一章・『On Your Mark』

1-1

 閉じた瞼の向こうに、眩い朝の気配を感じた。

 意識はまだぼんやりとしていて、どことなく頭も重い。よく眠れたとは云いがたい気分だったが、俺は気合を入れて無理矢理にベッドから身を起こして、ひんやりとした部屋の空気に肌を晒す。

 部屋の壁に掛けられたカレンダーの表記は三月で、暦の上ではとっくに春が訪れているのに、カーテン越しに差し込む朝日は眩しいばかりで暖かさはちっとも感じられなかった。

 立ち上がった俺は、着慣れたトレーナーの袖にいそいそと腕を通す。ついでに冷えた体をほぐそうと適当に上半身をひねっていて、机の上に置かれた一枚の紙きれが視界の端をかすめた。

 にわかに、心がざわついた。

 紙きれの表面には、俺の名前――小林隆太(こばやしりゅうた)と記されているのを一番上にして、つい先日病院から渡された薬の種類が五〇音順に羅列されていた。

 ……ああ、わかってるよ。

 俺は紙きれへと手を伸ばし、そっと裏返した。

 着替えを済ませて顔も洗った俺は、左上に時刻を表示した朝のニュース番組を眺めながら、トーストとカフェオレの朝食を淡々と口に運ぶ。

 四角い液晶画面が伝えてくるのは、気の早い桜の開花予想に、どこかの地元特産品を扱ったローカルニュース、プロ野球のオープン戦の試合結果。

 画面の向こう側もこっち側も、何ら普段と変わったところはない。ありふれた朝の風景がそこにはある。

 彩り豊かとはいえない食事を終えた俺は、ハンガーに掛けてある冬用のブルゾンを羽織ると、財布と携帯だけポケットに入れて、そそくさと家を出る。

 早春を迎えた北東北の朝は、まだ気温が氷点下を下回っているようで、吐く息はたちまち白い煙に変わってしまう。

 俺は路線バスの到着時刻を気にしながら、霜で白く染まった庭を足早に抜けようとして、ふと郵便ポストの下にかけてある表札に目が留まった。

 記されている名前は三つ。俺と親父、そしてお袋。

 親父は、今日は仕事が早出だったらしく、俺がリビングに降りたときにはすでに姿がなかった。

 お袋は……、もう、ずいぶん前にこの世を去ってしまっていた。

 たしか、死因は白血病。俺が物心つく前の話なので、どうにも曖昧だが、とても温かい感じのする人だったことだけは実感をもって覚えている。

 俺はなんとなく立ち止まって、住み慣れた我が家を仰ぎ見た。

 庭先と同じように、青いトタン屋根にも薄く霜がおりて白くなっている。俺が生まれた年に、親父が三〇年ローンを組んで建てたというちっぽけな一軒家。大きくも立派でもないけど、俺や親父にとっては、思い出のつまった我が家だ。


「じゃあ、いってくる……」


 俺は立ち止まったまま、旅立ちの挨拶のように短く告げた。

 らしくない真似をしていると思った。柄にもなくセンチメンタルになっているのも自覚している。


 …………行こう。


 俺は最寄りのバス停から市内を巡回する路線バスに乗り込んで、街外れにあるポールが一本佇んでいるだけの殺風景なバス停で降りた。

 そこからは、徒歩で国道沿いを北に向う。途中で右に折れ農道に入り、あとは目的の場所に辿り着くまでひたすら真っ直ぐ。

 すでに雪がほとんど残っていない幹線道路とは違い、砂利引き地面の農道には、まだ残雪の姿がたくさん目立っていた。

 しかし、本格的な春の訪れはそう遠くない。雲の隙間から降り注ぐ穏やかな日差しが、そのことを教えてくれている。日が高くなるにつれて、空気が春らしい温みを帯びはじめていた。残雪に反射する陽光は眩く、目を細くせずにはいられないほどだ。と、細く狭まった視界の向こう、農道の先に寂しくポツンと建っているトタン小屋の前に、二人分の人影が見えた。


「ようっ、元気にしてたかー、リュウ!」


 人影の片方が、俺に気づいて大きく手を振る。辺りは一面雪に埋まった田んぼばかりで、声が耳元までよく響いていた。声の主の明るい色をしたツンツン頭も白い景色の中で目立っている。俺は片手を挙げ、二人に駆け寄った。


「久しぶり、春休みに入ってから顔を合わせるははじめてだね」


 ツンツン頭じゃないほうのもう一人が、静かな足どりで歩み寄ってくる。


「すまん、ここのところ色々と立て込んでて連絡が取れなくてよ」


 そう云って頭をかいた俺を、ツンツン頭がケラケラと笑い飛ばす。


「気にすんなよリュウ。ま、誰にだって用事ぐらいあらぁ」


 軽い口調で俺のことをリュウと呼ぶ明るい茶髪のツンツン頭――鍋田正樹(なべたまさき)とは幼稚園のころからの付き合いで、小中高と通う学校も、そして現在のクラスまでずっと同じだった。お調子者なところはあるが、気さくな憎めないやつだ。


「誰にだって用事ぐらいある、ねぇ。そう云うのならさ、いつも連絡の一本も無しに人の家に押しかけてこないでくれよ」


 その隣で首をすくめている背筋の真っ直ぐなメガネ姿の優等生が長浜信(ながはましん)。

 信もまた俺との付き合いは長く、クラスこそ違うものの同じ高校に通う同級生だ。


「正樹も信も、昨日は夜中にいきなり電話して悪かったな。例の計画絡みで、どうしても話しておきたいことがあってよ」

「気にすんな気にすんなぁ。例の計画についての話し合いなら大大大歓迎だってばよ」

「だね、車絡みの用事なら僕としても大歓迎さ」


 予定していなかった急な呼び出しだったにも関わらず、二人の表情は明るかった。

 俺たち三人を、ただの幼なじみ以上の絆で結びつけるもの。それが”クルマ”だった。それも、改造とかレースとか、そういうスピードや勝ち負けを楽しむ系のやつ。

 ガキのころから、俺たちにとって一番お気に入りの遊び場といえば、街外れにある廃車置き場で、そこからもらってきた外車のエンブレムをチャリンコに貼りつけて得意気になっていたのは良い思い出だ。中学生のころには廃車のエンジンを見よう見まねでバラして組み直したことだってある。

 そんな、自他ともに認める俺たち車バカ三人は、目前に控えた高校生活最後の一年に向け、あるとっておきの計画を実行に移そうとしていた。


「とりあえず、立ち話もあれだ。詳しい話は中に入ってしようぜ」


 俺は親指でトタン小屋のシャッターを指し示す。


「それもそうだね、立ち話で済ませるにはもったいなさすぎる」


 俺は信から鍵を受け取り、小屋の正面にあるシャッターを押し上げた。ひと冬ぶりに開け放たれた屋内からは、埃っぽい空気に混じって鼻をつく金属とオイルの匂いが漂ってくる。お世辞にも良い匂いだとは云えない。だけど、誰も鼻や口を押さえようとはしなかった。

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