6-7
タイヤを温め終え、スタート位置に着く。
岡本さんのFCが右レーン、俺のMR2が左レーンに入り、互いに横並びになる。心はどこまでも落着いていた。
見つめるのは前方一点のみ。あのゴールラインの先に、俺が追い求める答えがきっとある。
スタートの瞬間を前に、俺は形容しがたい心地よさを全身に感じていた。プレッシャーはあるがまったく不快ではない。
あえて云うなら、そう――楽しい。ひたすらに楽しい。
生きていることに感謝したくてしょうがない気分だ。これこそが俺が自分で選んだ生きる道。俺の人生が集約される瞬間。
今日まで全力で走り抜けて来た、人生の1/4マイルのゴールがすぐそこにある。
――ほら、プレステージランプが点灯した。
両者ともにスタート準備はOK。ここまできて、スタートのタイミングをずらすような小細工はなしだ。
背中から伝わってくるエンジンの振動が生物の脈動を思わせた。
俺は、愛機がまるで生きているかのような感覚に頼もしさを覚えながら、シフトノブを握る左手、ステアリングを握る右手、クラッチペダルを踏む左足、アクセルペダルを踏む右足、四肢すべてに均等に神経を集中させる。
緊張感がピークへと高まっていく中、いくつもの顔が脳裏をよぎる。
カナ、信、正樹、山さん、親父、お袋、酒井先生、クラスのみんな、そして俺たちの期待に応えて続けてくれたMR2。
シグナルランプがイエローからグリーンへ。
これで、本当に最後――――。
人生で最高の1/4マイルが幕を開けた。
これまでで最大の加速が、凄まじい圧迫感を伴って俺の体をシートに押しつける。
のけぞるなんてもんじゃない。頭どころか眼球が圧迫され、目の前の一点以外は完全に視認出来なかった。
感覚だけだ。感覚だけが知らせてくれる。岡本さんのFCは、俺のすぐ真横にいると。
シフトランプの点滅に応じ、クラッチを切らずにシフトアップする。通常のミッションとは歯の構造が違うドグミッションならではの芸当だ。
山さんが説明してくれた通り、前に進むほどにブーストの圧力が上がっていき、シフトアップのたびに加速感がグンと増す。
エンジンは絶叫するように吠えつづけ、強化された駆動系を経て極限を超えたパワーをタイヤに伝える。
しかし、エンジンとは対照的に路面と接するタイヤは一切の叫び声を上げない。トラクションをかけるために最適化された足回りが路面をしっかりと捉えているのだ。
結果、狂気すら通り越した異常な速さで、マシンは200km/hを超える高速域に飛び込んでいく。
ギヤを最後の四速に入れ、一瞬だけメーターに目をやる。
ブースト圧は約3キロ。速度は260km/hを超えていた。ゴールの瞬間には300km/hを越えるかもしれない。
あまりの非日常感に、自分が何をしているのかわからなくなりそうだった。
楽しさが恐怖に塗りつぶされていく。理屈ではない。危険を避けるための本能がこの場から逃げたがっていた。
――恐い。
ここにきてはじめてその恐怖を自覚する。アクセルペダルから足を離したくてしょうがなかった。
だけど、俺は歯を食いしばって右足に力を込めた。
恐いのは、生きている証拠だから。
実感しろ。これ以上ないほど生を実感しろ。
ステイゴールド。チーム名にしてよかった。
今この瞬間、俺の命は最高に輝いているから。
恐怖と歓喜が入り交じった、云いようのない絶頂感が足下から脳天まで突き抜ける。
幸福だった。
俺の人生は、紛れもなく幸福だった。
こんなにも満たされているのに、幸福じゃないわけがない。
俺は声にならない叫びを上げ、ひたすら突き進む。
前へ。
前へ。
前へ。
恐い、楽しい、恐い、楽しい、恐い、楽しい、恐い、楽しい、恐い。
堪えろ。堪えたその先は、1/4マイルの彼方、ゴールラインの向こう側だ。
恐ろしい速度で風景が後ろへ流れて去っていく中、感覚だけがスローモーションになってゆく。
時間を引き延ばせ。
人生最高のこの瞬間を、少しでも長く味わうために。
ゴールラインの直前で、速度計が270km/hを表示する。
満足だ。これ以上ない充足感に、俺はいま包まれている。
まるで、天にでも昇るような!
これが、俺の望んだ――……!?
ゴールラインを越える寸前、後ろから嫌な音が聞こえた。金属がねじ切れるような破壊音。
「ぐぅっ――――!!」
考えるより先に、突如として風景がおかしな方向に流れ出す。感覚でわかった。MR2の鼻先が明後日の方向を向いたのだ。
反射的に舵を逆方向に切ったにも関わらず、まったく手応えがない。立て直すのは不可能、あきらかに前輪が浮き上がっていた。
MR2の鼻先がコンクリートウォールに接触した瞬間、頭がステアリングにぶつかり、ヘルメットのバイザーが割れる。と、尻の裏に浮遊感を覚えた。激しい衝撃とともに天地が入れ替わる。
前輪だけでなく、車体まるごと宙を舞っているのだと直感的に理解した。
ダッシュボードから外れた計器類が、コードを引きちぎって車内を転がり回る。
もう一度、大きな衝撃――。
砕け散るフロントガラス。何かが焼け焦げる匂い。悲鳴のような金属の摩擦音と破断音。
一瞬、視界がブラックアウトする。再び天地が逆転する。筆舌にしがたい音と衝撃を伴い、世界がめぐるましく回る。
(ねえ、隆太。この時間が永遠に続いたら、って思ったことはないかい)
(隆太、お前に言いたいことは一つだ。俺の代わりに1/4マイルの彼方を目指してみないか)
(車で死ぬのだけはダメだぜ)
(わたしも、リュウちゃんが大好き――――っ!)
いつか聞いた言葉たちが、走馬燈のように脳裏を駆け巡る。
やがて、天地の入れ替わりが四度目を迎え――――俺の意識は途絶えた。
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