6-6
夜が明け、数メートル先が視認できないほど濃い朝靄の向こうから朝日が昇ってくる。
午前八時をすぎて、ようやく靄が晴れ出し、大会の開催を告げるアナウンスが会場に響き渡った。
『オールジャパンドラッグオープン 全国大会二日目・決勝トーナメント』
半年前から待ち望んでいた日の空は、怖いぐらい真っ青に透き通っていた。
「行くか――」
俺は仲間たちと視線を交わし、すっかり体に馴染んだ運転席のバケットシートに収まった。
決勝トーナメントは予選上位の一六台によって行われる。どういう巡り合わせか、俺と岡本さんはそれぞれトーナメント表の一番端に名前が記されていた。
決勝まで進めなければ、俺たちが直接対決する機会はやってこない。
だが、不安はない。俺は当然のように決勝まで進むつもりでいたし、きっと岡本さんだってそこまで上がってくるだろう。
それに、今日が最後になるのなら、一本でも多くドラッグレースを堪能したかった。
「だから、悪いが負けてなんかやれないね」
一回戦、ドラッグコース左レーンのスタート位置に着き、横目で対戦相手を睨む。隣レーンでスタンバイしているは、夏に俺がマシントラブルで敗れた水色のアリストだった。
借りを返す意味でもここでは負けられない。
俺はスタートの瞬間に備え、シグナルランプに神経を集中させた。
******
一回戦――以前敗れた水色のアリストへのリベンジに成功。200mの時点で相手を振り切り、九秒八二二の好タイムで、俺はゴールラインを走り抜けた。
二回戦――相手は俺と同じMR2だった。陽気なほどに明るい黄色一色に彩られたマシンは、仕様的にも俺たちのMR2と近かった。
しかし、勝ったのは俺だった。スタートこそ先行され焦りを覚えたが、それは相手のフライングによるもので、ゴールするまでもなく勝負は早々に決してしまったのである。
そして、準決勝となる三回戦へと駒を進めた俺を待ち受けていたのは、過去に国内記録を保有していたこともあるオレンジ色のZ32型フェアレディZとの対戦だった。
3200CCに排気量アップされたVG30エンジンから950PSを叩き出す国内有数のドラッグモンスターとの対戦に、俺や他のみんなも緊張の色を隠せなかったが、信と山さんが今日の路面状況に合わせて行ったセッティング変更が功を奏し、ハナ先の差で辛くも勝利することができた。
この三回戦の時点で、MR2のベストタイムは国内記録をも上回る九秒五二一に到達。ゴール時の最高速は250km/hを突破していた。
******
「もう少し、もう少しだ……」
トーナメント決勝前の休憩時間を迎え、俺はヘルメットを脱ぎすて、デッキチェアにもたれかかった。コース内では、予選落ちした車を対象にしたフリー走行が行われていて、秋空へと響き渡る賑やかな音が、途切れることなく耳元まで流れてくる。
俺はレーシングスーツの首元を緩めて、冷えたスポーツドリンクを勢いよく喉に流し込んだ。その目の前を、駆動系のトラブルを起こしたらしい白いR32スカイラインが、ガチャガチャと異音を伴いながら、亀のようなスピードでノロノロ通りすぎていく。
エンジンの音や車体の揺れ方から察するに、相当なハイチューンが施された車だろう。いったいどれほどの資金や手間がかかっていることやら。
どんなに作り込まれたチューニングカーだろうと、たった一つトラブルですべてをふいにしてしまうことがある。
ましてやドラッグレースの走行時間は一本当りたかだか一〇数秒かそこら、おまけにタイムは短いほうがより優れているのだから、見方によっては恐ろしくコストパフォーマンスの悪い遊びだ。
「……理解されねえよな」
遊びでは済まされない額の大金や寝る間も惜しんでの手間を、たった1/4マイルを数本走るためだけの車に惜しまずつぎ込む。
もしかしたらこの会場には、俺と同じぐらいの覚悟でこのレースの臨んでいる人間だっているかもしれない。
だとしたら、俺がそう感じているように、彼らにとっても1/4マイルは人生の縮図みたいなものなのだろうか。
「信、山さん。ちょっといいかな」
間もなく迎える終局に向け、俺はメカニック担当の二人に一つ提案をした。
「絶対にダメだ! これ以上は止めたほうがいい」
俺からの提案を、信が必死の形相で却下した。なんのことはない、もっとMR2のパワーを上げてほしいと云っただけだ。
「トラクションのかかりが抜群に良いだけに、車体の前部が浮いてるんだ。これは比喩じゃない! 本当に前輪が地面から浮き上がってるんだよ。もし、スピードの乗り切った高速域でフロントが完全に浮きでもしたら、コントロール不能になって車体が飛ぶ可能性だってある」
「だが、このままだと岡本さんには勝てないぜ。あっちはベストタイムが九秒一だ。多少タイムが前後しても、コンスタントに九秒三は出してくるだろう」
ドラッグレースでコンマ四秒のタイム差は決して小さくはない。まして、こっちはコンピューター制御が完璧だっただけに、現時点での限界がはっきりしている。
「リュウ、ここまできたんだ。勝ち負けなんかどうだっていいから止めとけって。今だって充分フラフラしてて、外から見ててもかなりヤバイ感じの走りをしてるんだぜ」
正樹も信と同じように、必死に俺を止めようとする。機械的なことに口を挟めないカナは、俺たちのやり取りをハラハラしながら見守っていた。となると、最後の頼みの綱は山さんだけだった。
「山さん、お願いできませんか。1/4マイルの彼方、辿り着かせてくださいよ」
俺は目に精一杯の力を込めて頼み込んだ。返事はすぐには返ってこない。山さんは腕組みをして、自分自身と葛藤するような難しい顔で考え込み、
「……隆太、覚悟はいいんだな?」
「ええ、覚悟なら出来ています」
俺の提案は山さんの一存で承認された。
「今からCPUのセッティングに手を加える。信、手を貸してくれ」
山さんの指示に信が渋々といった様子で応じる。正樹は未だ「止めておいたほうがいい」と眼差しで訴えていた。
信や正樹がこうも反対する理由はMR2の駆動方式にある。ミッドシップ駆動の車は、構成部品のなかでも特に重いエンジンとミッションを座席よりも後ろ側に搭載することで発進時のトラクション性能に優れる反面、何も積んでいないフロント側の荷重がどうしても不足しがちで、いざスピードが乗りはじめてからの安定性を著しく欠くのだ。
「うん、大丈夫だ。やれる、やれるさ。真っ直ぐ走らせてみせるから」
誰にともなく、自らに云い聞かせる。俺は椅子にもたれかかったまま、瞼を閉じていた。立て続けに強烈な加速Gに晒されたためか、さっきから軽い目眩とふらつきがあった。ここにきて、病気の発作が起こったのではないと信じたい。
あと一つだ。次の走行で、俺はきっと求めていた場所に辿り着けるのだ。だから、もう一度1/4マイルを走り終えるまで体が保ってさえすれば、あとは何も望まない。
それに、体はたしかに疲れているが、精神面も含めたトータル的なコンディションは悪くない。むしろかなり良かった。
緊張もプレッシャーも、すべてが良い具合にエネルギーへと変換されている。昨晩、みんなと言葉を交わせたのが良かった。胸の内側に憂いがなにもない。
「…………ん?」
瞼を閉じたままスタートのタイミングをシミュレーションしていて、顔に何か柔らかい感触があった。目を開けると、カナがスポーツタオルで俺の汗を拭いてくれている。
「すまないな」
「ううん。えっと、リュウちゃん……次が最後だから、がんばって」
「そう、最後だな。はじめたころはまだ田んぼに雪が被さっていたのに、今は紅葉の季節だ……」
有意義なことに時間を使うことができて、本当に良かった。次の一走に、俺という人間のすべてをつぎ込んでやる。
俺は拳を強く握り、決意を固める。どうやら、山さんたちの作業も完了したらしい。
「セッティングの変更は完了だ。スタート時のパワー自体は変わっていないから、出だしは今までと同じ感覚で乗れる。だが、その後は速度に応じて徐々に最大ブーストを上げていく。最低でも900PSは出る。ゴール直前では瞬間的に1000PSに達するかもしれねえ」
山さんの口をついて出た四桁の数字に、思わず息を飲む。たかだか2200CCしかない直列四気筒エンジンの限界を超えた馬鹿げたパワーだ。素晴らしかった。最高としか云いようがない。
「ありがとうございます。あなたに会えて――車を好きになれて本当に良かった」
「へっ、なーに気取ってやがるんだか。まぁ、ブロー覚悟で思いっきり踏んでこい」
「はい、いってきます。1/4マイルの彼方へ。タイヤがなくなってでも辿り着いてみせますよ」
背中を押してくれた山さんへの感謝を込めて、俺は静かに頭を下げる。ちょうど示し合わせたように、フリー走行終了のアナウンスが会場に響いた。
俺は再びヘルメットを被り、MR2の運転席に乗り込む。
「隆太! 山崎さんはああ云ったけど、良いエンジンだからブローしそうになったらアクセルを緩めてくれよ。壊すのはもったいないからさ!」
説得するのは諦めたのだろう。信は、本気とも冗談とも取れる言葉を叫んで、俺に向かって親指を立てた。
これまで何度もそうしてきたように各種計器類を一通りチェック。直後、決勝トーナメントの開始を告げるアナウンスが聞こえた。
「俺も云っとくけどさ、ホント無茶するんじゃねえぞ」
「ああ、無茶してくる」
正樹とふざけたやり取りを交わしつつ、レーシングスーツの首もとを締め、ステアリングの感触をたしかめる。
俺を呼びに来たオフィシャルスタッフの指示に従い、コースの方向へとウインカーを点灯する。
さあ、行くか――。
充実した最高の日々をすごすことができた。
最高の仲間たちと最高のマシンを作って。レースに出て、走って、表彰台にまで立って。
叶えたいことは、すべて叶えてしまった。
言葉で自分を語り、行動で示し、余さず自分の内側をさらけ出して。
吐き出すものは、すべて吐き出してしまった。
だから、これからあと一本だけ1/4マイルを走ること以外には、もう思い残すことは何も……ああ、そうだ、そういえば一つだけあった。
俺はウインカーを点滅させたままMR2をいったん止めると、体を固定していた四点式ハーネスを急いで外し、狭い窓から軽く身を乗り出して、カナに向かって手招きをした。
「リュウちゃん、どうかしたの?」
そばまで寄ってきたカナは、膝を曲げて、運転席の俺と目線の高さを合わせる。そして俺は、なんだろうと不思議そうに首を傾けるカナの耳元に、フェイスのヘルメットを被ったまま顔を近づけ、
「――……」
ごくごくありふれた、なんの飾り気もないシンプルな一言を告げた。
いつか云おうと思っていた。もう云うべき権利は失ってしまったと思っていた。だけど、やっぱり云わずにはいられなかった。
そんな、俺の胸の奥でずっと宙ぶらりんになっていた甘酸っぱい想い。
「じゃあな、ちょっくら行ってくる」
呆気にとられたように口を半分開けたまま固まってしまったカナに一声かけて、俺は四点式のハーネスを装着しなおすと、ギヤを一速に入れて最後の舞台へと向かう。
これでもう思い残すことは本当になくなった。これで真っ白になれる。
俺は安堵を覚えながら、駐車場からドラッグコース内へとマシンをゆっくり動かす。
そのときだった――、
「わたしも、リュウちゃんが、大好き――――っ!」
たしかに聞こえた。
締め切ったアクリル製の窓ガラスも、被ったヘルメットも突き抜けて、唸るようなエンジン音にも掻き消されずに。
カナの精一杯の叫び声が。
これには俺もさすがに驚いて、思わずリヤガラス越しに後ろを振り向いた。すると、会場の注目を一身に浴びて、カナが茹であがったタコみたいに顔を真っ赤にさせていた。
俺は笑った。おかしくてしょうがなくて、堪えきれないとばかりに、腹の底から笑った。これまでの人生で一番愉快に笑えた気がする。
「こいつは、肩の力が抜けて良い走りができそうだ」
俺は上機嫌な笑みを携えたまま決戦場へと足を踏み入れる。
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