に引き取られていく子どもの頭上にも桜はあるが、桜に向かって希望の笑顔を向けたりはしない。
桜並木を睨みつける老婆。
整理のつかない、もやもやしたものを残したままで終わる。
フランスで賞をとる気なら、方向性はこっちだったでしょうね。
「震災から立ち上がり、ラストは希望をこめて桜に笑顔を向けること」
一方で、これがそのまま出されても、「いい。すごくいい……」となることもあるんです。
それはテンプレの魅力を詰め込んだ、上質で上等なお弁当みたいなものです。
テンプレが駄目なのではなく、「期待どおりのしっかりした良い味」であったら、それは「いいね。美味しいね」になるんです。
死亡フラグが立ってる老人が仮設住宅で孤独に死ぬ。
家族で歩いた桜並木を、遺児がてくてく歩いている。
向こう側が見えないほどの桜吹雪。
誰かが桜を見て微笑んでいるが、その笑顔の意味はさっぱり分からない。
ここはもうわずかな差です。
桜と笑顔を撮っても、感動テンプレであっても、わずかな差によって天地ほど作品の印象が変わる。
「桜だね、笑顔だね。愛と感動だね」これであっても、たま~に賞を獲ってたりして「エッ」ってなるんですが、被災地発信であることの配慮など微塵もなくぶった切ったフランス映画界の選球眼は流石でしたというオチで終わります。