エピローグ・『夢の果て、ゴールラインの向こう』
何かの匂いがツンと鼻腔を刺激した。
この一年で、すっかり嗅ぎ慣れてしまった匂いだった。
そう、それは――――焼けたゴムとオイルの匂い。
「やあ、生きてるかい?」
急な目覚めのようにばっと目を開く。仰向けに倒れた俺を覗き込んでいたのは、レーシングスーツ姿の岡本さんだった。
「……ここは!?」
慌てて上半身を起こすと、あちこちに鈍い傷みが走った。頭もまだぼんやりしていて、どこか夢心地だ。恐る恐る自分の体を見渡してみると、あちこち汚れてはいるが大きな怪我はなく、手も足もきちんと体に付いていた。
「目覚めてくれて良かったよ。見たところ大きな外傷はなさそうだけど、頭を打ってるだろうから、一応CTを撮ってもらったほうがいいだろう」
胸をなで下ろす岡本さんをよそに、ぼーっとしながら辺りをぐるりと見渡してみる。俺は、コンンクリートウォールで両脇を挟まれた長い直線の上にいた。わずかに間を置いて、ここがドラッグコース内であることに気づいた。
「ついさっきのことさ。キミはね、ゴールする寸前のところでマシンがコントロール不能になって飛んだんだ。リヤタイヤがいきなり外れてね。僕は後ろにいたから一部始終が見えたよ」
「後ろ?」
「そう、後ろだ。残念なことに僕のFCは300m地点をすぎた辺りでエンジンがブローしてね。悔しさに歯ぎしりしながら惰性でゴールまで向かってたら、キミの車がクラッシュするのが見えて、慌ててブレーキを踏んだというわけだ」
「クラッシュ……」
「右側のリヤタイヤが突然外れたんだよ。きっとハブボルトがパワーに負けて折れたんだろうね。そういうの何度か見たことあるよ」
ゴール地点の数十メートル先、走っていたレーンとは反対側のコンクリートウォールに突き刺さる形で、俺たちのMR2は仰向けにひっくり返っていた。屋根は潰れ、ハナ先は不自然に短くなり、どこもかしこもグシャグシャで、もはや原形を留めていなかった。
「ドアが思いのほか簡単に開いたから、慌ててキミを引きずり出したんだ。とりあえずガソリンは漏れなかったみたいだから大丈夫だとは思うけど、近づくなら火に気を付けたほうがいい」
俺はアスファルトに手をついて立ち上がると、ひしゃげた鉄の塊へと変わり果ててしまった愛機に、よろよろ近づいていった。
歩きながら、ふと暑苦しさと息苦しさを覚えた。喉元に手をやると、俺はまだヘルメットを着けたままだった。
「通りで息苦しいわけだ」
こもった声でつぶやいて、ヘルメットを脱ぎ捨てる。そのままレーシングスーツのファスナーも下ろし胸元をはだけた。
「……なんてこったい」
ゴールラインの付近にはMR2の部品が転々と散らばっていた。火が出なかったのが幸いとはいえ、クラッシュしたMR2の惨状は本当に酷かった。
ガラス類はすべて割れ、室内を覗き込むとステアリングもグニャグニャに歪んでいた。フェンダーはおかしな形に圧縮されているし、ドアはもうほとんどちぎれている。タイヤにいたっては、サスアームごとコンクリートウォールの外側まで飛んでしまっていた。
どう見たって再起不能だった。ただ、車内を囲むロールケージだけがかろうじて原型を留めている。俺はきっとこれのおかげで助かったのだろう。
「よう、相棒。酷い有様じゃないか」
俺はMR2の残骸の前にしゃがみ込んだ。不思議と、泣きたいとか悲しいとか、そういう感傷はこみ上げてこなかった。
遠くから、けたたましいサイレンの音が聞こえてくる。振り向くと、赤色灯を回した救急車と何台かのオフィシャルカーが、こちらに向かってすっ飛んでくるのが目に入った。
救急車は俺の前で停車し、中から二人組の救急隊員が慌ただしく降りてくる。だが、彼らに先んじて、俺に走り寄ってくる人影があった。
「リュウちゃんっ!」
泣きはらした顔のカナが勢いよく胸に飛び込んでくる。俺は打撲の傷みを堪えながら、しっかりと受け止めた。
「リュウちゃん、リュウちゃん、リュウちゃん!」
カナは、俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくりながら、ただひたすらに俺の名前を繰り返す。気恥ずかしくなって視線をはぐらかすと、他の仲間たちと目が合った。
「よく無事だったなぁ」
正樹もまた、泣き出しそうな弱々しい声で云うと、心底ホッとした様子で胸をなでおろした。
「だから危険だって云ったのに」
ほれ見たことかとでも云いたげな信の表情にも安堵の色が見える。
「まぁ、無事で何よりだ」
山さんも同じように安堵して口元を緩めた。
精魂込めて作り上げたMR2が残骸に成り果てたというのに、俺自身も含めて、不思議とみんなの表情は曇ってはいなかった。
「ところで、結局1/4マイルの彼方には辿り着けたのかい」
山さんが思い出したように訊ねる。俺はしばし目を閉じ気持ちを整理したあと、率直な想いを口にした。
「いいえ、何もわかりませんでした……。辿り着けたのかも知れませんし、やっぱり辿り着けなかったのかもしれません。ただ一つたしかだったのは、その場所を目指して真っ直ぐ突き進んでいるときの自分の心が、恐ろしく晴れやかで気分が良かったということです」
首を横に振った俺を、山さんは澄んだ目で見つめていた。
「晴れやかな気持ち、か。お前の満足した顔を見れば納得できる話だわな」
「ええ、1/4マイルの彼方に辿り着いたかはっきりしなかったのに、どうしてか気持ちは満たされてます。最後が最後だけに大満足とは言えませんが、自分のこだわりは通せましたね」
はっきりとしたことは何もわからなかった。MR2は残骸に成り果て、全国大会も終わろうとしている。俺を駆り立てていた魔術めいた高揚感は、波が引いたように胸のうちから姿を消してしまっていた。
ただ、間違いなく満足はしていた。
俺は唐突に悟った。すべてを投げ打ち、輝ける何かを追い求め、ひたすらゴールラインを目指すことに夢中になれた時間は、もう終わったのだと。
「でも、俺は出し切ったよな……。うん、出し切った」
自分を納得させるように独りごちる。
人生がゴールを目指して走るレースだとするならば、大事なのは距離よりもいかに力を出し切ったか。
まだレースの計画が動き出す前に、俺が至ったこの考え。
これを俺の結論にしておこうと思った。ただ言葉として留めておくのではなく、ちゃんと実践することができたのだから。
ゴールラインの向こうに待つ何かが貴重なのではなく、ゴールラインの向こうに待つ何かを目指して精一杯走り抜く過程こそが真に貴重なのかもしれない。
俺は人生を楽しみ、そして満足した――。
「さっきの問い、岡本さんはなんて答えました?」
「アイツなら、エンジンブローしたFCを指差して、苦笑いしてたよ。きっとそれが答えだろう」
そう云って山さんは、こちらに歩いてくる岡本さんに手を挙げた。
俺は、岡本さんに歩み寄っていく山さんの背中を見送ると、視線を胸元に戻し、未だ顔を埋めたままのカナに話しかけた。
「なぁ、カナ、一つ訊いていいか?」
カナは真っ赤になった目で俺を見上げる。こんなに近くで見つめ合うのははじめてだった。
「俺は精一杯やったと思うかい?」
「うん……、リュウちゃんは本当によくがんばったよ」
「そうか、ならいいや。俺は十全を生きた」
ただ問題なのは、余った人生の使い道を一切考えていなかったことだ。俺はしばし考え込み、胸に抱きしめた大切な少女に云った。
「俺の残りの人生な、カナにやるよ」
「それって、どういう意味?」
「なんでも云うことを聞くってことさ」
「それじゃあ……」
「それじゃあ?」
「今からでもいいから、ちゃんと入院しよっ。それで、少しでも長く、一日でも一分でも一秒でもいいから、わたしと、一緒に、生きて……」
言葉は切実で、涙声で、最後のほうは消え入りそうだった。
「だが、今さらそうしたところでどれだけ効果が……」
俺の後ろ向きな言葉を遮って、カナが声を張り上げた。
「約束してっ!」
哀願するように、それでいて有無を云わさぬ迫力で、真剣みを帯びた瞳が俺を見つめていた。
「……わかったよ。なんでも云うことを聞くって云っちまったもんな」
俺は割れものを扱うようにそっとカナの手を取って、指切りげんまんをしてやる。
結ばれた小指と小指。これは契約だ。俺の残ったすべてを、カナにやるための契約。たいした行為でもないのに、カナは潤んだ目だけでなく、顔まで赤くしていた。
俺は急にカナのことが愛おしくなって、抱きしめる腕に力を込めた。
「さんざん辛い思いさせてごめんな」
俺の口をついたのは、今さらすぎる謝罪の言葉だった。腕の中で、カナが必死に首を振るのがわかった。
「よーし、じゃあ俺も隆太に一つ約束だ。お前が生きてる間にもう一度ぐらいはMR2に乗せてやろう」
いつの間にか戻ってきた山さんは、自信たっぷり宣言する。何かを吹っ切ったように、はじめて会ったころと同じ前向きな表情で。
「まさか、あの車を修復するつもりなんですか? いくらなんでも、さすがに……」
「修復が無理なら二号機を作ればいいのさ。車体も燃えてないし、エンジンブロックとミッションぐらいはまだ使えるかもしれないしね」
信も山さんの計画に賛同の意思を示す。
「二号機か。いいねえ、今度こそチャック・イェーガー号だな」
正樹も、新しい計画にずいぶんと乗り気のようだった。
「やっぱりチーム名は最初に正樹が云い出したのにしておけば良かったかもね」
「俺が云ったのって、ライトスタッフか」
「主人公が最後に墜落するからって、信が却下したやつだっけか」
もし、そのチーム名だったとしたら、なんておあつらえ向きな結末だったろう。なんだかおかしくなってきて、俺もカナも、正樹も信も山さんも、みんなそろって腹の底から笑い声をあげた。
「ハハ……ハハハハッ。懲りないな。まったく、どいつもこいつも、本当に車バカだぜ」
俺たちの脇を風が通り抜けていく。風は、スタートラインの方角から吹いていた。
俺は、何か決意を固めるようにコースを目線でなぞる。
スタートする前とは逆に、ゴールラインからスタートラインへと。
「もう一度、ここに来られると良いね」
希望を込めてカナが云う。腕の中から俺を見上げ、宗教画の聖母みたいに微笑みながら。
俺は微笑みを受け止めたまま、そっと瞳を閉じてみた。そして瞼の裏に、追い求め続けたゴールラインの幻影を思い浮かべる。
真っ直ぐ延びる、黒いアスファルト舗装のドラッグレースウェイ。
自らの人生に重ね合わせ駆け抜けた1/4マイル。
もし、もう一度走れるのだとしたら、そのとき俺は何を想うのだろう。
感傷に浸りながら耳を澄ましてみると、高い青空へと抜けてゆく甲高い排気音が聞こえた気がした。
オーヴァー・ザ・1/4マイルズ 4E @ep_meister
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