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ムスカの春

こんにちは。飛散により死にかけてますが生きてます。
五月くらいまでこの調子。
この時期なのでKACは今年も積極的にスルーです。皆さんの頑張りの裏でヨムマラソンくらいは最低レベルまで届きたいコーラ当たれコーラ。

企画が女性向けだらけなのは、魔法のiらんどとの併合が大きいのかしら。

アイドル企画に寄せて、
「わたしのキモオタくん」を1万字から、規定の六千文字に縮めてエントリしています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622170532121142

同じタイトルなので一旦非公開にした元テキスト。★34でした。
読んでいない方がいらっしゃいましたらぜひ。


1万字を六千文字にするこの作業が、まあ大変で。
大変すぎて、労力的には、新作を三作書いたくらいは疲れました。
約半分にしないといけません。
懐かしのTwitterって書いてある箇所などを最初にざざっと削っていって、「さあこれでどのくらい減ったかな?」と確認すると9200文字くらい笑

あと三千文字も消すんかーい!
無理無理無理(゚Д゚;)

何とか削って削って、流れは一切変えないまま削れるところを消して単語を変えていって、それでも残りあと800文字くらいでもうどうにもならなくなって、
変更しないと決めていた「セリフ」部分にも止む無く手を入れて、何とか六千文字に収めました。

こんなんだったら、あらすじだけ頭に入れて一から書き直して六千文字に合わせていった方がよっぽど作業は楽だったかも。
でもそれをやったら、最初に書いた時のエッセンスも消えるような気がして。
「あ、こんなの書いてたんだ」
そのくらい時間が経って過去のものになっていたら、さくさくメスを入れることも出来ましょうが、それは「今」のわたしが書いているものであって、書いていた当時にあったものはそれをすることで消えちゃうんですよね。

消えてもいいから、もっと良い作品にしたい。
そんな意識で手を入れるのであっても、それをすることによって過去に生んだ我が子を一人殺すみたいな気持ちには、なるでしょうね。


過去作というものは、読み返せば必ず「あっ」という部分が後年になると見つかるものです。
自分も成長している。自分の書きたい傾向や好む文体が変化している。
理由はいろいろありましょう。

それもあって、同じ作品に果てしなく手を入れているよりは(とくに長編)、或る程度のところで、「今できる精一杯はやった!」と思ったら一旦それは完結にした方がいいと考えてます。
キリがない上に、あまりにも同じ原稿を何百回と見てるのって頭の方が暗記しちゃって補正しちゃって、その補正で見てたりするので、変なことになりがち。
どうせ一年後に見たら絶対にまた「あっここ」が見つかるから。


もし相手が中学生さんなら、「全体を通しての推敲は十回まで。とりあえず書いたものは必ず完結させよう」とわたしなら勧めます。
高校生以上なら、「推敲は三十回、同上」です。


初稿にかなりの気合が入っていて、推敲はその細部を整えていく感じなのか、逆に初稿はあらすじ並みにざくざく最後まで書いて、推敲でじりじりレベルを上げていくのか。

推敲で、描写を増やすタイプか、減らしていくタイプか。

わたしは初稿で7割くらいまで持っていって推敲で残りを埋める感じです。
そして減らすタイプです。
行きつ戻りつ、なんだかんだで数十回は眼を通してるけど、あまりにも繰り返し見てると頭がバグるから、そのあたりで手を止めます。


完璧に書けた。
と思っていても、数年後に見たらひっくり返るものだし、そうでないといけない。
そして細部の細部なんて読者はあんまり頭に入れてません。
さらっと読んでる。

なのでこのさらっと読んでいる時に、あまりにもガツンガツンと引っかかるのはよろしくない。
※それ自体が他にはない文体の魅力である場合は別。

「ここは【桜花】がいいか、それとも【桜の花】がいいか」
悩んでも、それは作者の偏執的なこだわりの問題であって、読む側にはあんまり関係ないですよね。
桜の花が咲いてるのねってことが読者の頭に浮かべばいい。

そして作者は【桜花】か【桜の花】かで、うんうん悩んで一文字一文字書くのです。
桜花を選んだ時でも、【おうか】なのか【さくらばな】なのかを迷うのです。

単純に「桜が咲いた」と書いていある時でも、ぐっと前のめりになって刻み込むように書いている。
作品世界に言葉をしっかり定着させる。

ただあまりにも、些細な点ばかり「どの表現がいいか」と悩みすぎて何度も何度もいじって書き直すのは、これは悪手なんですよね。

小説は言葉の集合体ですから、あまりにも一ヶ所だけに拘泥していて全体が見えなくなってしまったら、そもそも何を書きたかったんだということになってしまいます。
「こだわりの単語」なんか要るか?って話で。
※それ自体が魅力になってる文体は除く。


「ここはこれがぴったりだ!」っていう自分のヘンテコな感覚も大切にしないといけない。
あまりにもそればかりでもいけない。
もうそんなんだったら、主人公は山田太郎でいいじゃん。
その方が素直ないい作品になるよ。
そのくらいの感覚も忘れてはいけない。

なのでやりすぎない、でも安易には書かないあたりで、皆さんじりじりじりじりと一文字ずつ、コツコツと莫迦みたいに地味に積み上げていってるはずです。


⇒悪手にあたるほど、いちいちに一つの単語で引っかかってる人は、一度、小学校四年生までの漢字で小説を書いてみるといいです。
小四までの漢字を使っていても、その人が作家の眼を持っている人なら、仕上がるものは明らかに違ってるよー。
それが小説家じゃないでしょうか。


今回、構成は変えないままに1万字を六千文字にしたので、今度は逆に1万字を倍の2万字に増やすとかもやってみたいです。
半分に減らすのも大変でしたけど、倍に増やす方が、さらに頬がひきつりそう。
多少の描写を増やしても、その程度では二千文字くらいしか増えないだろうし、新規エピソードを2つ3つぶちこめば何とかなるだろって問題じゃなくて、その文字数で一度は仕上げたものを、バランスを崩して蛇足に見えることを入れた上でまとめ直すのか……と。

「半分の文字数で書き直す」「三倍の分量に増やす」、練習としてはいいかもですね。
やるのは一度で十分ですけれど。
描写スキーさんは幾らでも詳細描写すればよいのですが、よくある失敗で、詳細に書いても何も伝わってないとか、第一章だけやたらボリュームがあるみたいなことを見直せる。
限られた言葉で豊かなものを書く方であっても、一つの話をその三倍の文字数にした時の、膨らませ方や強弱の付け方なんか、なにかそこで勉強できそうです。


自分の中では空前の、旧作に光をあてたいブームが来てまして、古い作品の中で文字数が何とかなりそうなら企画に出していくかもしれません。
そのまま出せるものはそのまま。
文字数を合わせなきゃいけない時には、合わせて。

構成は変えない。セリフも極力変えない。描写の部分で増減してなんとか。

それは何故かというと、カクヨムコンでは圧倒的不利になる旧作であっても、「一作一作大切に書いたのになぁ」という想いがあるからです。

あとしばらく離れていた自主企画も気をつけていきたいな。
日々、新しい企画に押し流されてしまって捜すの大変なの、何とかして欲しいよね。
作品頁からチェックボックスを選ぶのも「どこ~?」になって毎回すごく大変。

8件のコメント

  • 過去作リメイクは過去作溜めている作家の特権と良いように考えている新作書けない私です。
    さて、タイトルの「ムスカ」の意味が分からず、いや、ムスカが誰かぐらいよーく知っていますよ。ですが、分からなかったんです。分からないなりに「ムスカ」と全く関係ない本文を読み切って、分かりました。身をもって。
    飛散によって多少の影響を受けているものの、元々軽症なうえ服薬により軽減されていてそこまで悲惨ではない私でしたが、小さめの文字を読むにつれ「ムスカ」ってきました。
    そして理解したんです、タイトルの意味。
    最後に読者に気付かせるなんて、やるねぇ(絶対狙ってないはず)。
  • 小学四年生、というのがきっと万人にきちんと伝わる語彙の平均値なんでしょうね。実際、小難しい単語や言い回しを多用しても読みにくくなってるならあまり意味が無いと言うか、目的はそこじゃないという──

    四年生モードで書いて作品が弱くなるなら、きっと単語に頼っているか構成が弱いんでしょうね。

    書き終わった作品の果てない遂行の繰り返しというのは、素人物書きなら誰しも陥ってしまうのかもしれません。
    ただ、ぐっとこらえてせめて半年から一年くらい寝かしてからだと非常に楽しく推敲できたりしますものね。あの感覚は結構楽しいです。
    一人我が子を殺すくらいの、という表現は言い得て妙であると思いました。

    現在、私が嵌まっているのは……、完結確実な状態まで持っていってから公開すると決めたんだけどいつまで経っても公開できずにいる現象でしょうかw
    とりあえずここまで、3話できたからとりあえず上げよう、を繰り返してきた私は、連載が滞っている作品が3つくらいありますので💧
    そうならないためにも、確実な線までを……そう思ってたらずっと筆が進まないw 上げずに推敲を繰り返す状態もあまりいいものではありませんよね。
  • 西野ゆうさん

    西野さんもムスカりました?
    学生の頃からこの時期はムスカるというのが定着しておりますが、今の十代の子には通じないかも。
    気温が低い日は復活し、温かい日は目を冷やしながら何とか、って感じです。数日前、気温二十度をオーバーした時には覿面にやられてました。
    そちらの離島にも杉は生えているのですね。でも花粉のほとんどは海風で本土に吹き飛んでそうです(適当な想像)

    新居は決まりましたでしょうか。
    いよいよ彼女と同居ですね~。彼女さん新鮮なお刺身いっぱい食べれていいな~。わくわくしますね(´ω`*)
  • 天川さん

    推敲迷子って陥りがちですよね。いつまでも弄ろうとしたら弄れるのがまた永遠の推敲ループに入りやすい。
    おっしゃるとおり、半年~くらい間を空けると、他人の眼になっているので、推敲もさくさく進んだりします。
    だんだん慣れてくると、書くのと推敲が同時進行みたいなことになっていきますけれど。

    いくら細部にキリキリしても、読む側からしたら、些細な部分なんか実はあんまり気にしてないし、印象にも残ってないんですよね~。
    文章表現にこだわるのは完全なる書き手の趣味の世界です。

    もちろん細部の細部までこだわりにこだわりぬいた芸術品のような文体というのもあって、それはそれでいいのです。

    詳細に説明描写がないと分からないし不親切だという人は、童話や絵本はどうしてたんだよと云いたい。ハイファンタジーに属するような童話でも、描写なんてわりとあっさりしています。でも読者はものすごい世界を想像できるように書かれてあるんですよね。
    書かれていないことを脳内で想像させるのが優れた文章の一つのかたちではないでしょうか。
    もちろん詳細に書いてもいいのですが、あまりにもそれにこだわるあまりに、肝心の物語がまったく進んでないのはよろしくないですよね。

    過去作をリメイクするのは、今回のように原型をなるべく留めたいと考える時も、大きくハサミを入れたくなる時も、ちょっと寂しくなります笑
    ほとんど記憶から消えている作品であっても、ああこんなにも、こんなことを一生懸命、何十万文字も書いてたんだな~って、しみじみしたりして。

    完結が見える時というのが必ずあって、十万字なら、6万字、7万字あたりまで書き上げたらもうだいたいラストが見えてます。
    なのでお手持ちの作品も、「きっとこの作品はこうやって終わるんだな」そんなトンネルの出口が見えてきたら、Goサインかもしれません。
  • わたしのキモオタ君、前回のから四千文字削ったと知っても、どこを削ったのか全く分からなくて、内容を変えないまま四千文字減らすのをさらっとやってのけるのは凄いなーと思っていたのですが、さらっとではなく血の滲むような思いで削っていたのですね。
  • 海猫ほたるさん

    苦労したというか、原型のままま残したいと思ったところを残していくと、とてもじゃないけど六千文字にならなかったのです(笑)
    地の文を削り、削るだけでは足りず、文章を縮め、それだけでは足りず、結局、絶対に手を加えないでおこうと思っていたセリフも変えないと、さすがに四千文字減らすのは無理でしたー。

    変に原型にこだわらず、ばっさばさと変更した方がきっと簡単だったと思います。
    でもそのお蔭で元作を知っている人も展開はそのままなので違和感ないかと~。
    ありがとうございました。
  • 朝吹さま

    題名の意味を理解して笑ってしまいました。
    他の方の書き込みで気付いたのですが、飛散する花粉で目がやられる時期ですね……(笑) 晴れた日の窓辺を見るのが怖ろしいです。

    旧作の改稿は骨の折れる作業だなと思います。
    最近、旧作を見直した際も細部の修正に留めました。全面的な改稿となると構成を見直すかもしれません。執筆中も、構成ごと見直したり場面ごと捨てたり結構あります。初稿の時点でほぼ完成形なので、推敲は5、6回くらいで済ませてしまいます。よく四千字も削られたな……と努力に驚きました。

    記事にあるような、文字数の増減も練習になりそうですね。
    掌編はネタが肝ですが、短編や中編となるとどうしても展開を意識しないといけませんし……。説明描写の件、子供の頃の想像力が漸減するせいかもしれないなと思います。大人になるにつれ、読書の経験値や知識量で補填せざるを得なくなる。愛書家ならともかく、読書が苦手な方からすると経験値が必要なハードルの高い行為に感じるのかもしれません。私自身、読書が不得手なので説明がないと調べたり辞書を引くとかになっていくので……(苦笑)

    先日は拙作をご清覧くださりありがとうございました。
    長々と失礼いたしました。
  • 蘆 蕭雪さん

    こんにちは。
    慣れてくると書きながら推敲する感じになりますよね~。書きながら眼で追って脳で追って自動的に推敲してる。
    ただそれも自分では面白くないとも感じているので、あえて自分に不自由を課して、でこぼこな文章のまま愉しんでいたりします。

    自動的に推敲するのは、これは量を書いていると自然とそうなることであって、中高生さんにいきなりそれをやれというのは無理です。
    多分、蘆さんなどもご自分のスタイルが既にきちっと決まっているので、書いていて違和感があったらすぐそこを修正できるんですよね。
    十代の人のほとんどはまだそこまでいかないので、「なんかここ気持ち悪いな」「これは自分の好みではないな」というのが自分で分かるまでは、ひたすら書くしかない。

    その感覚がないまま同じ原稿に対して推敲迷宮に入る人ほど、あまり全体を見ないで、小さなところを弄り回してはそれで全体がまたおかしくなってを繰り返している気がします。この癖をつけるといつまで経っても完結しないので、それもあって、中高生さんには「文章力は後からついてくる。まずは完結まで書き上げろ」と云いたいです。

    確かに、増減は短篇か長編かでも全然話が違ってきますよね。
    一番減らすのが楽なのは長編ではないでしょうか。消そうと思えば、場合によっては寄り道にあたる一章まるごと消しても大丈夫なこともあるかもしれません。
    短編は必要なものだけで構成されているので減らすのも増やすのも難しく、増やす場合は一から構成を見直すことになりそうですね。

    今でも読み継がれている名作なんかを見ても、ことこまかな説明描写ってそこまで多くないんですよ。でも読み手側には豊かな世界が広がる。これを、想像力が無い人は全部書いてあるほうが親切だし、悩まなくて済むということになるのでしょうか。ごちゃごちゃ説明が書いてあるほうが一般的には読みにくいと思うので、ちょっとそこはよく分かりませんが。

    たとえば一角獣が出てきた時に、脳裏にぱっと「貴婦人と一角獣」の一角獣が浮かぶ人と、一角獣のイメージがまったくない人、くらいの差になってるのかな? 後者だと一角獣についての説明があるほうがストレスがないということになりそうですね。

    とはいえ、こんなことを書きつつ、わたしは描写するのが大好きなんですけれど笑
    それに隅々まで理解できる平易な文章だったらいいというわけでもありませんよね。
    こつんがつんとあちこちぶつかりながらも、何とも云えぬ魅力がある文章というのもあって、奥が深いですね。
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