幕間・『信』
「こりゃあ酷いな」
「これは酷いね」
ナイタードラッグから帰ってきた翌日。僕と隆太は、ブローしたミッションをMR2から降ろして分解して、そろって同じ感想を述べた。
「見なよこれ、特に三速。丸坊主としか云いようがないね」
手で触れたミッション内部の歯車部分には、本来無ければいけないはずのギヤの
歯が一つも残っていなかった。
「一速と二速も酷いな……このぶんじゃシンクロもかなり傷んでるだろう」
「もともとミッションだって強化してあったんだろ? 我がことながら、よくもまあここまで痛めつけたもんだ」
隆太は苦笑しながらも、どこか愉快そうにしていた。
実のところ僕も同じだ。トラブル自体は歓迎できないけど、自分たちの車が強化されたミッションを壊すほどのパワーを手に入れたという事実は誇らしくもある。
「さて、次のミッションはどうするよ」
「それならいいのがある。メーカー品じゃなくてショップオリジナルだけど、ギヤ比がドラッグ向けに、もっとクロスしてるやつ」
「いいなそれ、いっそこの機会にドラシャもオーバーホールしちまうか」
お互いこれっぽっちもめげてはいない。相変わらずのどっちもどっちな車バカっぷりに、僕と隆太は顔を見合わせ、ガレージ内にからっとした笑い声を木霊させた。
本当なら、今日は休息日ということになっていた。夏休みも終わりが近いし、レースの次の日ぐらいはさすがに休むことにしていた。
だけど、僕はミッションブローしたMR2の様子がどうしても気になって、いてもたってもいられず結局ガレージへと足を運んでしまったのだ。
するとそこには先客がいた。隆太も、僕と同じでいてもたってもいられなくなったのだとか。さすがに正樹と加奈子ちゃんまではいなかったけど。
そして、二人で雑談しているうちに、せっかく来たのだから二人でミッションを降ろさないかという話になり、なんだかんだで本当に実行してしまったというわけだ。
「それにしても、信はさすがだな」
隆太が僕を見て唐突に云う。
「さすがって、何がさ?」
「全部だよ。今回の計画における一番の功労者は間違いなくお前さ」
「ハハ、そんなことはないよ。データは人のを参考にしたのがほとんどだし、山さんからのアドバイスだって隆太が思ってるよりもずっと多くもらってる。買いかぶりすぎってやつだね」
「いいや、データとアドバイスを実践で生かすのがどれだけ困難か知らない俺じゃない。お前には才能がある」
「そんな、褒めすぎだって。いや、まいったな」
こう真正面から褒められては、さすがにくすぐったい。
隆太がどう思っているかはしらないが、僕だって、いつもギリギリだ。余裕なんてありはしない。ただただ慎重に、自らの分を弁えて背のびだけはしないように気を配ってるだけだ。ギリギリの一線を見極め、踏み越えないよう神経を凝らす。その一線をいとも簡単に踏み越えてなお、結果を追従させられるのが本当の天才なんだと思う。理屈っぽい僕なんか、せいぜい秀才がいいところだ。
「僕が腕を振るえるのは、みんながいてこそだけどね。車のチューニングは一人ではどうにもならない作業だって多いし、他の誰かの意見があってこそ自分の考えを見つめ直すことができる。それに……」
僕は、お芝居っぽく肩をすくめた。
「資金提供してくれたスポンサー様なしには、ここまでハイレベルなチューニングはとても無理だった。おかげで今回のレース活動は当初の予定より遥かに得難い経験になったよ」
僕の口にしたタチの悪い冗談を、隆太は気にしたふうでもなく、「俺の病気様々だな」とケラケラと笑い飛ばした。
やりたいこと、するべきことをはっきりと見定めた人間特有の落ち着きなのだろうか、あるいは、後ろを振り向くことの無意味さを悟っているからなのだろうか、最近の隆太は憂鬱さや悲壮感をカケラも漂わせてはいない。
その頑ななまでの真っ直ぐさは、僕に遠い日の記憶を思い起こさせた。
******
あれはたしか小学校五年生の秋だった。
全校で行われた絵画コンクール。廊下に張り出された一枚の絵に、僕の目は縫いつけられていた。
画用紙に大きく描かれていたのは真っ赤なスポーツカーだった。
たくさんのステッカーを貼り付けたど派手な出で立ちは、間違いなくレーシングカーだ。後ろのタイヤからはもうもうと白煙が立ちこめている。
リトラクタブルライトということは、180SXかFC3Sだろうか? もしかしたらAE86トレノ? いや違うな、このスパッと切り落としたようなリヤウィンド周りのスタイルは……そうかMR2だ。
これを描いたのは、間違いなく車が大好きなやつだ。一方的な親近感に期待を膨らませながら、絵の下に貼られた小さな紙に視線を落とす。
題名『バーンナウト』
描いたのは、隣のクラスの小林隆太という生徒らしい。その絵を目にした瞬間から、僕はそいつのことが気になってしょうがなかった。
僕は昔から機械の類が好きだった。特に車が好きで、小学校高学年になるころには道行く車の車種はあらかた云えるようになっていた。
そういうふうになったきっかけはこれといって覚えていない。両親にしても不思議でしょうがないらしい。
しいて云うなら、早くに亡くなった祖父が無類の車好きでエンジニアをしていたらしく、もしかしたらその血を受け継いだのではと祖母がよく笑っていたのを覚えている。
昼休みになったら、小林という生徒のところに顔を出してみよう。
廊下に一人突っ立ってMR2の絵を食い入るように見つめながら、僕は決心を固めていた。
そして昼休み。さっそく隣のクラスに向かおうとした僕を、一人のクラスメイトが呼び止めた。なんでも、誰かが僕を訪ねてきたらしい。
呼ばれるままに来訪者のところへいってみると、どことなくぶっきらぼうな感じのする男子生徒が教室の壁によりかかっていた。
「あのさ、長浜信ってお前だよな」
「うん、そうだけど。キミは?」
男子生徒は小林隆太と名乗り、少し緊張した様子で続けた。
「あの、廊下に貼ってあったおまえの絵なんだけどさ……」
思いがけない来訪者は、頬をかきながら視線を明後日の方角にずらす。どうやら照れているらしかった。
僕が描いた絵――それはグリーンとオレンジのカラーリングに彩られた平べったいレーシングカー。世界最高峰の舞台、ルマン24時間耐久レースを制した唯一の日本車。芸術的ともいえる4ローターエンジンを積んだ奇跡のマシン。その車名は、
「あれ、マツダ787Bだよな。おまえ、良いセンスしてるな。もしかして車、好きなのか?」
ああ、コイツは本当にわかってるやつだ。世間一般的にはまったくもってマイナーな車名をずばり云い当てたことで、僕は確信した。
「うん、大好きだよ。キミの絵に描いてあるあれは、MR2だろ。バーンナウトってタイトルからわかるように、ドラッグマシンなんだよね」
返した言葉は、きっと飛び上がらんばかりに弾んでいたことだろう。
――それが、僕たちの出会いだった。
同じ趣味を持ち、同じ目線で語れる同い年の相手
好きなレーシングマシン。乗ってみたい車。出たいレース。将来の夢。
次から次へと、僕たちの話題は尽きなかった。このときほど、人との出会いに感謝したことはない。
*******
ずしりと重量感のあるミッションを二人で抱えて、ガレージの隅に敷いたダンボールの上に置く。時刻はすでに夕方の六時を過ぎていた。
「ふぅ、切り上げるにはちょうどいい頃合いだな。今日はここまでにするか」
僕が云おうと思ったことを隆太が先に口にした。
ガレージの外は、すっかり太陽が陰っていた。北東北の短い夏は、お盆を過ぎると途端に日が短くなる。肌に触れる空気からも夏の風特有の湿り気がなくなりはじめていた。
「ああ、ひとつ伝えておくことがあった。俺、明後日からちょっといなくなるんだ」
隆太が思い出したように口を開く。
「うん、了解したけど、どこか旅行にでもいくのかい?」
「いや、そうじゃなくてさ……」
隆太は云いにくそうに目線を下に逸らして、指先で頭の横をコンコンと叩いた。
「こっちの事情ってわけ。ただの検査入院だから心配はしなくてもいいんだが」
……ああ、そうか。
隆太の病気のことを忘れていたわけではない。常に頭のなかに留めてはいた。だが、真正面から向き合っていたかと云えば嘘になる。
いや、本当はどう向き合えばいいのかを、僕は未だに決めかねているのだ。
「ねえ、隆太。この時間が永遠に続いたら、って思ったことはないかい?」
「永遠?」
「そう、永遠」
僕の抽象的な問いかけに対し、隆太は顎に手をあて考え込む。口を開いたのはしばし間を空けたあとだった。
「……答えになってないかもしれないが、どうやったって永遠なんてものはないんだよ。後ろに下がろうが前に進もうが、あるいは立ち止まろうが、生きている限り必ず何かが変わってゆく。たとえば人の気持ちとか。だから時間だけが永遠だとしても、本当の意味で永遠に続くものなんてありはしないさ」
「まぁ、たしかにそうだね。万物は流転するわけだし」
「ステイゴールド、純粋な輝き、いつまでも輝き続けるもの。俺たちのチーム名だ。思いつきで持ち出した言葉ではあるが、永遠なんてないからこそ、俺は一瞬一瞬の輝きを大事にしたい。いつまでも輝き続けてくれとまでは高望みしちゃいないがな」
隆太らしい考え方だと思った。1/4マイルを駆け抜ける瞬間の輝きのために、隆太は自らの命を燃料として炉にくべようとしている。少しも足踏みする様子を見せず、まるで天命だとも言わんばかりに。
「あえて訊くけど、選んだ道に後悔はないかい?」
「ないね、最近になって確信したよ。この一年には間違いなく一生分の価値が詰まってる。そういう感覚、信にもわからないか?」
そんなの、僕にだってよくわかる。五年か十年、あるいはそれ以上の時間を一年に凝縮したような濃密な時間をすごしている実感は、僕の中にもたしかにあるから。
「もし人生が舞台だとしたら、隆太は間違いなく主役を演じてて、もっとも盛り上がるシーンを迎えているところなのかもしれないね」
「舞台ね、例えにしてはちょっとばかし気取りすぎだが、それならまして下手な芝居なんか出来ないよな。役に集中できない役者なんて、二流もいいとこだ」
腕組みして答える隆太の顔は自信に満ち溢れ、迷いや惑いは少しもうかがえない。
もし逆の立場だったら、僕にはこんな顔が出来るだろうか。
胸に問いかけてみても、答えははっきりしなかった。
ガレージ内を一通り片付け終わって外に出ると、本格的に夕陽が沈みかけていた。
「夏ももうすぐ終わりだね」
あんなに騒々しかったセミたちの鳴き声は、どこか離れたところからまばらに聞こえるだけだ。季節が移り変わろうとしているのだ。
「すまんが、俺は先に帰る。今日はちょいと、親父とメシを食いにいく約束があってな」
ガレージのシャッターを閉める僕の背中に、隆太が声をかける。
「うん、それじゃあまた」
僕はシャッターに鍵をかけながら振り向かないで言葉を返す。後ろで、原付のセルモーターが回る音がした。
「信、それじゃあな」
振り向くと、隆太がこちらに手を振っていた。夕陽がちょうど逆光になっていて、表情はよく見えなかった。
黄昏。沈む夕陽。すぎゆく夏。去って行く隆太。
ふいに、目の前の光景がまるで今生の別れのように思えて――。
瞬間、胸の奥から唐突に何かがこみ上げてきた。
(信、それじゃあな)
別れ際の言葉がリフレインする。
――永遠に続けばいいと思っていた。永遠に続くと思っていた。
気の合う仲間たちとレースをやって、騒いで、笑って、悩んで、また笑って。
だけど、そう遠くないうちに、かけがえのない時間は手のひらからこぼれ落ちてしまう。
夏がすぎ去ろうとしている。大切な仲間たち全員がそろってすごす夏は、これが最後になるかもしれないのだ。
「何も……出来ないのかよッ……」
喉もとまでせり上がってきた感情の動悸を、僕は胸に手を押し当て、歯を食いしばって必死に飲み込んだ。
「まだだ、まだやれることはあるはずなんだ」
小さくなっていく親友の背中を見つめながら、自らに云い聞かせる。
隆太がそうするように、僕もまた自らの持てるすべてを今のために尽くさなければ。
最善を尽くせ! 脇役になんか甘んじるな! 僕は僕の人生で精一杯主役を張ってやる!
夢へと突き進む親友がそうするように、僕も、僕自身のために、後悔のない選択を――。
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