5-4
六限目終了のチャイムが校内に鳴り響き、各教室からは帰り支度をはじめる生徒たちのガヤガヤとした話し声が漏れ聞こえてくる。
俺は、教科書やら何やらをいつものようにバッグにしまいながら、静かにそのときを待っていた。
なんでもないことが、やけに尊く感じられた一日だった。
いつものように食事をして、いつものように会話をして、いつものように授業を受けて。
そうやって、日常を噛みしめるように一日を過ごしたのなんかはじめてだった。
「みんなそろってる? ちょっと早いけどこれから帰りのホームルームをはじめます」
六限目担当の数学教師と入れ替わりで教室に入ってきた酒井先生は、教壇の上からクラス全体を見渡すように、ゆっくり目線を動かし、最後に俺のところで留めた。
「今日はみんなに大事なことを云わなくちゃいけないの。どうか落ち着いて聞いてちょうだい」
俺は先生に目線で促され、すっと立ち上がった。俺に向けられたカナと正樹の眼差しが、心配そうに揺れていた。
「小林くん、前に来て」
俺はクラスメイトたちの間を縫い、正面の教壇まで足を運ぶ。この場にいる全員の視線が俺に集中しているのがひしひしと伝わってくる。
「今から彼が話すことについて、みんなには真剣に考えてもらいたいの。無理に共感しろとは云わないわ。だけど、これは誰もがいつかは向き合わないといけないことだと思うから、真面目に聞かないとダメよ」
先生が大げさな物言いで念を押す。壇上に立ち、クラス全員と向かい合った俺は、わざとリラックスした様子で首を捻った。
いったい何事だろうと注目してくれているクラスのみんなには悪いが、俺がこれから口にするのはただの車バカの世迷い言だ。ためになる人生訓なんかではさらさらない。
「そんじゃあ、せいぜい好き勝手に語らせてもらいますか」
俺は、とぼけた仕草で頭をかきつつ口を開く。前もって用意しておいた言葉なんかひとつもない。今この瞬間、思っていることをそのまま口にするまでだ。俺は教卓に片肘を乗せ、崩した姿勢のまま話しはじめた。
「みんな聞いてくれ。もう少ししたら、俺は何日か続けて学校を休む。理由はいたってシンプルだ。知ってるやつもいるだろうが、俺とカナと正樹、それからB組の長浜信の四人は今年の春からチームを組んで車のレースをやっている。そして、俺たちはなんと全国大会にいけることが決まったんだ。それに際して万全を期すために、ドライバーである俺は専門的な運転技術向上の目的としたドライビングスクールに入校することに決めた。いわば強化合宿みたいなもんだな」
プライベートな事情で休みをもらう旨を堂々と云ってのけた俺に、クラスの男連中からは、「ずるいぞ」「俺にも有給をくれ」と、やっかみ混じりの野次が飛ぶ。女子からはクスクスと笑い声が漏れていた。
「おっと、ちゃんと先生からは許可をいただいてるぜ。ずる休みじゃないぞ」
チラリと隣に目をやると、先生は呆れた顔で眉間を押さえていた。俺は平然と野次を受け止めながら、ふざけたような声のトーンを変えずに続ける。
「それでだ。もう一つ伝えて起きたいことがある……」
皆の視線が再び俺に集まる。話しはじめる前とは打って変わって、バカなクラスメイトを生温かく見守るような和やかな雰囲気が漂っていた。
――すまないな、みんな。
冷水を浴びせかけることを内心詫びながら、俺は一呼吸置いて、教室内の空気を一変させる決定的な一言を口にした。
「俺は今、ちょっとした難病を患っている。助かる可能性は極めて低い。率直に云うなら、一年後にはこの世にいないかもしれない」
ついさっきまで和んでいた雰囲気が、困惑に取って代わられ、水を打ったように沈黙が教室内に広がっていく。クラスメイトたちの動揺が手に取るようにわかった。あっけにとられたようにポカーンと口を半開きにしたまま固まっている者もいた。あまりに急に話題を転換したのもあって、大半の人間が話の内容に理解が追いついていない様子だ。
「う、嘘だろ。小林、悪い冗談だって云えよ」
沈黙に耐えかねた誰かが、もっともな台詞を口走る。
「本当のことなんだよな」
俺は肩をすくめる仕草を交え、冗談めかして云った。しかし、内容が内容なだけに表情を緩める者は誰もいなかった。
「……じゃあ、もう少し続けよう」
教室の空気がおふざけからシリアスへ一変したのを肌で感じながら、あえて真っ直ぐ前だけを見据えて、俺は再び話しはじめる。
「あれは三月、春休みがはじまってすぐだった。急に気分が悪くなって病院にいったら、まさかの脳腫瘍、それも不治の病ってやつさ。完治は絶望的、おまけになまじっか俺の体が若いせいもあって保証できる余命は一年と来たもんだ。これにはさすがに参ったね」
まったくショックをうけなかったと云えば嘘になる。だが、落ち込むよりも残された時間の使い道を考えるほうが遥かに重大だった。
「残された一年をどう使うべきか必死で考えたさ。治療に専念すれば多少は寿命を延ばせるだろう。だが、そういう先細りな生き方は、俺にとって本当に納得のいく選択なのか? いいや、俺にはもっと有意義な時間の使い道が……、そう、成し遂げたかった夢があったはずなんだ。だったら、そいつに残った時間をつぎ込むほうが自分のためになるんじゃないかって、俺は結論を出した」
最高のスポーツカーに乗って、最高の仲間たちと一緒にレースに出て。速さの限界に挑んで。
そんな、子供のころからずっと胸に抱いてきたとびっきりに楽しい夢。どうしてもいきているうちに叶えたかった俺のこだわり。
「人生のゴールラインという昔聞いた言葉があってな。人の生に永遠があり得ない以上、きっと誰もがこのゴールラインについて考えなければいけないときが来るはずなんだ。俺が仮に病気になっていなかったとしても、いつか向き合わなければいけなかっただろう。そのとき問題になるのは、どれだけ全力でゴールラインまで走りきったかどうかだ」
クオリティオブライフ――人生の質、内容、そして満足度。俺が余命を引き延ばすよりもよりも優先して追求したかったもの。
「考え方を変えてみたんだ。人生はマラソンじゃなくて短距離走だと思えばいい。変わるのは走るペース、それだけだ。与えられたゴールまでの距離を全力で走り抜けさえ出来れば、来年死のうが百年後に死のうが得られる満足度には大差がない。だったら、俺は持てるすべてをつぎ込んで駆け抜けるだけだ。ゴールまでの距離……1/4マイルを」
俺は眼差しの先に幻視する。憧れ続けた夢の果て、やりたいことをやり遂げた人生の先、1/4マイルの彼方の光景を。
額に浮き出た汗を腕で拭い、一旦息を整える。一気に喋ったせいか、喉がカラカラに乾いていた。
俺の言葉がいったん止んだことで、教室内を再び静けさが支配する。よそのクラスから漏れ聞こえる喧噪が果てしなく遠い。
視線を教壇から下に落とすと、車バカの妄言を聞くにはふさわしくない大真面目な顔がいくつも並んでいた。
「ハハッ、まったく、どうして俺はこんな演説みたいな真似をしているんだか」
さすが照れくさくなってきて自分自身を嘲りながら、俺はこの場を締めくくるため最後の一言を声に出した。
「自分本位なことばかりだが、俺は何も後悔してはいない。きっと、どんな人生を歩んでいても、俺が行き着くのはこの結論だったんだ。だからまぁ、とりあえずこのまま最高の気分でゴールラインをくぐれれば、憂いなく、笑って死ねるね」
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