「鎌倉殿の十三人」ご覧になってますか。
この御歌は上の句と下の句を逆に……と指導を受けた源実朝が、そのようにして
都にいる天才歌人に送ったところ、上下を逆にと添削されて返ってくる創作場面がありました。
最初のままで良かったんじゃん。
藤原定家のような血の気の多いエキセントリックで頭のおかしい奴とおっとりした源実朝のセンスが共通っていうのも面白いのですが、誰かの意見を求めた時に、人によっては「上下を逆に」と云うかもしれない。
上下を逆にすることで「これで良い御歌になりましたね」と多くの人に受け取られるかも知れないけれど、そうしたら今度は定家にはびしっと添削されてしまうのです。
源実朝と藤原定家のセンスは共通でしたが、意見を求めた人とは違っていたのです。
超絶技巧に凝りまくってなおかつ情感も残す天才歌人と、その天才に選ばれて今の世にも歌が残っている実朝の感性では上の句と下の句は逆が正解で、そこのセンスがずれてると、「上下を逆に」のアドバイスが良い方に転ぶのか悪い方に転ぶのか分からない。
古い作家になりますが作家Aの作品に、簡単に説明するならば、ですます調の中に一か所だけ「~だ。」と終わる、そんな感じの箇所があるのです。
それは効果を狙ってそうしているのですが、当時のある批評家が「文章の基本すら出来てない」ってつついてた。
文章の基本が出来ているのかいないのか、わざと崩しているのかそうでないのかくらいは読めば分かるだろうと思うのですが、「出来てない」って紙面に書かれちゃったんです。
そしたら作家Bが「バーカ!(※要約)」って今度はその批評家を酷評しはじめて、そのやりとりが作家Aを特集をした本に全部収められていました。
その箇所はweb小説だったら一斉に指摘されていたと想うのです。間違えたのかな~くらいに想って。
「です。」が「だ。」に一か所なってますよ、と。
みんなが「上下が逆」ってその作家に云っていたかもしれないです。
でもその作家Aと作家Bは「ここをあえてこうすることでこういう効果が出てくる」と分かっていた。
作家Aが、批評家に作品を持ち込んだら「上下が逆」って云われて、作家Bに見せたら「ここがいい」って云われるのです。
上の句と下の句を逆にしておけばすらっと通る歌になるのに、やっぱりそこを逆にしておいて印象を強くしておくのか。
ですます調で統一しておけば何も云われないのに、「だ。」をおいて目覚ましい効果を作るのか。それを理解してもらえるかどうか。
自分の書く物について何か意見が欲しいと想った時にはセンスが共通の人に見てもらっているのか、そうじゃないのかは、細部になればなるほど結構大きい気がします。
批評しあいましょう企画でも、自分が納得したら変えたらいいし、「いやでもここはこれでいいんだ」と想うのなら自信を持つことも大切ですよね。
Twitterでも「ほぼなおしの要らない状態にして原稿を出すのに、なおさなきゃいけないと想うのか校正がなおしてくる」ってぼやいているライターの方がいて、これもセンスが違っているからなのかも知れません。