6-5
大空のキャンバスが青から赤へと塗り替えられていく。
日没が近づき、予選を走り終えたチューニングカーの群れが、ドラッグコースから入場ゲート前の駐車場まで列をなして引き返してくる。
「リュウちゃん大丈夫?」
「ああ、少し疲れただけだ」
俺は少しよろけながら、カナから手渡されたスポーツタオルで額の汗を拭う。思っていたよりも遥かに体力を消耗していた。
はじめて解き放つ800PSオーバーのフルパワーとトラクションのかかりが抜群に良いドラッグコースの路面との組み合わせは、想像を絶するほど苛烈だった。
だが、消耗したかいがあって、予選を終えた時点で俺たちのMR2は三位に食い込んでいる。ゆくゆく三位に縁があるなとは思うが、これまでとは違い全国大会での三位だ。誇ってもいい成績だろう。
現時点で俺たちより上の順位にいるのは、二位が全国でも有名なシルバーの日産・シルエイティ。S15シルビアの顔を移植した外見が印象的なこのマシンは、何度もドラッグレースの大会を制している全国有数の強豪だ。
そして、一位が岡本さんのFC3S型RX―7。はじめて生で目にしたパープルメタリックのドラッグモンスターは、速さ以上に徹底した無駄のなさが際立っていた。
「今のところ、あのFCとの差はコンマ五秒ってとこだね」
俺の頭の中を察したのか、信がおもむろにタイムの話を切り出す。
「二駆でコンスタントに九秒台前半のタイムだぜ。ベストは九秒三。四駆のGTRと差がないじゃないか。あのFCはバカげてるぜ」
「僕らだって負けちゃいないさ。一本目の一〇秒フラットから順調にタイムを縮めて、最後には九秒八が出た。これはMR2の国内記録級のタイムだよ」
「それもそうか……、良くやったと云えば良くやったよな。どのみち明日もある。セッティングを詰める余地もまだありそうだし、さらなるポテンシャルの向上に期待してるぜ」
俺は期待を込めて信の胸板に拳を当てる。信は少し照れながらも、「任せてくれ」と自信たっぷりに云いきった。
それから、俺たちは宿泊用のテントの設営に取りかかった。出場者には近場の宿泊施設を借りる者もいるが、俺たちのようにアウトドアスタイルの人間が大半だ。
ミニバンを寝室に使うことも出来るが、そちらはカナ専用となっていた。
クーラーボックスやら寝袋やら、積んできたアウトドア用品を車から下ろし、一通りの設営を完了したころには、陽はすっかり傾いて黄昏時になっていた。
「おい、みんな見てみろよ」
ヒュウという響きの良い口笛の音に続けて、正樹がはしゃいだ声をあげた。俺は何事だろうと思いながら、正樹が一生懸命指差す西の方角に目をやって、
「ほう、コイツは凄いな……」
思わず感想が口からこぼれていた。
目に飛び込んできたのは夕陽だった。真っ赤に焼けた空と、陽に照らされた秋の山々。落陽と紅葉が織りなす大自然の芸術。周りを山々に囲まれ、なおかつ見晴らしの良いこの場所ならではの光景だ。
俺たちだけでなく、この場に居合わせた誰もが息を飲むのがわかった。世界を染め上げる夕陽は荘厳で美しく、会場全体を鮮やかに照らしていた。
「こうして見ると、ほんとカッケーよな。このMR2は」
朱い夕陽に照らされた朱いMR2を、正樹が褒め称える。
「それには、僕も全面的に同意だね」
信も上機嫌そうにうなずいた。
「チューニングカーってやつは、機能美に彩られた芸術品だからな」
山さんは得意げに口元を緩めた。
「みんなのがんばりの結晶だもんね」
カナが、俺たち全員を見渡してにっこり微笑む。
「みんな、本当にありがとう」
俺は万感の思いを込め、仲間たちに感謝の言葉を送った。
******
その夜、明日に備えようと早々に床に入ったにも関わらず、俺はなかなか寝つくことが出来ずにいた。
体は疲れを訴えているのだが、覚めやらないレースの興奮が安らかな睡眠と休息の邪魔をしていて、目も頭もやけにさえてしょうがなかったのだ。
「もう一二時か……」
閉じていた瞼を再び開いて、手元の携帯電話で時刻をたしかめる。
テント内の灯りはすべて消しているが、駐車場を照らす外灯や月明かりのせいで完全な暗闇にはなっていない。黄色いテント地越しに差し込む光が、天幕内をうっすら明るくしていた。
日付が変わる時間帯にも関わらず、テントの外からは、未だ続く宴の喧噪が漏れ聞こえてくる。
このままぼんやりと天井を見つめていたって眠れそうにはなかった。
やや逡巡した末、俺は思い切って寝袋から出ると、ブルゾンを羽織って気晴らしに散歩に出かけることにした。
テントから出てすぐ、隣に置いたキャンプテーブルでは、信がLEDランタンの灯りを頼りに、テーブルの上に広げたノートとにらめっこをしていた。
そっと近づき、後ろからノートの中身を覗き込んでみる。そこには、線のしっかりした丁寧な字で、数字やグラフがびっしりと書き込まれていた。
「こんな時間まで勉強熱心だな」
信は、後ろから話しかけられても特に驚くこともなく、眼鏡を外してゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「勉強熱心というか、勉強することばかりとでもいうか。まぁ、好きでやってるんだからいいんだけどね」
信は椅子に座ったまま首と肩を捻る。
「前にも云ったが、ありがとうよ。おまえがいなくちゃこの計画は成り立たなかった」
「いいや、僕のほうこそ。まさか、このレベルのチューニングに関われるとは夢にも思っていなかったよ。実に有意義な経験ができてありがたい限りさ。あれ、これも前に云ったっけ?」
「云った云った。でも、何度話しても、俺はおまえに感謝の言葉を口にするだろうさ」
「そうやって僕ばかり持ち上げると、正樹がすねるよ」
子供みたく、ほっぺたをふくらませてすねるツンツン頭が思い浮かんで、俺は思わず吹き出した。信も同じみたいで、クックとおかしそうに体を上下に震わせていた。
そうしてひとしきり笑い合ったあと、俺たちはどちらからともなく手を差し出し、硬く握り合った。
「そういえば、僕にも夢というか目標が出来たよ」
「へえ、いったいどんな?」
「それはね、隆太があのMR2で出したベストタイムを、自分のマシンで抜き去ることさ」
俺は信と別れて、日付が変わっても賑やかさを失わない駐車場を、ぶらぶらとうろついてみる。
十月も後半なだけあって、上着を羽織っていても夜風は肌にひんやりと冷たかった。吐く息もほんのりと白く、このぶんだと朝方にはまた霧がかかるだろう。俺は体を軽く揺すり、ブルゾンのファスナーを首元まで上げた。
そうこうしながら歩いていると、駐車場の左端にある自販機の前で正樹と山さんが話し込んでいるのが見えた。
「よう、リュウも眠れないのかー」
正樹が、俺の姿に気づいて声をあげる。俺は小走りで二人の元に駆け寄った。
「まあな、緊張して眠れないというよりは、興奮が冷めやらないって感じだが」
「へへっ、その気持ちよくわかるぜ。なんたって俺たちは今、優勝を狙える位置にいるんだもんな」
半年前からすれば、夢のような話だった。順位としてはせいぜい一〇位以内に入賞できれば大したもので、結果はともかく全力を出し切れればそれで良しというのが当初の俺の気持ちだった。
「こればかりは山さんのおかげですね。あえて聞きませんでしたけど、あのMR2にいったいいくらつぎ込んだんですか」
山さんがあとから手を加えた部分のチューニング費用は、俺たちの資金からではなく、山さん自身の財布から出ていた。
「そういうのは云わないでおく。どうせ俺は独身貴族だ。贅沢しなきゃ金は貯まるもんさ」
山さんはあっさりしているが、もともとあったパーツを多く使用したとしても数百万は余裕で使ったはずだ。MR2のあの仕上がりを見れば容易に想像がつく。
「繰り返し云っとくが、気にすんじゃねえぞ。おまえだって逆の立場だったら、きっとこれぐらいのことはしたはずだぜ」
さも当然のように云われてしまった。たしかに、俺が山さんの立場ならそうする気がしないでもないが、現実として立場が逆にはならない以上、想像の域を出なかった。
「それよりもさ、リュウ……」
正樹が急に真面目な顔をして話題を変える。
「本当に無理だけはすんなよ。楽しくてたまらないからこそ、車で死ぬのだけはダメだぜ」
本気で心配してくれているのが声の調子でわかった。だから、俺も偽りのない本心をはっきり言葉にしてやった。
「ああ、肝に免じておこう。だがな、もしそうなったとしても、俺は後悔はしないぜ」
気晴らしの散歩に区切りをつけ、自分のテントと戻ってくる。信はどうやら寝ついたみたいで、キャンプテーブルに置かれたLEDランタンの灯りは消えていた。
時刻はすでに午前一時をすぎている。俺もそろそろ床に戻ろうと入り口のファスナーに手を伸ばした。
と、そこでコンコンという窓ガラスを叩くような音がした。
「……なんだ?」
振り向いて周囲に目を凝らしていたら、ミニバンの窓が半分だけ開いて、隙間からジャージ姿のカナが顔をのぞかせた。
「なーんだカナだったのか。夜更かしもいいが、そろそろ寝とかないと明日辛いぞ」
「えへへ、なんだか目が冴えちゃって。リュウちゃんも同じなんでしょ」
カナは毛布をポンチョみたく肩に羽織って、ミニバンから降りてくる。そして、足かけ用のステップにちょこんと腰かけると、微笑みかけながら隣に空いたスペースをポンポンと叩いてみせた。俺は、やれやれと首をすくめながら、カナの隣に腰を下ろした。
「えっと……夜はやっぱりしんと冷えるね」
足かけの用のステップは狭く、俺たちは自然と肩を寄せ合うように座っていた。カナは何か云いたいことがあるように見えるが、遠慮しているのか、口にする言葉はどれも躊躇いがちだ。
「いいぜ、この機会だ。云いたいことはなんでも云えばいいさ」
俺はそう告げて、カナが本音で話をしてくれるよう促してやる。するとカナは、子供がよくやるオバケの真似みたいに毛布を頭に被ると、どこか寂しげに視線を落とした。
「あのね、リュウちゃんはさ、本当に後悔してない?」
「ここまで来て後悔なんかしちゃいないよ」
即答してやる。どうあっても変わりようのない答えだった。
「俺が俺でいる限りは、自分勝手で車バカな小林隆太でいる限りは、これしか有り得なかったんだ」
続けながら、俺は満天の星空を仰ぎ見た。一等星が、秋の夜空に一際輝いていた。
「悲しくなんかないさ。俺が死んだあとだって変わらず時間は流れるし、世の中は変化していく。それに、誰にだっていつか終わりが来るんだ。俺だけが特別じゃない」
暗色の空に光り輝く、無数の星々。俺は何万年も前の光に向かって手を伸ばす。
「どうせ、千年も経てば俺たちのことなんか誰も覚えていやしないさ。そういうスケールの大きな考え方をすれば、明日死のうが百年後に死のうが同じだ」
俺は伸ばした手を引っ込めて隣の様子をうかがう。カナはうつむき、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「悪い、ちょっと思慮が浅かったな」
「ううん、取り繕った言葉よりも、本当のことを云ってくれたほうがずっといい」
詫びる俺に、カナは小さく首を横に振る。
「だから、ね。わたしも本当のこと云っていい?」
「ああ、いいよ」
カナの潤んだ瞳が、真っ直ぐ俺を見つめる。そうして、しばらく俺と見つめ合ったあと、倒れ込むようにして俺の胸に顔を埋め、
「わたしはね、リュウちゃんに少しでも長く生きてほしかった……」
消え入りそうな涙声で云った。
俺は何も云わず、そっとカナの頭を胸に抱いた。深い意味はない。ただの慰めだ。俺がしてやれるのは、これぐらいだから。
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