三連休たのしくお過ごしでしょうか。
カクヨムコンは旧作が不利であることがあらためて分かったので、出そうと思っていた長編ホラー(過去作に書き足したもの)は、別の機会に回します~。
現行で人気のあるホラー路線とは系統が違うので見向きもされなさそうだし(;´∀`)
長編は読む方が大変なので、一斉スタートするカクヨムコンでは読者の方が忙しすぎて、「あれもこれも読まないと~(;'∀')」と追われますよね。
カクコンをやっていない時にでもカクヨム内で発表された作品には、秀作が山のようにあるのです。
皆さんのお手許にあるそんな旧作を、何とかならないかなーと思ったりします。
何を書いても一気に上位に抜ける組織票保有者の圧巻の優位性、これは平常時でもコンテスト期間中でも変わりません。
そんな方々と比較して、小グループやピンで活動している無名の人に勝ち目はない。
ましてや旧作など。
と思っていたら。
沈没していたホラー作「六組の廊下」が、地球圏内に浮上し、最高で30位まで届いてました。といってもそこで粘れず、瞬間風速ですぐにひらひらと消えましたが。
レビューも入れてもらったのに追い風効果ゼロのまま30位どまりで、申し訳ない。
でも一瞬でも、旧作が五十位以内に入れたことは夢かと思うほどに嬉しかったです。
駅伝の強豪がビューンと高速で飛んでいき、その後を、えっちらおっちら、弱小チームが先頭とものすごいタイム差をつけられながら走ってる。カクヨムコンはそんな感じ。
差をつけられて走ってるって云ったって、1時間以上も全力疾走出来ちゃう駅伝の彼らはそのへんの人とは比較にならないほど速いのですけど。
毎年シード権争いに注目が集まりますが、ぎりぎりの十位でも、おっそろしく速いんですよね実は。
箱根駅伝も最後のゴール前で直線になるじゃないですか。
あの直線部分だけでも、へとへとのはずの彼らが日本橋あたりからスタートした一般人を余裕でさーっと追い抜きますから。
あんなに速いのに、ほとんどの人が陸上界に残らず、大学卒業後は一般の会社の会社員です。
なんて厳しい世界なのでしょう。
日々新作が上に乗っかるランキングと、リアルな順位はまた別で、今回そっちは確認できませんが、組織票を持っている方々のようなぶっちぎりの上位は無理でも中間から下位を定位置にしていると、カクヨムコンもそこそこスリリングです。
抜きつ抜かれつ、もっとも揉まれるあたり。
ハラハラドキドキが味わえますよね。
こんなコンテストも大きな組織に入っておけばなんの心配もなく安泰なのでしょう。
けれど、中小グループや、小舟で波に攫われそうになりながらも書いている人だって好きなんです。
自分がそうだから(笑)
それに大きなグループの人のところは、いつでも大勢の常連さんたちでスクラムが出来ていて、遊びに行っても対話が出来るわけでもなし、単なる「頭数」になるだけです。
(それでも巨大グループに属しておくと、票が流れてくるので、利があるというのも確か)
「近畿地方」効果で同じような形式のホラーがぞろぞろ続いて、ホラーとは思えぬ盛り上がりを見せているホラージャンル。
ホラーは好き嫌いがありますよね。
呪い系、因習村系、ゾンビ系と、好みも分かれていたり。
「近畿地方」はかたちばかり、ラストで種明かしがありますよね。
それが作者本人の狙いどおりならそれでいいのですが、編集担当者が設定魔か何かで、整合性ガ―!と騒ぎ立て、ゴリ押しされてあの結末になったのだったら悲惨だな、と。
カクヨムでアドバイスが禁止されているというのは、なかなか深い。
批評系の企画に、自ら「批評して下さい」と持ち込むのはいいんです。この人の批評は丁寧で素晴らしいし、厳しい意見も人に向かって威張りたいだけのトンチンカンなものではなく的を射ているので是非きいてみたいな、と作者自らが作品を提出しているんだから。
「的を射る」ですが、誤って広まった「的を得る」もすでに正解の用法となっており、リアルタイムで誤用が定着していく過渡期となっておりまして、それでも「こんにちは」「こんにちわ」の違いと同様、「こんにちわ」と書いているのを見るとモヤる、あの感じはしばらく残るかもしれません。
人を導ける。そう自負する人にはそれなりの素養があるんですか? って話でもあります。
ちなみにわたしには全くありません。
「ある」
と云っている人も、当人のひじょうに狭苦しい偏屈な偏見と、限定された知識と、好悪感情でもって作品を裁いているのではないといいですね。
そのあたりに自覚がある方は「一個人の見解」であることをくどいほどに謙虚に繰り返しておられますから、そんな方になら、安心して作品を預けてもいいんじゃないでしょうか。
「お前は黙って言いなりになって、必死で努力して指示するとおりのものを無料で書け!」
なのか、
「この人の作風、気質、目指すものに沿って、今のこの段階でいちばん力になることを的確に見抜いて云えるか」
で、天地ほど違うじゃないですか。
最悪なのが、自分の承認欲求を満たしたいだけの目的でやるアドバイス。
それがどれほど人の芽を摘むか。
どれほどの弊害を発生させるか。
会話部分で、地の文をあいだに挟むことなく
A「○○○」
B「●●●」
A「○○○」
A「○○○」
みたいな流れを、「会話は交代で書くものだ」と指摘する。
ABABの順番ではなく、一般書籍には山のように、例に出したような会話が出てきます。
集団がわちゃわちゃと会話している部分も、各人に特徴を出して誰がどの台詞を云っているのか分かるようにするというのは一つの技術ではありますが、あまりそこは重要じゃなくて、誰がどの台詞を云っているのか不明でもなんかワイワイ喋ってる感が伝わればいいくらいの場面もありますよね。
そこを「A」「B」「C」が交互に喋るべきだろうが!
ちゃんと特徴的な口癖を設定で作れ!
と堂々と指摘するような人が、net小説しか読んだことのない人には実際にいる。
一字一句。
細かな点まで。
完全理解。
なんてことは普段の読書においてもやっておらず、分からないことは分からないまま、流れで何となく読んでいっているはずなんですけど、片っ端から全てにケチをつけて説明を書かせるのを、「アドバイス」だと思い込んでいる人のアドバイスなんか、害にしかなりません。
批評についても自分からお願いして批評してもらったのなら、真摯にきいて、ありがたくお礼を云えばいいですが(やってみたら分かりますが、批評する側はものすごく大変なんだよー)、たった一冊の本を読んでいないだけでもその批評家は大恥をかいて二度と仕事が出来ないと云われているほど知識教養が問われるので、遊びのまねごと以上のことは怖ろしくて出来ません。
適当→テキトー→テケトー。
雑談の中でふらっとテケトーと書いたことがあって、その時、自分自身についてはいくらでも恥かしいミスを犯しているのに記憶から抹消し、他人に対しては一つのミスも誤字も絶対に許さず、「サンドバッグのターゲットを叩きのめせる時がきた!」とばかりに舌なめずりして躍りあがった人がいて、
「テケトーだって! テケトーだって! 適当の読み方はてきとう(テキトー)ですよねぇぇぇ?」
と猛烈な勢いで嘲り嗤われ、ありとあらゆる人に吹聴され、「小説の基礎の基礎が出来てない白黒思考のバカ女が」と罵られ、あれから何年たっても今もまだ折に触れて「この女は小説を書く資格がない」とばかりに四方八方に云い触らされているのですが。
テケトー。
これは、よしながふみの漫画の中に出てきた表現です。