お盆休み中、一年分のビールを飲んだ気がしますが、こんばんは。
▶「はなし声」
公式自主企画「怖そうで怖くない少し怖い」企画あて。
本日が〆切ですね。
応募総数もかなりいっていることですし、募集は実話と創作を混ぜないほうが良かったような気が。
▶「呼び出し音」
深川我無さんの自主企画あて。
上記企画のせいでホラージャンルが大盛況となり、秒で流れ去った日陰の作品。
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「わたしは小説家志望で小説を書いています。質問ですが馬に二人乗りはできますか?」
「出来ません。乗る場合は二人乗り用の専用の鞍が必要になります」
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小説家志望者と親切な回答者の間でそんなやりとりがあった、まさにその直後、流し見ていた洋画の中では思いっきり一頭の馬に二人が飛び乗って「逃げろ!」と走り出しており、「……」となったことを今でも鮮明に覚えているのですが、
それはそれとして、一頭の馬に二人が乗るのは創作界隈では大昔から当たり前のように多用される場面でありまして、今さら「乗れません、専用の鞍がっ」と云われたところで。
というほど広まっております。
実際のところは短い距離なら二人で乗れる。
長距離はきびしいってところなんでしょう。
こういう些細なところにおいて、小説に厚みと深みをもたらすために完全無欠な設定資料集とプロットを~という人は、どうなっちゃうのかというと、
・馬には二人乗り出来ない(※できます)
・緊急事態の場面で悠長に二人乗り用の鞍につけ替えるのはおかしい
→その前から二人用の鞍である必要がある
それにはまず二人乗り用の鞍を買う場面がいる
→購入するにはその理由が必要
ものを買うには貨幣がいる
→硬貨や紙幣を決めよう
→そのデザインになった由来を説明しよう
→その前に何か買い物をして硬貨なんまいで何が買えるか、この世界での貨幣価値を一覧表にして分かるようにしておく
こんな作り方をするのです。
すべてにおいて「深みと厚み」をずんずん作っちゃう。
物語に深みと厚みを作る為に何年もかけて完全無欠な設定資料集とプロットを~!
いやいいですよ。
それは本人の趣味の世界だから、幾らでも好きなだけ細部に凝ったらいいですよ。
箱庭づくりのように、ファンタジーの世界観をこだわって作る。本人的にもその作業をひじょうに楽しくてやっている。
いいじゃん。
全然いいです。
その楽しさは分かります。
でもそれを、「これが唯一無二の絶対的正解の小説の書き方なんだぞ?」とまで云われたら、「やかましいわ」というだけで。
そんな方法で書かれた大作も「指輪物語」のように、世の中には実際にあります。
でもあちらは、オックスフォード大学の本職の学者さんが鬼のような学識をもとにして創った格段にレべチな代物です。
既存のアニメの設定資料集を横において、孫引きトレースをしながら設定資料集を作っている方々が、「ぼくたちの代表」として名を出してくることすら不敬です。
一頭の馬に二人が飛び乗って逃げる。
たったこれだけの場面でも、設定資料集派は、鞍が~その世界の貨幣価値が~説明が~! と厚みを作り出す。ドアを開けただけでも、
「そのドアはどんな形のどんなドア? 材質は? 取り付けた業者はその世界ではどんな暮らしをしているんですかぁ~?」
とねちねちねちねち、突っ込んでくる(実話である)
設定魔が他人の作品にケチをつける時の視点がこれなんです。
※というより、そのケチつけ魔はわたしの作品にケチをつけることをライフワークにしていたので、何を書こうがケチをつける人でした。大手さんには決してそんな突っ込み入れてませんでしたから。
大手さんにも同じ調子で噛みつき続けていたら、一応はその人なりのスジを通してるんだと認めてやらないこともなかったのですが。
設定資料集至上主義派は、彼らの脳裏に絵コンテや、アニメの設定資料集があるからそうなるんでしょう。
わたしは、そういうことは実際に書きながら、物語に出てくる初対面の人と徐々にお知り合いになるような書き方をするので、何から何まで作者が創造主としてあらかじめ全部決めておくなんてことは物語への冒涜だと思うからやらないんですが、まあそういう書き方をする人が、主にアニメから入ってきた人には多いということは、「説明が~説明が~」の人のお陰で知りました。
のわりに、エタる率高いですよね。
二十年かけても完結しないような壮大な大長編の完璧なプロットを立てておいて、エタる率すっごい高いですよね、設定資料集派の方々。
(※ノープランの人もエタる時はエタります。それだけ長篇を書くのは難しい)
その代わりもしその分厚い設定をひっさげて、物語としてもひじょうに面白い大長編が書けたら、たとえ完結まで五十年くらいかかったとしてもなかなかいい線いくんじゃないでしょうか。
一体なんでこんな話をしてるのかというと、スミヲ氏のところで知ったのですが、某賞において、小さな間違いを見て「この作品は駄目だ」と云わんばかりの発言をした選者のことが頭にあったからです。
本職の公僕が当然知っているべきことを間違えているのはいけないですよ?
でも書いているのは本職ではない人です。
どれほど調べたところで、その仕事を本職として長年働いていなければ身に付かないことはたくさんあります。
でも、そのジャンルの権威みたいな人が「こんな間違いをするようでは」と云う。
新人ならば、まだそのへんにぽろっとポカあるでしょう?
見るのはそこじゃないですよ。
粗探しをするのが選者の仕事じゃないです。
専門性が重要な小説において、あっちもこっちも間違いだらけだったら、
「ちょっとは調べて書こうよ~」
と苦笑いするかもしれませんけれど。
それでも物語のほうがぶっ飛んで面白ければ、その作品は小説として推せます。
映画「アルマゲドン」について「あの作品をどう思いますか」と訊かれた本職の宇宙飛行士が、
フィクションはフィクションとして楽しんで観れます♪
と回答していた、これです。
石油採掘員が宇宙飛行士になれるわけがないと憤慨する人の裏で、泣く子も黙る本物の宇宙飛行士は「楽しい映画だな~」とにこにこして観ている。
「小説道場」みたいなものが大嫌いなんですが、「小説の書き方」を本として書き遺している作家ですら、
「こんなものを幾ら読んだって優れた小説を書けるようにはなりません」
と云ってるくらいですから、あながち間違いではないと思うのですが、結局、自分で書いて掴んでいくものなんですよね。
小説道場はめちゃくちゃ変なことを云ってるわけじゃないです。
時代の流行はありますが、ボールの握り方や、クロールの型を教えているようなものです。
声楽なら発声練習から教えてくれる。
呼吸の仕方、喉の開き方、学ぶうちに、絶対無理だと思っていた音域まで声が伸びるかもしれない。
お、役に立つじゃないか~。
いいですよね。
全然いい。
でも一度そうやって学んでしまい、あまりにも「これでないと」と思い込んでしまうと、その型にはめて小説を書き、その型にはめて他人の小説も読んでしまうのです。
講師が、
「馬には二人乗りは出来ません(※できます)」「作者視点が出てきて途中で説明を書くのは悪手」
と云ったら、
「ああ~馬に同乗してる場面があるからこの小説は駄目小説なんだ~」
「ああ~この小説には作者の言葉での説明部分があるから駄目なんだ~」
その瞬間にもう読む気が失せて投げ出す。
そんな感じになる。
物語をぜんぜん楽しめなくなる。そういう方は。
物語を読む力すら失っている。
物語とは、本来、『荒唐無稽なもの』です。
小説はフィクションなんです。
フィクションを愉しむ。
フィクションを楽しめなくなったら、一体何を書いて・何を読むんだという話で、そんな人は実録レポでも読んでろよと。
プロットを練り上げて全てに整合性がついて、登場人物の行動や発言にも一切の矛盾がなく、ミスが一つもない。
そんなのは、それ自体を魅力と強みにするタイプの小説でない限り(これはこれでいいです)、小説の巧拙には関係のないことです。