5-2
翌日の放課後。俺は、いつかと同じように担任の酒井先生を学校近くの喫茶店まで引っ張り出して、端の席で向かい合わせに座っていた。
「それで、私をまたここに連れてきた理由は何かしら?」
おずおずと訊ねた先生の表情は、この間と違ってはじめから硬い。
無理もないか。目の前にいるのは、若くして死の宣告を受けた自分の生徒だ。そりゃあ緊張ぐらいする。
「そう硬くならないでくださいよ、この間みたいなドッキリはありませんから」
口調を和らげて軽口を叩いてみても、先生の態度はこわばったままだった。居合わせた顔見知りの生徒たちから手を振られても、返す笑顔にいつものような明るさがない。
……まいったな。俺、気を使われてるよ。
内心ごちるが、こればかりはどうしようもない。むしろ、事情を知っても変わらぬ態度で接してくれた他のみんなが特別なのだ。
見えない場所に設置されたスピーカーから流れるゆったりしたジャズナンバーが、穏やかな午後のひとときを演出している。俺は手元のレモンティーを一口飲んで口内を潤し、にわかに姿勢を正して本題を切り出した。
「まとまった休みを取らなければいけない事情ができたんです」
「それって、やっぱり体のほうの事情で……」
「詳しくはこの書類に書いてあります」
俺はわざと深刻ぶった顔で足下のバッグからA4サイズの封筒を取り出し、スッとテーブルの上に差し出した。先生は一層表情をこわばらせて、慎重な手つきで受け取った封筒の中身を確認する。
はらり、はらりと、取り出した書類を一枚一枚捲るごとに先生の顔色がみるみる変わっていく。
「小林くん……いったいなんですか、これは?」
「見ての通りです。ドラッグレースのドライビングを教えてくれる学校の入門案内ですよ。そこに入学するので、二週間ぐらいまとまった休みをくださいな」
いけしゃあしゃあと云ってのけた俺に、先生は怒り心頭なご様子で体をプルプルと小刻みに振るわせていた。
「アハハ、もしかして、書類は診断書で、俺がいよいよ長期入院するとでも思いましたか? 残念ながらハズレです。それよりもですね、俺たちのMR2が本格的にモンスターマシンへと進化しようとしているんですよ。そこで差し当たって問題になるのがドライバーである俺の熟練度不足なわけです。だからこの際、闇雲に練習するよりも、専門的なカリキュラムを受けようという話になりまして」
俺は一息に云って、レモンティーに口を付けながら、反応をうかがうようにチラリと上目遣いをする。
「何よ何よっ! 人を心配させといて! まったく……あなたって子はッ……!」
先生は完全に目の形を三角にしていた。顔色も赤鬼みたいに真っ赤だ。だが俺は、やり方はどうあれ、多少なりとも先生が元気になってことに安堵していた。
そして、怒気の炎を立ち上らせながら勢いよく立ち上がった先生は、
「いい加減にしなさいよッ!」
俺から渡された書類を棒状に丸め、俺の頭めがけて剣道の面打ちを思わせる俊敏かつ力強い動作で思いっきり振り下ろした。
ちょうど店内のBGMが途切れたタイミングで響いた、スパーン! という小気味いい音は、居合わせた全員の注目を集めるに足る迫力を十二分に有していた。
「ちょっ、ちょっと、酒井先生ってば、みんな見てますから、とりあえず落ち着いてください」
「うっさい、バカッ!」
衆目を気にも留めず、先生は棒状に丸めた書類を振り回して俺に感情的な言葉をぶつけてくる。俺はポカスカ叩かれながら、先生をなだめるのに必死だった。
******
「……おちょくってすみませんでした」
先生がひとまず落ち着いたのを見計らって、俺は姿勢を正し神妙に頭を下げる。さっきのドタバタを目撃していたと女子生徒たちのクスクス笑いが漏れ聞こえる。一応、周囲にも頭を下げ、騒がしくしてしまったことを詫びておいた。
「もう、ほんと、変な冗談はやめてよ……」
先生は手で顔を覆って、泣きだしそうな、それでいて少しホッとしたような弱々しい声で云った。俺は改まって、もう一度先生に頭を下げた。
「ですがね、ドラッグスクールの話は本当です。時間が足りないんですよ。このままじゃ俺の技量不足がすべてをダメにしてしまいかねない」
「だから、よりによって高校三年生のこの時期に二週間も学校を休みたいと」
「ええ、そうです」
俺は、悪巧みをする子供みたいにニヤリと微笑んで、テーブルの上で手を組む。先生は大きく溜息をついて肩を落とした。
「どうせ、私がどう云ったって小林くんはいっちゃうつもりなんでしょう」
「よくわかっていらっしゃる。そこの一点だけは譲れません。制止するだけ無駄ですね。だけど、無断で姿をくらますのは先生に悪い気がしまして、今日ここに来てもらったわけです」
親しい連中以外で、俺の事情を知っているのは先生だけだ。いらぬ心配をかけないためにも、これからの予定を、ある程度は伝えておきたかった。俺たちの計画が全国大会に向けラストスパートに入ったことも含めて。
「止めはしないわよ。……止められるわけないじゃない。自分の教え子が命を賭してまでやり遂げたいことをみつけたっていうのに、それを止めさせられるだけの理由を私は持っていないわ」
意外とものわかりの良い返答に、俺は軽く驚きを覚えた。どうせ、否定の言葉をあびせられるものだとばかり思っていたから。
そんな俺の胸の内を読み取ったのか、先生は小さくかぶりを振ると、フッと視線を落として続けた。
「これでもね、私は人に物事を教える立場の人間なのよ。人生で何が一番大切かが人それぞれなことぐらいわかってるつもりよ」
先生の口から、真摯な言葉が紡がれていく。場が重くならないようにと、にやけていた俺は、緩んだ口許を引き締める。真顔には真顔を。ここからは腹を割って本音で話さなければいけない。
店内に差し込む午後の穏やかな陽光が、夕焼けのオレンジ色へと変わりはじめていた。窓ガラスがプリズムの役目をしているのか、光は幻想的に煌めき、俺と向かい合って座る先生の顔に影を生じさせていた。
「ねえ、小林くん。本当に今の選択に後悔はない? がむしゃらになることで、目の前の現実から逃げてるのではないと本当に云える?」
「後悔はありませんよ。胸張って云えますね。俺は逃げてなんかいません。進むべき道を全力で突っ走ってるだけです」
他人にはとても理解されない時間の使い方かもしれない。いいや、簡単に理解なんかされてたまるもんか。これが俺の生きる道、俺だけの人生だ。
「だけどね、私から一つだけお願いしていい?」
少しのよどみもなく決意を述べた俺を、先生が哀願するような目で真っ直ぐ見つめる。
「少しだけでいい、本当に少しだけでもいいから、残される人たちのことも考えてあげて。キミにとっての一番じゃなくてもいいから……周りの人たちの想いをないがしろにはしないであげてほしいの」
俺に説教をしようというのではないことはよくわかった。押しつけがましさはどこにもなかったから。
考えてみる。
本当はとっくにわかっていた。すべてを投げ打ってレースに挑むことと、残される人たちの想いを頭から排除することはイコールではないって。
俺は逃げてなんかいない。
だけど、ただひたすら直進するばかりで、ままならない色んなことから目をそむけてはいなかったか?
ふいに頭をよぎったのは、助手席で泣きじゃくっていたカナの姿だった。
「……つまり、先生は俺に何をどうしろと」
俺は急に胸が苦しくなって、顔を逸らさずにはいられなかった。痛いところをピンポイントで突かれた気がした。
「そうね、たとえば……。キミが何を考え、何を想ってレースにすべてを賭けようとしているのか。それをみんなにはっきりと伝えるの」
「カナや信、正樹やその他親しい人間にはあらかた伝えてあるつもりですが」
「なら、次はクラスのみんなに云いなさいよ。胸を張ってね。場所と時間は用意してあげるわ」
「――なんだって!?」
考えてもみなかった。まさかクラス全員に病気のことを告げるなんて。
「きっと、中にはさして親しくない人だっているでしょう。だけど、それでも云うの。たしかに、あなたの人生はあなただけのもので、人は本質的には一人よ。そうだとしても、気がつかないうちに周囲と関わり合っているものなの。もし、小林くんの体が本当に手遅れになってからクラスのみんなが病気のことを知ったとして、そのとき悲しむ人はキミが思っているよりずっと多いはずだわ。だからね、お願い……」
すべて云い終わらないうちに、先生はポケットからハンカチを取り出し目元を拭う。そして、目の下を少し赤くしたまま微笑んで、「これがキミに休みをあげる条件よ」と締めくくった。
「わからないな、そんなことになんの意味が……」
俺は砂を噛んだように云って、カップに残ったレモンティーを飲み干す。うまく考えがまとまらず、すぐには返事が出来なかった。
自分のことばかり考えていた。
限られた時間のなかで、最大限の満足を得るには何をすればいいかと。
自らの人生のために、自分だけのために。
だけど、そのくせ仲間たちを巻き込んで……。
コーヒーと紅茶の香りが漂う中、俺と先生の間に、思案のための沈黙が落ちる。
口を開けず、先生と目も合わせないまま、俺は椅子に背を預け首を傾けた。ぼんやりと眺めた店の外を、自転車に跨がった小学生ぐらいの男の子が、数人の友人を伴って無邪気に駆け抜けていく。
俺に対して云うべきことを云ったからなのだろう。俺の言葉を待つ先生のたたずまいは落ち着いていて、憂いを振り払ったようにすっきりしていた。
「……俺の常識外れな人生観を語ったって、きっとクラスのみんなには理解できませんよ」
俺は静かに口を開き、沈黙を終わらせる。
「あら、意外ね。小林くんは誰かに理解してほしかったの?」
挑発の響きが混じった云い方が、俺を軽くムッとさせる。しかし、云われればその通りだ。別に誰かの理解や承認がほしかったわけじゃない。やっていることが自己満足の極みであることは、とっくに承知していたはずだ。
だったら、今さら誰に恥じることもないか。
「いいですよ、わかりました。その条件を飲みましょう」
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