四章・『壁、いらだち』
4-1
「本当にやかましいな……。別に今日で夏が終わるってわけでもないだろうに……」
一学期最後の日曜日。ガレージ内に飛び込んできたヒグラシに対して吐き捨てた信の言葉からは、あきらかな苛立ちが滲んでいた。
七月も半分以上がすぎ、地中から這い出た蝉たちの大合唱が賑やかになってきたころ。俺たちは高い壁にぶつかっていた。
チューニングプランは予定通りステップ3に移行。エンジンを2200CCまでボアアップされたものに載せ替え、タービンを大型のTO4Rというモデルに交換。トランク移設タイプの特大インタークーラーも追加し、500PSオーバー確実なフルチューン仕様を作り上げたまではよかった。
プロでも難儀する大作業だ。初心者の俺たちにしては本当によくやったと思う。
だが、たとえどれだけ数字上のパワーがあろうとも、それがレースでの速さに結びつかなければ意味はない。はったりも同然の見かけ倒しだ。
俺たちは、意気揚々と乗り込んだ二度目の仙台で心底思い知らされた。
『オールジャパン・ドラッグオープン 東北・関東甲信越予選 第二戦』
七月はじめにしては気温もそれほど高くなく、コンディションは良好だった。
NEWエンジンにNEWタービン。正真正銘のチューニングカーと胸を張れるハイパワーマシン。しかし、結果は散々だった。
ベストタイム・一一秒四〇二。
前回から縮んだのは、約〇・六秒。1/4マイル間の数秒を競い合うドラッグレースにおいてはそれなりのタイムアップではある。
だが、以前の仕様から大幅な変更点がいくつもあったことを考慮すると、納得のいくタイムではない。
まったくと云っていいほど上手く決まらないスタート。増大したパワーのわりに、思うように伸びない最高速。
原因ならはっきりしている。セッティングの煮つめが甘く、パワーの出方がピーキーでフィーリングの良くない大味なエンジン。欠点を補ってやれない未熟なドライバー。相乗効果として当然のごとく発生するエンジン出力のストールによるスタートダッシュの失敗。
つまるところ、すべては俺たちの経験不足に起因していた。
速いマシンを作るためにはトライ&エラーの繰り返ししかない。
そんなチューニングの常識を、俺はわかっているつもりで何もわかっていなかった。
計画の出だしがなまじ好調だっただけに、データと部品さえそろえばあとはなんとかなるだろうと、半端な知識の上にマヌケ面であぐらをかいていたツケが回ってきたのだ。
油断、慢心、浅慮。諸々全部をひっくるめて、ドラッグレースをどこか舐めていた俺たちへのしっぺ返しのように、甘くない現実が大きな壁となって眼前に立ちはだかっていた。
「今度のセッティングはどうだ。良くなりそうか?」
信に訊いてみても、首を横に振るばかりだ。
「わからない……、このところ狙ったイメージを外してばかりさ。正直自信なくすよ……」
「そう弱音を吐くな。パワーはたしかに出てるんだ。信は充分よくやってるさ。ダメなのはドラテクでカバー出来ない俺のほうだ」
ままならない状況と、ふがいない自分に苛立ちばかりが募る。
第二戦から帰って以来、正樹にもテストドライバーをやってもらって、連日のようにセッティングを繰り返していた。早い内に今の状況を打開しないと、このままずるずる最後までいってしまいそうな予感がしたのだ。
来年や再来年といった次があるのなら、別にそれでもいい。失敗を重ねてこそ積み上がるのが経験だ。
だがそんな正攻法は、今の俺たち――いや、俺には選べない選択肢なのだ。今さら云うまでもなく、俺には残された時間がなかった。
「決まらないセッティングに苦悩するドライバーとメカニックの図、ってね」
手の空いた正樹が、俺と信にカメラを向ける。普段通り口調も振る舞いも明るいが、空元気なのは誰の目にもあきらかだ。
「こーら、ダメだよ正樹くん。二人の邪魔をしちゃ」
「いやいや待ちなって。男が苦悩する姿ってのは、これでなかなか絵になるんだぜ」
「もうっ、二人とも真剣なんだから邪魔をしちゃダメ」
「だーかーらー、その真剣な表情が絵になるんだってば」
正樹とカナのじゃれあいは、スクープを狙う芸能カメラマンとそれを追い払おうとするアイドルのマネージャーみたいで表面上はコミカルだ。
ヒグラシの鳴き声に苛立っていた信も、いったんPCモニターとのにらめっこをやめて表情を緩ませていた。だが、ペットボトルのお茶を一口飲むと、すぐにまた難しい顔でキーボードを叩きはじめる。
「ねえ、リュウちゃん。やっぱり、車を速くするのって大変なんだね」
「……そうだな。仕方ないさ、チューニングの奥深さははじめから知ってたわけだし」
仕方ない、か。自分で云ってて情けなくなる。今の俺は仕方ないことだらけだ。
「なぁ、カナ」
「うん、どうかした?」
「……いや、今日はいつもより暑くなるみたいだから、熱中症には気をつけてな」
「うん、リュウちゃんもね。わたしは大丈夫だから、これでも夏は得意なんだよ」
云ってカナは、麦わら帽子の端をつまんで白い歯を見せる。その無邪気さが、むしろ俺の胸をざわつかせていた。
ひと月前。俺が病気のことを明かした翌日から、カナは三日続けて学校を休んだ。
そのことについて、まったく気に病まなかったといったら嘘になる。だが、そもそもの原因が俺である以上、してやれることは何もなかった。
復帰して以降のカナは、一応今まで通りに振る舞ってはいる。笑いもするし、気落ちした顔も見せない。そして、俺の病気について触れることもない。
……ばかやろう。
どう考えたって無理をしている。今のカナの姿を見て気づかないやつはバカだ。気づいていてなにもしない俺は最低最悪の大バカ野郎だ。
「あっ、そろそろお昼だよみんなっ」
ガレージ内に設置された壁時計が正午が近いことを知らせていた。
頬から垂れてきた汗が首筋を伝う。開け放ったシャッターから入り込んだ生ぬるい風が、窓際に掛けられた風鈴を揺らす。
チリンと、夏の到来を告げる鈴音が鳴り響いた。みんな、音色に気を取られたのだろう。示し合わせたかのようなタイミングで会話が途切れた。
風はすぐに過ぎ去り、風鈴の音も次第に弱まっていく。ガレージの内外から鳴り響くセミたちのけたたましいコーラスの中にあって、信のPCのキーボードから発せられるカタカタという無機質なタイピング音だけが存在感を放っていた。
それぞれ遠慮しあうように、誰も言葉を発しない。行き詰まった俺たちから滲み出た息苦しさが、熱気と混じり合ってガレージ内を満たしていた。
*****
翌日。終業式ということで学校に顔を出しはしたものの、俺の意識は昨日までに引き続き、一日中レースやチューニングに傾いたままだった。
一方、終業式を終えた教室には夏休み前特有の浮かれた雰囲気が漂っている。
午前中だけの授業。帰りのホームルームも終わり、チームのメンツで教室に残っているのは俺だけだ。もともとクラスが違う信は別として、カナも正樹もそれぞれ所属する委員会の集まりに顔を出している。
俺は椅子に寄りかかりながら軽く体を伸ばした。
「眠ぃ……」
あくびを噛み殺しながら直近の記憶を辿ってみる。昨日も深夜まで実走セッティングを繰り返していた。
しかし、未だ納得のいく結果は出ていない。
丁寧なアクセルワークを心がけつつ、テストコースを何度も往復。ステアリングを握る俺の横で、信はPCモニターと計器とを交互ににらめっこしていた。
エンジンブローを覚悟した一か八かのセッティングだけはやりたくない。
これがセッティングを担当する信の譲れないポリシーだった。勘に頼らないデータに基づいたセッティング。実にクレバーでアイツらしい考え方だと思う。
「だからこそ、経験が伴わないとどうにもならんか」
山さんにセッティングを頼むという最終手段もないわけではない。だけど、それだけはなるべく避けたいというのが俺たちの共通した意思だった。
自分たちだけの手によるチューニングカー制作とレース活動。
それが俺たちの基本方針であり、山さんもその考えを尊重しているからこそ、あくまでもアドバイザーに留まっている。最初に車輌を用意してくれたこと以外、山さんは直接的には活動に関わっていない。
「ここに来て山さんの手を借りるというのはどうもな」
俺たちにないノウハウを持ったあの人が切り札なのはわかっている。だが、こればかりは意地の問題だ。譲りたくはない。
……何か、何か打開案はないものか。
夏休みの予定。受験勉強の愚痴。誰それが誰それに告白したとかそんな色恋沙汰。
俺は青春まっさかりな話題に華を咲かせるクラスの連中から一人浮いて、眠い目をこすりながら、チューニングに関する資料がまとめられたコピー用紙の束をめくる。しかし、なんの閃きもなければ、天啓も降りきやしない。
「なあ、小林。お前は夏休みどっかいくのか?」
ふいに、暢気な声で話しかけられた。前の席に座る陸上部の佐々木が、上半身だけを俺に向けていた。
「んー、しいて言うなら仙台に出かける予定はある」
ぞんざいに返す。俺の目線は、紙に記された横文字と数値の羅列を追ったままだ。
「まさかお前、カナちゃんと一緒にいくのか?」
「ああ、そうだがどうかしたか」
「かーっ! うらやましいねえコノヤロウ」
佐々木は大げさにうらやましがるリアクションを見せ、小麦色に焼けた顔を俺の鼻先まで近づけてくる。
「バーカ、お前が考えてるようなのじゃねえ。レースだ、レース。それにカナだけじゃなく信や正樹も一緒だよ」
俺は一息ついて、資料から顔を上げた。
「なんだ、浮かない顔してぇ。レースは上手くいってないのか?」
「ああ、ちょうど壁にぶつかってる」
「でも、こないだ良い結果が出たって云ってたじゃん。正樹に雑誌を見せてもらったぜ」
「あれからクラスを上げたんだよ。ボクシングの階級みたいなもんさ。それで今は、実力が追いつかなくてまともに試合もできない状態ってわけ」
「へぇ、なるほど。そういえば俺も、市の大会から県の大会に進んだ途端メタメタにやられたからな」
佐々木は一人納得した表情でうなずく。
コイツはたしか陸上部で400メートル走の選手だったはず。
俺はなんとなく思いつきで、佐々木に意見を求めてみた。が、返ってきたのは、
「そんなん聞かれたって、答えられるやつはいねえって。この学校でお前らカーキチに車のことをアドバイス出来るやつなんているもんか」
そう笑い飛ばした佐々木は、「車のことはわかんねえが」と前置きして、少しだけ表情を引き締めた。
「小林は壁にぶつかってることに悩んでいるみたいだけど、それでいいと思うんだよ。というのもさ、壁を乗り越えることこそが一番の楽しみだと思うんだ。記録とか順位も大事だけど、自分自身が納得のいく走りができないと本当の意味で満たされることはないだろ。それに、結局は上には上がいたりするわけだし、頂点を極めたからって、そこで終わりでもないだろうし、こういうのってつまるところ自己満足じゃん。他の奴はどうなのかしらないけど、俺が陸上をやる理由はそれだね」
「そうか、自己満足か」
俺が今こうして意地になっている理由もまさにそれだ。限られた時間の中で、最大限の満足を求めようとしている。
「ありがとう。参考にはならなかったが、気持ちの足しにはなった」
「まぁ、偉そうに云ったけど、俺の最後の夏は県大会で終わっちまったんだけどな」
「佐々木は、この先も陸上を続けるのか?」
「おいおい。今の会話の流れで、わざわざそれを聞くかぁ」
佐々木は小麦色の肌と対照的な白い歯を見せ、爽やかに笑ってみせた。少しも曇りのない夏の青空みたいな表情だった。
「じゃあ俺も、せいぜい苦しむとするか」
気分が晴れるとまではいかないが、あがき抜くしかないと腹を決めたら幾分楽にはなった。俺は再度軽く伸びをして、コピー用紙の束をバッグにしまい席を立つ。
「がんばれよ。それからカナちゃんによろしくな」
俺は佐々木からの激励に手を上げて応え、ガレージに向かおうと教室をあとにした。が、
《三年A組の小林隆太くん。担任の酒井先生がお呼びです。至急職員室までいらしてください》
ちょうど玄関に差し掛かったところで、スピーカーから聞こえたノイズ混じりのアナウンスが足を止める。俺は肩をすくめ、廊下を引き返した。
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