五章・『最後の一人』
5-1
瞳を閉じて、大きく息を吸う。意識を視覚から脳内のイメージへと集中させる。
俺が今いるのは……そうだ、MR2のドライバーズシートだ。
場所は仙台ハイランドのドラッグコース。バーンナウトを終え、ちょうどスタート位置に着いたところだ。
左手はシフトノブに置き、右手でステアリングを握る。右足でアクセルを煽り、左足はクラッチを離すタイミングに備える。
さぁ、スタートの用意は出来た。あとは、隣レーンの相手がスタート位置に着くのを……。
と、病室のドアをノックする音が、想像の世界に浸っていた俺の意識に現実の吐息を吹きかけた。瞼を開けば、そこは山奥のテストコースでも仙台ハイランドのドラッグコースでもなく、真っ白な内装が目に眩しい総合病院の個室だった。
「どうぞ、起きてますよ」
俺はイメージトレーニングを切り上げ、ノックに応える。
「よう、暇そうだな」
姿を現したのは、私服姿の山さんだった。山さんはベッドの脇に置いてあるパイプ椅子にどっかり腰を下ろして、俺と目線の高さを合わせた。
「実際暇ですよ。他のみんなは午前中で帰っちまいましたし。山さんは仕事休みですか?」
「ああ、独り身の休日ってのは、どうにも暇でね」
時刻はまだ午後三時をすぎたばかりだった。明日で退院とはいえ、まだ十数時間は退屈に耐えなければならない。
「それで、調子のほうはどうなんだ?」
「悪くありません。体力なら有り余ってる感じです」
体の調子自体は本当に良い。時々思い出したように軽い手足のしびれや目眩を感じることはあるが、とても死病を患っているとは思えない。
「ですが、こう元気だと腫瘍のほうも育ちが良いみたいでして」
俺は、わざと軽い調子で自分の頭をポンと叩いてみせる。
「予定通りに進行しているそうです」
「そうか……。云っちゃあなんだが、とてもそうは見えないな」
「症状自体はまだそんなでもないらしいんですがね。難しい病気過ぎて治療できないというのが一番のネックだそうで」
一〇万人に二人いるかどうかの難病を、我ながらよくもまあ発症したものだ。
だけど、この病気に一つだけ感謝していることがある。それは、自分の人生の意味について本気で向き合うきっかけを作ってくれたことだ。
「今の俺が真に向き合うべきは、手に負えない病気よりも1/4マイルをいかに速く駆け抜けるかですよ。ベッドの上で明日に脅えているよりも、そっちのほうが遥かに有意義だし大事です」
心持ち表情を硬くしていた山さんに、俺はニッコリ笑いかけてやる。
「そうだ。山さんに訊きたいことがあったんですが、いいですか?」
「今さら俺に訊きたいこと? いったいなんだ」
「1/4マイルの彼方って言葉、知ってますよね」
あのナイタードラッグのときから、ずっと気になっていたことを改まって訊いてみる。
「そりゃあ覚えてるさ。昔、俺が口にした言葉だもの」
「率直に訊きます。いったい、どういう意味なんです?」
俺が踏み込むと、山さんの表情がかすかに揺らいだ。
「俺たちがドラッガーが本当に目指している場所。自分の持てるすべてをつぎ込んで、そしてようやく辿り着く到達点……」
話しながら、どこか遠くを眺めるように、山さんは窓の外へ視線をそらす。心なしか、声がトーンダウンしていた。
「いったい自分たちはなんのために走るのか? 目の前の相手に勝ちたいから。記録に残るような良いタイムを出したいから。だけど、それだけじゃあない。それだけじゃあ続けられない。仕事でやっているわけではないし、名誉とも無縁だ。だから、常に答えを求めている。自分を納得させられるだけの答えを」
「その答えが1/4マイルの彼方にあると?」
「そうだよ。いつかの俺はその言葉を信じてた。そしてアイツはきっと今でも追い求めている」
「アイツ……、岡本さんですね。あの人は、いったいどういう人なんですか?」
「お前らが参戦している大会の前回優勝者……国内ドラッグレース界で知らぬ者はいない有名プライベーター……俺が昔修行してたレース屋の後輩……そして、かつての好敵手。ざっと、こんなところか」
前回優勝者と聞いてピンとくるものがあった。ドライバーの顔までは知らなかったが、マシンは雑誌で何度も見たことがある。紫色の鈍い金属光沢の輝きを全身に纏ったFC3S型RX―7。写真越しでもビリビリ凄さが伝わってくる国内有数のドラッグマシンだ。
「やけに詳しいと思ったら、あのFCのドライバーだったとは」
「あのマシンは速いぜえ。エンジンは13B・2ローターのままだがブリッジポート仕様だからな。よく一人であそこまで仕上げたもんだ」
おそらくは、何度も何度も嫌になるほどトライ&エラーを繰り返したに違いない。俺たちよりも遙かに長い時間をかけて熟成を重ねた至高の一台。そこに賭ける想いはとびきり真剣なはずだ。
「だけどよ、アイツには悪いことをしちまったな」
山さんは天井を見上げてため息をこぼした。自分がドラッグレースを止めてしまったことを云っているのだろう。
思えば、ずっと前から気になっていた。俺と出会ったころ、あれほどまでドラッグレースに入れ込んでいた山さんが、どうしてMR2を降りてしまったのか。
「山さんが、俺たちにMR2をくれるって云ったとき、半端じゃなく嬉しかったです。だって、あのマシンは俺にとっての憧れでしたから。だけど、同時に悲しくもありました。ああ、山さんは本当にもう走るのを止めてしまったんだな、って」
「今は仕事が忙しいから休止しているだけで、時間に余裕が出来たらまた走りはじめるからって、散々云ってたもんな」
「この機会だから改めて訊きます。どうしてですか?」
俺に真顔で問いかけると、山さんは目を閉じて黙り込んだ。考えを整理しているのか、あるいは答えを探しているのか、長い沈黙だった。
「……特別な理由なんてねえさ。岡本と走った最後のレースのあと、親父が肝臓を悪くして家の仕事が色々と忙しくなりはじめて、あれよあれよという間に時間だけが流れていって。そして気がついたときには、車が好きで好きでたまらなかったころの自分を、1/4マイルの彼方を目指してたころのひたむきな純粋さを思い出せなくなっちまってた」
「やり残したことや後悔はないんですか?」
「そりゃあ、もちろんある。だが、そいつを取り返しに行くだけの情熱がもう湧き上がってこねえんだ。うまく云えねえが、なんていうか、俺はきっとタイミングを逃したんだ。つまりは不完全燃焼のまま火が消えちまったのさ」
すぎ去ってしまった時間。移り変わる気持ち。やはり永遠なんてものは存在しない。
「まさか、この歳になった自分が、こんなにつまらない男になってるとは思ってもみなかったよ」
「そんな、つまらないだなんて……」
「本当につまらない男さ。岡本ががっかりするのも無理はない」
言葉には乾いたため息が混じっていた。だけど、どことなくわざとらしさを感じて、俺は真意を探ろうと、じっと目をこらしてみる。そして、先ほどからずっと気になっていたことを思い切ってたずねた。
「あの、本気でそう思ってるんですか? 自分がつまらないって、もう情熱は枯れてしまったって」
「ああ、思ってるとも。今の俺じゃあ、もう1/4マイルの彼方は目指せない」
わからないな、とでも云うように俺は眉根を寄せて頭をかいた。
「どうしてでしょうね。口から出てくるのは諦めの言葉ばかりなのに、今日の山さんを話していると、昔を思い出さずにはいられません。本当につまらない人間は、そんな自信に満ちた目をしませんよ」
俺からの指摘に、山さんは憂い気な表情を一変させて、ニヤリと口の端をつり上げる。
「さすが、勘がいいな。なに、俺が夢を追えなくなったつまらない男なのはたしかさ。だがな、ようやく気づいたんだ。つまらない男でも、誰かに夢を託すことは出来るってな」
山さんがおもむろにパイプ椅子から立ち上がる。自嘲の色などまったくなく自信に満ちた目が、真っ直ぐ俺を見据えていた。
「隆太、俺はおまえにたどり着けなかった夢を託したい。俺の代わりに1/4マイルの彼方を目指してみないか。あのMR2を、俺が最高のドラッグマシンに仕上げてやる」
中庭の木々がざわめき、窓の隙間から入りこんだ晩夏の涼風が俺たちの間を通り抜ける。先ほどまでとは打って変わって、山さんは晴れやかな顔をしていた。
「俺は、おまえたちに手を貸したいんじゃない。どうか、仲間に入れて欲しいんだ」
云って、山さんは俺に頭を下げる。
「仲間ですか、良いですね。その提案、乗りましょう」
断る理由はなかった。頭を下げられたからじゃない。山さんの瞳の奥に、消えたといっていたはずの情熱の炎が、再び燃え上がるのが見えたからだ。
俺が憧れ続けたとびきり熱いドラッガーが、そこにはいた。
*******
夏休みが終わり、新学期に入ってはじめてのミーティング。
「――というわけで、本格的にお前たちの仲間に加わることになった山崎哲哉です。よろしく頼む」
恭しくホワイトボードの前に立った山さんが、おどけた様子で挨拶をする。事情を知らない俺以外のみんなは、いったいどういうことなのかと頭の上に疑問符をつけていた。
「かいつまんで話すと、山さんはアドバイザーからチームメンバーになったってわけだ。これからは口だけじゃなく積極的に手も貸してくれるってさ」
「それはありがたいけど……。山さん、どうして今になって僕たちの活動に直接関わろうなんて思ったんですか?」
信がもっともな疑問を口にする。
「ナイタードラッグのときに、俺や山さんと話してた人がいただろ。実は、あの人は山さんの古いライバルだったのさ。それで再会をきっかけに山さんのハートに火が点いちまって、ケリをつけようって話になったわけだ」
「へえ、因縁の相手ってやつですか」
「それってドラマチック……」
俺の話を真に受けた正樹とカナが、そろって興味津々に山さんを見つめる。山さんは、「違う違う」と、苦笑しながら首を振っていた。
ただ、あの岡本さんが俺たちと同じ大会に参戦しているのは本当だ。話によると、中部地区予選ではダントツのタイムを叩きだしているらしい。どのみち、全国大会に歩を進めた以上は避けて通れない相手だろう。
「おいこら隆太、適当なことぬかすんじゃねえ。アイツともう一度勝負したい想いもあるにはあるが、それよりもお前たちのひたむきさに感化されたんだよ。まあ、期待してくれていいぜ、隆太の腰が抜けるぐらい凄いマシンを作ってやるからよ」
「そうは云いますけど、具体的にはMR2をあれ以上どうするつもりなんですか?」
信が真面目な顔で疑問を挟む。俺たちのMR2は、まだ煮詰める余地こそあるものの、現状ですでにフルチューンと呼べる状態にある。一般的なチューニングの範囲では、これ以上の大きな変更点はまずない。
「やっぱり山さんがセッティングすると、それだけで大きく変わったりするのかねぇ?」
俺が思っていたのと同じことを、正樹が先んじて口にする。
「いいや、今の仕様はあれで完成していると云っていい。俺がセッティングを煮詰めれば、今よりも扱いやすくはなるだろうしトータル的なポテンシャルは上がるだろう。だが、タイム自体はさほど縮まらないはずだ」
「じゃあ、いったい何をどうするっていうんですか?」
俺は単刀直入に訊ねた。
「それはだな、詳細はまだ伏せるがお前たちが思っているよりも遥かに大がかりなモディファイを行うつもりだ。よりハイパワーを狙ってタービンはさらにサイズを上げるとして、要所はそれを使い切るためのエンジンとミッションにある。さっきも云ったが大いに期待していいぜ」
山さんは、さながら特撮番組に出てくるマッドサイエンティストのように、何かとんでもない企みがあるらしいことをほのめかした。だが、不安はない。あるのは期待と信頼だけだ。俺は山さんの腕を信じているから。
「山さん、任せましたよ」
「ああ、任されて」
短い返事には、まったくよどみがない。山さんは、キリッと引き締まった職人の顔でうなずいた。
「いきなり出しゃばるようですまないが、これから作業の責任はすべて俺が負う。信には作業のサポートを、正樹と加奈子ちゃんには情報集めを頼みたい。自信たっぷりに云ったものの、俺にはなんだかんだでブランクがある。腕は錆びついちゃいないつもりだが、いかんせん最新のチューニング事情には疎い。だから、MR2のチューニングに生かせそうな最新の情報があったらなんでも報告してくれ」
山さんは、工事現場の親方みたいな野太い声で号令をかけ、ガレージ集まった全員の顔をぐるりと見渡した。みんな、やる気に溢れた良い表情をしている。
だが待て、そういえば、
「俺には何も仕事がないんですか?」
「いいや、隆太にはとっておきがあるぜ」
そう云って山さんは、脇に抱えていたバインダーの中からA4サイズの封筒を取り出した。
「なんです、これ?」
俺は受け取って中身を覗いてみる。封筒に入っていたのは、クリップで留められた十枚程度の書類の束だ。取り出して、一枚目の書類に目を走らせる。わずかに折り目の入ったコピー用紙に書かれていたのは、
「ジャパン・ドラッグレーシングスクール、入校案内……」
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