4-2

 学期末の職員室は、浮ついた教室の空気とは打って変わって慌ただしかった。

 ノンフレームのメガネが似合う酒井先生は、俺の来訪に気づくと、書きかけの書類から顔を上げた。

 担任の酒井先生は、見た目よりも少し年がいっていることを除けば相当な美人だ。外見以上に性格の若さも手伝って、とても三〇歳をすぎた風には見えない。


「なんの呼び出しか知りませんが、やることがあるので手短にしてください」


 俺のぶしつけな言葉に気を悪くしたのか、酒井先生は、口の端を軽く引きつらせた。


「そう、なら私も単刀直入に云ってあげるわ」


 酒井先生は、ぷんぷんと吹き出しが付きそうな動作で机の引き出しから一枚の紙を取り出すと、よく見なさいと云わんばかりに俺の鼻先に突きつけた。


「なんです、これ?」

「あら、見てわからないかしら」


 突きつけられた紙は七月の出席表だ。だが、俺は出席日数に関しては何も問題ないはず。そのことを平然と伝えると、


「あのねえ、小林くん。いくら出席日数が大丈夫だからって、学生が月の半分近くも自己都合で休んでいいと思ってるの?」

「ダメなんですか?」

「ダメです!」


 即答だった。いわく、学生なんだから気ままに有給を取るような真似は許されないとのこと。


「休みぐらい別にいいじゃないですか、これまでは真面目に学校にきてたんだし」


 抗議の言葉を口にしながら、出席表に視線を走らせる。数日単位のまとまった休みはレースの第二戦から帰ってきた直後に集中していた。


「どうも俺って、失敗したらすぐに原因究明に取りかかるタイプなんですよね」

「失敗って、何の失敗かしら?」

「ドラッグレースのことです。具体的に云うと、CPUとバルタイと足のセッティングの見直したかったんです」


 まだ解決してないんですが、と続けたら、酒井先生はあきれたようにため息をこぼした。


「きみも三年生なんだから、少しは進路のこととか考えないと。こういう不自然な休みが多いと内申点に響くわよ」

「ああ、進路ですか……。そういうのもありましたね……」


 進路、それはつまり先のこと。これからの人生について。俺が自分の体のことを知って、頭の中から完全に排除していたことだった。そういえば、親しい人間と医者以外には、俺はまだ誰にも病気のことを明かしてはいなかった。


「ねえ、小林くん、聞いてるの?」

「ええ、聞いてますとも」


 半分聞き流しながら、職員室をぐるりと見渡す。放課後になったばかりというのもあって、人の出入りは激しかった。

 ちょうどいい機会だとは思ったが、真面目な話をするには、この場所は賑やかすぎる。


「ちょっと場所を変えませんか?」


 俺は一言断って、おもむろに酒井先生の手を引いた。


*****


「こらっ、私はまだ仕事中なんだぞ」


 席についてまず飛び出したのはお叱りの一言だった。

 どこか落ちついて話が出来る静かな場所はないかと考えて、学校のすぐ近くにあるエスコートという喫茶店に、俺は酒井先生を連れ込んだのだ。


「そうは云いながらも、ちゃっかりアイスコーヒーを頼んでるじゃないですか」

「べ、別にいいじゃない、これぐらいの息抜き」


 酒井先生は、ばつが悪そうにそっぽを向く。こういうどこか子どもっぽい仕草がこの先生を学校の人気者にしていた。冷房の効いた店内には学校帰りの生徒の姿もちらほらあって、酒井先生の姿に気づいた女子生徒が、こちらに向かって手を振ったりなんかしている。


「ははは、相変わらずの人気者ですね」

「お世辞は結構です。それで、わざわざ場所を移した理由は何かしら? 補習の相談なら大歓迎だけど」


 女子生徒に向かってにこやかに手を振り返しつつ、酒井先生が話を本題に戻す。


「さて、どう伝えましょうか」


 こんなつまらない話を聞かされる先生に同情しながら、俺はなるべくシンプルな言葉を探した。


「驚かないで聞いてくださいよ」

「それは内容によるけど、とりあえず云ってみなさいな」


 酒井先生はリラックスした様子でアイスコーヒーに口をつけた。

 俺は軽く身を乗り出して顔を近づけると、ひそひそ話をするように声のトーンを落として云った。


「あのですね。俺、来年の今頃には、もうこの世にいないかもしれないんですよ」


 やや回りくどかったのかもしれない。先生は不愉快な冗談を聞かされたとばかりに顔をしかめた。


「あのねえ、そういう悪い冗談は……」

「そうですかー。先生には冗談に聞こえましたかー」


 口調は軽くとも、俺はとびきりマジな顔で先生の目を正面から見据えてやった。本当はニッコリ微笑んでやるつもりだったけれど、上手く表情を作ることができなかった。

 そんな態度が妙な迫力を与えてしまったのか、戸惑いを露わにした先生は、のけぞるみたいにして俺の眼差しから距離を置く。それから先は、これまで幾度か繰り返したやりとりをなぞるだけだった。

 先生は、信じられないといった面持ちで絶句し、俺の話に聞き入る。

 ことの発端。俺の決意。そして現状。

 俺は一通り説明し終わると、しばし間を置いて、つまらない話を聞かされた気の毒な相手の反応を待つ。

 店内に流れる季節にあった軽快なポップス。すぐ近くのテーブルから漏れ聞こえてくる女子高生たちの談笑。そのすべてが別世界の出来事のように遠い。


「ええと、あの……それでも病院に入院したほうが、もしかしたら、治療の可能性だって……」


 先生は目眩を堪えるかのように額を抑え、歯切れ悪く言葉を発した。


「やっぱり、普通はそう云いますよね」


 俺は気怠く息を吐き出しながら、椅子の背もたれに体を預ける。

 脳腫瘍の治療の可能性について、まったく考えなかったわけではない。医者が云うには、完治の望みこそ薄いが、延命の望みはゼロではないらしい。


「……ですがね、先生。病状の進行スピードを考慮すると、上手くいかなかった場合、治療に費やした時間はすべて無駄に終わるらしいんですよ」


 それでなくとも、放射線治療がはじまれば日常生活は大幅に制限されるだろう。レースなんてもってのほかだ。残った時間をやりたいことのためにつぎ込むという馬鹿げた選択に対して、病院から一応のOKが出ててしまっている辺り、治療の難しさがうかがい知れた。

 俺は、わざとにこやかな表情を作る。そして、意地の悪さを自覚しながらも、思ったままの言葉を口にした。


「もし、治療が失敗して、俺が何も納得のいかないままくたばったりでもしたら、時間を溝に捨ててしまったとしたら、どうします?」

「それはッ……」


 先生は顔面を蒼白にして、再び言葉を失った。そして、俺の眼差しから逃げ出すようにうなだれた。


「すいません。意地の悪いことを云ってしまいました」


 俺は気まずさを覚えながら一言詫びて、手元のアイスティーを口に含んだ。


「今の俺にとって、レースは遊びじゃないんです。大マジです。冗談じゃなく人生賭けてますから」


 心の底からの嘘偽りない正直な気持ち。誰にだって胸を張って云える。覚悟なんかとっくに決めていた。

 俺は残された道のりを、全開でアクセルを踏み続け駆け抜けるだけ。ただひたすら真っ直ぐ前だけを見据えて――。

 この喫茶店のトレードマークにもなっている鳩時計が午後二時を知らせる。そろそろ、みんながガレージに集まってくるころだろう。

 俺は頭を振って気持ちを切り替えると、おもむろに、冷えたアイスティーのグラスを先生の頬に押し当てた。


「冷たっ! な、何するのよいきなり」

「気分を変えましょうや。辛気くさいのはこりごりですから」


 戸惑っている先生を意図的に無視して、強引に話題を変える。内容は、陸上部の佐々木に振った話題を、車好き以外にも通じるよう例え話に置き換えたものだ。


「実力はあるんだけど、色々あってタイムが伸び悩んでる短距離ランナーがいるとします。この彼が手っ取り早くタイムを伸ばすためにはどんな方法が有効だと思いますか? ああ、ちなみに彼には本番までの時間があまり残されていないので、今よりさらに練習に精を出すってのはナシな方向で」

「ちょっと待って、その質問になんの意味が……」

「意味なんかなくていいんですよ。単なる気分転換です。ほら、なんでもいいですから、インスピレーションのままに答えてください」

「そ、それじゃあ……ええと、ドーピング……」

「アハハ、ドーピングって、いや、それは先生的にはアリなんですか」 


 教師が口にするにはちょっとばかし不穏当な意見に、俺は思わず素で笑みがこぼれた。その反応に先生は、


「だ、だって、とっさに閃いたのがそれだったんだもの、仕方ないじゃない」


 と、ほのかに赤面して、可愛らしくそっぽを向く。気を悪くしてしまったみたいだが、深刻な顔をされるよりはよっぽどいい。とりあえず元の調子に戻ってくれたみたいでひと安心だ。


「しかし、ドーピングねぇ」


 ユニークな発想だが、素のエンジンに対してより多くの空気を加給するターボチャージャー自体がすでにドーピングみたいなものだ。加えて、本番のレース用ではあるが、通常のガソリンよりもオクタン価の高いレース用のガソリンすら俺たちはすでに使用してしまっていた。

 もうこれ以上ドーピングの余地なんてどこにも……いや、待てよ……。


「ねえ、どうしたのよ? 小林くんってば、急に黙り込んで」


 頭の奥に何かが引っかかっている。


 ドーピング……薬物投与……。


 そのイメージがもっともしっくりきそうなアイテムがたしか存在したはずだ。

 おぼろげなイメージを必死にすくい上げろ。そして、そいつをどう役立てるのか考えるんだ。


「そうだ……あれがあった。しかし、どう使う……」


 ここぞとばかりに、キャパシティのほとんどを車に割いた脳細胞をフル回転させる。不安そうに見つめる先生に気を払うことも忘れ、黙しての思案は深みへ。

 そうして、俺を心配した先生が、ちょうど声をかけようとしたタイミングで、俺は結論に達した。


「すいませんが、俺いきます! これ、つまらない話に付き合わせたお詫びです」

「えっ、ちょっと待ちなさいってば」


 俺は勢いよく席から立ち、財布から千円札を取り出してテーブルの上に置く。そして困惑する先生をその場に置いて、店の出入り口へと駆け出した。


「これだ! みつかったぞ。今度こそイケる!」


 新たなアイディアに確信を抱きながら、学校の駐輪場に置いてきた原付を取りに、急ぎ足で元来た道を引き返す。

 いつまでも足止めを食らってはいられないのだ。俺が目指す場所は、まだ遥か先にあるのだから。

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