5-3

 閉じた瞼の向こうに、眩い朝の気配を感じた。

 意識はまだぼんやりとしていて、どことなく頭も重い。よく眠れたとは云いがたい気分だったが、俺は気合を入れて無理矢理にベッドから身を起こして、夏の余韻をほんのり残す湿った空気に肌を晒す。

 部屋の壁に掛けられたカレンダーが、俺が病気のことを仲間たちに告げた日から、ちょうど半年になるのを知らせていた。

 窓の外からはカーテン越しに穏やかな朝日が差し込んできている。九月も半分を過ぎ、日を追うごとに、その日の最高気温の数字も下がってきている。本格的な秋の訪れはもうすぐだった。


「ったく、酒井先生め、味な真似をしてくれる」


 俺はぶっきらぼうに吐き捨てながら、着慣れた制服の袖に腕を通す。その最中、ふいに姿見の写り込んだ自分自身と目が合った。


 ……とても病人には見えないよな。


 試しに血色の良い頬を摘んでみると、痛覚はちゃんとあった。俺はまだ間違いなく生きていた。

 俺は着替えを終え、リビングでいつかと同じトーストとカフェオレの朝食を淡々と胃に収める。今日は親父も同席していた。

 食事の途中、親父は朝刊を捲る手を止め、のんびりとした口調で云った。


「隆太くん、酒井先生から聞いたよ。クラスメイトのみんなに体のことを明かすらしいね」

「なんだ、親父が知ってるということは、電話でもかかってきたのかよ。なぁ、先生は他に何か云ってたか?」

「もしかしたら、自分は酷なことをさせているのかもしれないと、悔やんでいらっしゃった」

「そう気に病むこともないんだけどな。どうせ、いつかはこうしなきゃいけなかったんだ。先生にも指摘されたけど、俺はどうも周りが見えていなかったようだ。いよいよヤバイことになってから事情を知らされたんじゃあ、たしかにクラスの連中がかわいそうだもんな」

「そうなのかな。僕としては、隆太くんはもっとわがままでも構わないんだけどね」

「いいや、俺は充分好き勝手にやらせてもらってるさ。今さらだけど、資金援助のこと本当にありがとうな」


 わりと真面目な会話なのに、俺も親父も話しぶりはフランクだった。親父は、食事を終え席を立った俺に、「がんばりなさい」と、新聞紙の上端から目元だけを覗かせて穏やかに声をかける。俺は「ああ」と眼差しで答えて、リビングをあとにした。

 玄関から外に出て、清々しい朝日を浴びながら、俺は大きく伸びをする。夏服のワイシャツ姿では、そろそろ空気が少し肌に冷たく感じる。

 俺は家の前で立ち止まり、日に焼けて色あせたプラスチック製の表札に手を伸ばし、指先で触れてみた。朝露で濡れた表面には、俺と親父、そして古くに亡くなったお袋の名前があきらかに子供の書いた字で記されていた。


「お袋、いってくるよ」


 今はもういない優しかった人への言葉は、スズメたちのせわしないの朝のお喋りに掻き消された。

 見慣れた街並みの中を通りすぎ、たしかな足どりで通い慣れた通学路の上に歩みを刻んでいく。歩道の脇の花壇では、秋桜の蕾が開花時期を待ちわびていた。

 俺は留まりはしない時間の流れを噛みしめながら、早朝の住宅地を抜け学校を目指す。途中、大通りに差し掛かる曲がり角の手前で、お馴染みの二人組が俺を出迎えるように歩道の縁石に腰かけていた。


「おまえら、そういう時代遅れのヤンキーみたいな真似は止めろよな」


 俺に指摘され、信が慌てて立ち上がる。正樹はそのままお構いなしだった。


「おいおい、俺たちは二〇分も前からここにいたんだぜ。座って待つぐらいいいじゃねえか」

「なんだって、そんなに早くから来てるんだか。いつも通り原付で先にいってればよかったろうに」


 俺も本来ならば冬以外は通学に原付を使っている。しかし、今日はあえて徒歩で学校に向かうことを仲間たちに伝えてあった。なんとなく、感傷に浸りたかったのだ。


「つれないことは云わないでくれよ。僕たちの仲だろ、水くさいじゃないか」

「そうだぜ、信の云うとおりだ。リュウが気取りたいのはわかるが、俺たちにだって行動と選択の自由はあるんだぜ」


 二人は、妙に悟った表情でうなずきあう。


「まったく、おまえらはどうしてこうも律儀なんだか」


 俺は本心では嬉しく思いながらも、素直に受け止めるのが気恥ずかしくて、呆れたように眉間を押さえる。

 そうこうしているうちに、通学路の先からもう一人見慣れたシルエットが近づいてくるのが見えた。


「みんな、おはよー」


 俺たちの姿をみつけ、カナが駆け寄ってくる。息を弾ませながらの挨拶は、降り注ぐ朝陽よりも爽やかな笑顔とセットだった。


「ごめん、リュウちゃん、ちょっとだけ休ませて」


 そばまでやってきたカナが、荒くなった呼吸を整えようと俺の肩を借りる。乱れた髪を手櫛で直すカナの顔は、ほのかに上気していた。

 カナの自宅は、俺たちが今いる場所よりずっと学校に近い。にも関わらず、わざわざ通学路の先から逆走してきたのだろう。


「ったく、どうせこの先で合流するんだから、せめて待っていればよかったものを」

「エヘヘ、だってさ、みんな一緒に歩いて学校までいくのなんて久しぶりなんだもん」

「そうだね。全員そろって学校に向かうなんて、すごく久しぶりかもしれないね。ほら、みんな通学時間はバラバラだから」


 信の口調は少年時代を懐かしんでいるようだ。


「云われれば、そうかもしれないな。俺たち全員がそろって通学路を歩くのなんてずいぶんと久しぶりな気がする」

「なんか、こうしてると小学生のころを思い出すよな。あのころは、みんな一緒なのが当たり前だったっけ。なぁ、覚えてるか。通学途中に鎖から外れた柴犬に追いかけられたときのこととか」


 正樹が手振りを交えて昔話をはじめた。


「信が犬に追いつかれて涎まみれにされたのだろ。ああ、あれはおかしかったな」


 思い出し笑いをこらえながら、俺は隣に目をやる。


「……よく覚えてるとも。みんなが僕を囮にして逃げたときのことだね」


 渋い顔をした信が、恨みがましそうにぼやく。


「違うよ。あれは信くんが一目散に走って逃げたから、むしろワンちゃんが興味を持っちゃったんだってば」


 カナは困り顔でフォローを入れる。

 一〇年近い付き合いの中で、何百何千と繰り返してきたような何気ない会話のキャッチボール。だけど、その何気なさが尊く感じられて仕方がなかった。


(この時間が永遠に続いたら、って思ったことはないかい?)


 そう訊いてきた信の気持ちが、今ならわかる気がする。

 会話を続けながら歩く俺たちのすぐ脇を、赤と青のランドセルが列をなして、元気いっぱいに走り抜けていく。

 なんとなく目で追ったその後ろ姿が、幼き日の俺たちと重なって見えて、俺の中のノスタルジーな感傷をより強くさせる。


「あ、山さんだ」


 正樹の呟きに釣られ、みんなそろって首を動かすと、山さんが仕事用に使っているライトバンが、赤になった信号の手前でこちらに顔を向けていた。

 俺たちに気づいて、ほのかに表情を緩めた山さんがフロントウィンドウ越しに手を挙げる。

「山さん、なんだか疲れた顔をしてるな」

「まぁね。日中は普通に仕事だし、夜は夜でMR2のチューニングだからね。俺ももう若くないって、よくぼやいてるよ」


 信がそう云ってから、ほどなく信号の色が赤から青へと変わり、車が流れ出す。山さんはすれ違いざまにクラクションを短く鳴らし、通勤ラッシュの流れの中へ消えていった。

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