4-5
「お久しぶりです、山崎先輩。お元気そうで何より」
岡本さんは微笑み、改まって静かに会釈をする。
「……懐かしいな。だが、どうして今日ここに?」
「雑誌の記事で、見覚えのある車が走っているのを目にしたもので。どういうことなのかたしかめようと、はるばる名古屋からやってきました」
岡本さんは眼差しをMR2に向けた。
「あの朱いMR2、デカール類は剥がしてますけど昔先輩が乗ってた車そのものですよね」
「ああ、そうだが、今のオーナーはコイツらだ。ガワは同じでも、エンジンから何から仕様も昔とはまったく違う」
「今は、ご自分では走ってないんですか?」
「もうほとんどリタイヤ状態だよ。コイツらにちょくちょく口出ししてるぐらいか」
「どうしてです?」
「いや、どうして……って、そりゃあ、この歳になれば色々しがらみも増えるしな。仕事やら何やら、暇ってわけでもなしに、いつまでも若々しくカーキチを気取ってもいられないさ。お前は、変わらずか?」
「はい、まだ何も答えは見つかっていませんので。ここで走るのを止めたりしたら、自分の人生を否定しているみたいなものです」
二人の間の空気は、奇妙に張り詰めていた。久しぶりの再会を喜んでいるというよりは、まるで山さんが詰問されているみたいだ。
「僕と最後にあったとき……いえ、最後に勝負したときのことは覚えてますか?」
「えっと、いつだったっけな……」
「六年前、セントラルで行われた雑誌社主催の全国大会です。二駆クラスの決勝で、先輩の車がミッションブローして僕が勝ちました。だけど当日のベストタイムではこちらが負けていた。あれにはまだ納得してませんよ」
「あったな、そんなことも……」
山さんは、あきらかに歯切れが悪い。
「この機会に、ケリをつけようとは思いませんか?」
「いや、俺はもう降りた人間さ。そういうのは、コイツらがやってくれるって」
山さんはぎこちなく苦笑して、俺たちを見る。岡本さんは笑っていなかった。
「それ、本気で云ってるんですか?」
「本気も何も、今MR2を走らせてるのはコイツらだから」
表情を崩した山さんに対して、岡本さんの顔には落胆の色が覗く。ちょうどそのタイミングでトーナメントの開始を知らせるアナウンスが会場に流れた。
「そういえば、トーナメントの組み合わせはどうなったんだ?」
そろそろ準備をしなければと思い、俺は信の肩を叩いた。
「えっと、数えて十四番目だからまだ時間は充分あるけど」
しかし、気持ちのほうはそろそろ本番モードに切り替えておいたほうがいいだろう。
「正樹、悪いけどリヤの空気圧を見といてくれ。俺は少し顔を洗ってくる」
山さんたちの会話も気にはなったが、俺には自分のやるべきことがあるはずだ。
俺は手洗い場へ向かおうと、ワンボックスから降ろした荷物の中からタオルを探す。
「おっと、僕もそろそろお暇しないと邪魔になりそうですね。では、観覧席のほうに戻ります。キミたちも頑張って」
岡本さんは現れたときと同じく、俺に向かって気さくに手を挙げる。続けて、「それでは、山崎先輩もお元気で」と深く頭を下げた。
「ねえ、山崎先輩、最後に一つだけ。1/4マイルの彼方へは辿り着けましたか?」
それだけ云い残して、岡本さんは振り返ることなく、アイドリングの音が轟き始めた駐車場をすり抜け、静かに歩み去っていった。
「……さあて、どうなんだろうな」
去り際の不思議な問いかけに、山さんは憂いげに首を横に振っていた。
*****
トーナメントの一回戦を難なく勝ち進んだ俺は、レースパドックで次の出走を待つ。
すぐ目の前のコース上では、羽根のないグレーメタリックのランエボⅢがスタート位置に着くところだった。
その隣、右側のレーンではネオン管をやたらに付けた青のスープラがスタート前のバーンナウトをしている。
トーナメントというだけあって、勝負は区間タイムが速い者ではなく先にゴールした者が勝者となる。出遅れや、フライングによる失格もあり得る一発勝負だ。
クリスマスツリーを思わせるシグナルランプの点灯がイエローからグリーンに変わり、横並びの二台がスタートラインから飛び出してゆく。
どうやらランエボが軽さを生かして先行したようだ。しかし、排気量で勝るスープラの後半の伸びも侮れない。
バケットシートの背もたれに体を預けながら二台の接戦を眺める。
風に乗って流れてきた焦げ臭いバーンナウトの煙が鼻を刺激した。ほどなくして、ゴール脇の電光掲示板に左レーンのマシンが勝ったことを示すランプが灯る。ランエボが逃げ勝ったか。
さて、俺の番だ。
MR2を左のレーンへ。センターラインを挟んだ隣のレーンには、いかついエアロパーツを装着した水色のアリストが並んだ。
雑誌で見たことがあるマシンだ。たしか800PS以上は出ているはず。併せて掲載されていた1/4マイルのベストタイムも、こちらよりコンマ数秒は上だった記憶がある。
しかし、すんなりと負ける気はしない。今日のベストタイムだけでいえば、こちらのほうが勝っている。トーナメント方式もはじめてではあるが、それを想定したスタート練習は幾度もやってきた。
「1/4マイルの彼方……」
さっき耳にしたばかりの言葉が、やけに頭に残っていた。
岡本さんが去り際に口にしたあの言葉には、いったいどういう意味があるのだろう。
――1/4マイルの彼方。
つまりはゴールラインのその先。俺の心をピンポイントで射貫く、えらく魅力的な響きだった。気になってしかたがない。
知りたい、見てみたい、そこに何があるのかを。
どうすれば、そこに辿り着ける?
ただ耳にしただけの言葉が、自身の都合と絡み合って、渦のように頭の中をぐるぐる回る。
「……っと、今は目の前に集中しないとな」
唸るようなバーンナウトの音が、俺の意識を思考の深みから現実へと引き戻す。
俺はかぶりを振って気持ちを切り替えると、前輪をロックさせるラインロックを作動させ、隣のレーンのトヨタ・アリストに続けてバーンナウトを開始した。
毎度のように十数秒タイヤを空転させ、そのまま勢いでスタートラインまでMR2を前に出す。ニチャニチャというタイヤに纏わりつくVHTの粘ついた音はもう聞き慣れてしまった。
「路面状況は良好、水温、油温、油圧よし」
回転数の上下に併せて、猛々しいエンジンの音と振動が背中から伝わる。すべてが数ヶ月前とは大違いだ。
このまま仕上げていけば、間違いなくもっと上のタイムを狙える。
しかし、今になって、心のどこかで一抹の不安が芽吹きはじめていた。はたして、俺は本当に満たされるのだろうか、と。
信じるしかない。自らが選んだ道を、俺たちが手塩にかけて作り上げたMR2を――。
一度クラッチを切ってアクセルを軽くあおる。車体ゆっくりスタート位置に合わせる。
スタート準備が整ったことを示す黄色いプレステージランプの灯りが、暗闇の中にくっきりと浮かび上がる。
さぁ、またとびきりエキサイティングな時間のはじまりだ。
アクセルペダルに乗せた右足に力を込め、回転数を3800rpmに合わせる。ターボブーストの上昇に勢いがつく4000rpm弱付近へと吹け上がる瞬間にクラッチを繋いでスタートする算段だ。
神経をクラッチペダルに乗せた左足へ集中。1/4マイルを走ることにのみ意識を傾け、熱気のこもった車内でスタートの瞬間を待つ。
吹き出た汗の粒が右頬を伝った刹那、シグナルランプがイエローからグリーンへ。
「頼むぜ俺、上手くやれよ!」
ドン! という衝撃を伴って、強化されたトリプルプレートクラッチが、エンジンの出力を余すことなくタイヤに伝える。ドラッグレース用に性能を特化したレーシングタイヤは、600PS近い大出力を一気にかけられたにも関わらず、わずかなスキール音を発しただけで車体を確実に前へと加速させた。
直感でわかる。隣レーンのアリストより前に出た。おそらく、これまででベストのスタートだ。
ナイトロオキサイドによって補われた低速域。尻を思いっきり蹴飛ばされたような強烈な加速。体にかかるGによって上半身をシートに強く押しつけられながら、俺はベストタイムの更新を確信した。
加速Gによって狭まる視界。風景がもの凄い勢いで後ろにぶっ飛んでゆく。
タコメーターをまったく見ずに、シフトランプとブザーに従ってギヤを二速にシフトアップ。
続いて三速。
電光石火の勢いでクラッチを蹴り、最小限のロスでギヤを――――――――――なんだ!?
硬いもの同士を無理矢理擦り合わせたような不快極まりない金属音と共に、三速の手応えが唐突に消え去る。
抵抗がなくなってエンジンが一気に吹け上がる。オーバーレブの予感に慌ててアクセルを抜き、クラッチをきった。
「ゲームセット……。くそったれ、やっちまった」
ギヤをニュートラルに戻して、うめくようなつぶやきがこぼれる。MR2はこれ
以上の加速を止めていた。
間違いなく駆動系のトラブルだ。感触としてはドライブシャフトじゃない、たぶんミッションブロー。駆動系にもあらかじめ強化品が入っていたはずだが、連日の度重なるテスト走行と増大したパワーに音を上げたのだろう。
惰性で前に進むだけとなったMR2は勢いを失い、ガラガラという駆動系からの異音を伴いながら徐々に速度を落としてゆく。
俺はステアリングを握る手に力を込めながら、視界の遙か先まで伸びた直線を睨みつけた。
矢のような勢いで突き進んでいった隣レーンのアリストがゴールラインをくぐる。遠く前方の闇にブレーキランプが赤く点滅する。
夜間照明に照らされた薄闇の中にたたずむ電光掲示板に、どちらがレースの勝利者かを告げるオレンジ色のランプの灯りがぼわっと浮かび上がる。
「待っていろ、今にたどり着いてやる……」
1/4マイルの彼方。ゴールラインの向こう側は、俺にはまだ見えない。
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