4-3

「ナイトロオキサイドだ!」


 ガレージに到着するなり、俺は声を弾ませた。


「お、おい、なんだよリュウ、びっくりするじゃねえか」


 突然現れ、汗も拭わぬままいきなり叫んだ俺に、正樹だけでなくみんなが驚いていた。

 しかし、さすがの信だけは俺の意図をすぐに理解してくれたようで、


「そうか……その手があったか!」

「ああ、すっかり固定概念に捕らわれてたよ」


 俺と信は、視線を交わしてお互いにうなずきあう。事態を飲み込めない正樹が、


「おいおい、俺にもわかるように説明してくれよ」と困り顔で口を挟んだ。

「正樹、ナイトロオキサイドは知ってるよな。ナイトロは窒素。オキサイドは酸素だ」

「ああ、たしかNOSって略称で呼ばれてるやつだろ。青いガスボンベに充填されたやつなら、雑誌で見たことがあるぜ。だけど、そいつで今の状況を打開できるのかよ」


 正樹が懐疑的になるのも無理はなかった。

 ナイトロオキサイドシステム。通称NOS。

 亜酸化窒素を充填したガスボンベを車に積み、ホースを引いてエンジンのインテーク(吸入口)に噴いてやることで一種の化学反応を起こし、エンジンの燃焼室に取り込める酸素の量を爆発的に増やすことができる。

 エンジンの仕様との兼ね合いにもよるが、それによって最大で一・五倍にも及ぶ出力のアップが狙えるのだ。

 大体の場合、制御は手元のスイッチで行う。ボタンを押せばナイトロが噴射されてパワーが増大。ここ一番での一伸びのために用いるのがポピュラーな使い方だ。

 これぞまさに車へのドーピングだろう。

 だが、“ここ一番での一伸びのためのシステム”という先入観こそが、俺たちの考えがナイトロオキサイドに及ばなかった原因でもあり、正樹を懐疑的にさせている理由でもあった。


「なぁ、NOSなんか噴いたらますますピーキーになりやしないか? ここ何日かの俺たちのセッティングアプローチは、扱いきれないパワーを、むしろ抑えて制御するほうに傾いてたはずだぜ」

「ピーキーか、よくある使い方ならそうなるかもしれないが、そうじゃない。発想を逆にしてみるのさ」

「発想を逆にって……。ああっ! そういうことかよ」


 俺の意図が伝わったことに、自然と口許が緩んだ。

 俺が思いついた方法は実にシンプルだ。

 ナイトロオキサイドをここ一番のひと伸びにではなく、スタート時のアシストに使ってやる。ただそれだけだ。

 もともと、排気ガスによって内部の羽根を回して加給するターボチャージャーは低回転に弱い。タービンを大型化してハイパワーを狙ったチューンドカーならなおさらだ。

 しかし、ナイトロオキサイドならば、ガスを噴いてさえやればどの回転数からでもパワーアップを狙える。これで、今のマシンの欠点である急なパワーの出方を上手く補ってやればいい。


「隆太、悪くないアイディアだよ。良く思いついたね。僕はパワーを制御するほうにばかり考えを巡らしていたよ」

「まぁ、思いがけないアドバイスをもらってな」


 喫茶店に置いてけぼりにしてきた先生の困り顔が思い浮かんで、表情が緩む。


「方向性は決まったことだし、具体案を煮詰めるとしますか。カナ、悪いけどナイトロオキサイドを扱ってる近場の車屋をいくつか調べてみてくれ」

「うん、わかった。リュウちゃんたちもがんばって」


 カナはさっそくノートPCを立ち上げて作業に取りかかる。信は山さんに新しいプランが決まったことをさっそく連絡し、正樹はMR2のエンジンフードを開けて、ガスボンベから引っ張るホースの配置をイメージしていた。


「さぁ、面白くなって来やがった!」


 シャッターの外を見上げれば、視界いっぱいに広がるのは入道雲がそびえ立つ夏の空。高校生活最後の夏休みを明日に控えた七月二三日は、まだ真昼だった。


*****


 夏の太陽は西の彼方へと沈み、仙台ハイランドドラッグレースウェイに夜の帳が下りる。

 八月の第四土曜日に行われる地区予選の三戦目は、気温の高い日中を避け夕方から夜にかけて開催される。

 ナイターということで、この日のためにネオン管やストロボ式のヘッドライトでドレスアップしてきたマシンも多く、ぼんやりとした蛍光色の灯りや小刻みに点滅する白い閃光が駐車場やレースパドックをカラフルに彩っていた。

 時刻は間もなく午後八時を回ろうとしている。レース開始からすでに二時間が経過し、夕陽の残照は跡形もない。慎ましやかな天上の星とは対照的な眩い地上の流星が、勇ましい排気音やスキール音を伴って、闇を切り裂き1/4マイルを走り抜けていく。


「くそ、暑いな……」


 俺はレーシングスーツの襟元を緩め、走行中は締め切っていた窓を全開に開け放つ。ステアリングから両手を離して、頭を下げヘルメットを脱ぐ。ふう、と大きく息を吐き出して、ようやく気分が楽になった。

 本日二本目の走行を終え、コースから駐車場へと帰投した俺はマシンを降りるなり、


「コングラッチレーション」


 親指を立ててガッツポーズを作り、これほどのチューンドカーを共に作り上げた仲間たちへ、心からの賛辞を送った。


「この仕様が、まさかここまで見事にキマるとは思ってなかった。フィーリング、扱いやすさ、後半200m以降の伸び、すべて文句なしだ」

「そう云ってくれると、セッティング担当としてもベストを尽くした甲斐があるよ」

「へへっ、俺もサブのテストドライバーとしてがんばったんだぜ。なにせ、扱いやすさにだけは気を使ったからな」


 低回転、低速域でのパンチ力不足をナイトロオキサイドで補い、高回転、中高速域での伸びをターボの出力が受け持つ。それによって、全域でのパワーアップを実現する。

 イメージとしては完璧だったが、実走、それもレース本番でまともに戦える仕様に仕上がるかどうかにはやはり不安があった。

「仕上がりに関しては、山崎さんのアドバイスが大きかったのもあるんだけどね」

 信から尊敬の眼差しを向けられ、山さんは「いやいや」と謙遜した仕草で首を振る。


「取り付けもセッティングも、がんばったのはおまえらさ。俺はたかだかアイディアを一つ提供しただけでしかない」


 だが、山さんが出したアイディアの貢献度も低くはなかったのは事実だ。


「一番はじめに問題点に気がついたのは俺なんだけどな。ただでさえスタートが上手く決まらなくて四苦八苦してたのを、リュウはさらにもう一手間増やそうとしてたんだぜ」


 正樹が得意げに鼻を鳴らした。当人が云うように、今回最大の功労者は正樹だ。コイツの指摘がなければ、俺はまた落とし穴にはまっていたことだろう。

 焦点となったのはナイトロオキサイドを噴射する際の制御だ。

 通常は必要なときに噴射スイッチを押すことでナイトロを噴くようにするのだが、これに対して「ただでさえ集中しなきゃいけないスタートの際に、わざわざ仕事を増やすのはナンセンスじゃないか?」と正樹が異を唱えたのだ。


「今思えば、あれは実に正論だったよ。腕でなんとかしてみせると俺は息巻いていたけど、経験値を鑑みれば、著しく安定性を欠いたドライビングになっていただろうから」


 そこで、ヤマさんが提案したのが、コントローラーを使ったナイトロオキサイド噴射タイミングの電子制御だ。

 コンピューターにまかせることでエンジン回転数に連動させて自動でナイトロを噴射させることが可能になった。俺の手間が減ったということである。


「ところで、タイムはいったい何秒だったんだ? 走ってるほうの感触としてはかなり良かったんだが」


 コースから戻ってくる最中、ずっと気になっていたことを訊ねる。カナがタイム表を読み上げてくれた。


「えっとね、一〇秒九だって。終速は……凄い! 時速二〇〇キロを超えちゃってるよ」


 ヒュウ、と正樹が甲高い口笛を吹き、信は、どんなもんだいとばかりに気取った仕草で眼鏡を押し上げた。


 1/4マイル・一〇秒台への突入。


 それは俺達のMR2が全国区レベルの速さに到達したことを示す一つの目安だ。


「おまえら、本当によくやったな」


 山さんからの賛辞にも実感がこもっている。


「まだまだ、コイツはもっとやれますよ」


 俺は、脈動のようなアイドリング音を奏でるMR2に視線を落とした。


「まだコイツは、全力を出し切っていない感じがします。信、正樹。悪いが、バラストをもう二〇kg積んでくれ。さらにタイムアップを狙ってみる」


 すっかりツナギ姿が板についたメカニックの二人に支持を出す。

 バラストとは言葉通り重りのことだ。それを駆動輪の上、トランクに積むことでさらなるトラクションの向上を狙う魂胆だ。


「あいよ。また雑誌に載るような好タイムをバーンと出しちゃってくれよな」

「バラストを積むと、タイヤの食いつきが良くなるぶんフィーリングが変わるかもしれないから、スタートのときはストールに気をつけて」

「ああ、了解した。任せてくれ」


 積載車の荷台からバラスト用の砂袋を下ろし、二人は忙しく動き回りはじめる。

 コースからは、闇夜の静寂を切り裂く悲鳴のようなウエストゲートの開放音が響いてくる。

 まだドラッグジャンキーたちの宴は終わってはいない。

 カナから手渡されたスポーツタオルで汗を拭いながら、俺は頭の中でスタートタイミングのシミュレーションをはじめた。

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