6-3
仕様変更後の初走行から、一〇日以上が経過していた。
オールジャパン・ドラッグオープンの全国大会は、もう一週間後まで迫っている。
やるべきことはあらかたやった。あれから幾度もMR2のテストを繰り返し、セッティングは現時点ではベストの状態にある。
ただ、完全なフルパワーでの走行は本番の仙台までお預けになっていた。一般道の舗装ではフルパワーを受け止められないのだ。山さんと信によると、現地に着いてからさらにセッティングを煮詰めるつもりでいるらしい。
「さすがとしか云いようがないよな」
俺は自分の部屋のベッドに寝転がりながら、賞賛の言葉を独り口にした。本物のチューニングカーというのが、あれほどまでに素晴らしいとは想像もしていなかった。
……いや、あれはもうレーシングカーと云ったほうがいいか。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は体を起こして、ドアの脇にある本棚の前に立つ。背の低い本棚の真上、タイヤメーカーのロゴが入ったカレンダー。全国大会の開催日の日付が、赤マジックで丸く囲ってあった。
「我ながら、子供みたいな真似をしてやがる」と、鼻白みつつ、赤丸で囲った日付に手を伸ばしてみる。ずっと前まで記憶を辿っても、何かのイベントをこんなにも待ち焦がれたことはなかった。幼稚園の遠足のときも、小学校の社会科見学のときも、中高の修学旅行のときも、ここまでワクワクした気持ちを抱いたことはなかった。長くはない人生の中で、心の底から楽しいと思えたことの大半は、この一年に集中していた気がする。
「素晴らしき哉、我が人生、ってか」
そんな言葉をこぼしつつ、椅子に腰掛けようとした瞬間、――――――――――――――――――おかしなことに気づいた。暗幕に包まれたように、いきなり目の前が闇に閉ざされていた。
停電か?
しかし、それにしてはあまりに突然だ。
それよりも体の感覚がどことなくおかしい。足の裏が床の感触を捉えていない気がする。
突然の事態に困惑しているうちに、ややあって光が戻ってくる。
停電ではない。部屋の蛍光灯は灯ったままだった。
だが目に写るこの光景は……ああ、そうか。俺は床の上に横になっているのか。
自分が床に倒れ、一瞬意識を失っていたらしいことを察した。世界もまだ少しだけゆがんでいる。
「…………ッ!」
手をついて立ち上がろうとするが、思うよう力が入らない。生まれたての子鹿みたいに、ひどくふらついていた。それでも無理に体を起こそうとしたところで、ふいに足の力が抜け、滑って転ぶように体が宙を泳いだ。
何かに捕まろうと伸ばした手が、本棚の上の小物をなぎ倒し床に散らせる。俺は無様な格好で再び倒れ伏した。
「なんだってん……」
ぼやこうにも呂律が上手く回らなかった。とっさに、以前医者から受けた説明がよぎった。これは、脳腫瘍の発作的症状だ。
思考がまとまらない中、混乱する頭をどうにか落ち着かせようと、横向きになった部屋に目をこらしてみる。すぐ目と鼻の先には、本棚の上に飾ってあった小物類と古い写真立てがバラバラに散らばっていた。
しびれの残る手で、裏返った写真立てをひっくり返す。中に収められているのは、ずいぶんと昔に撮られた家族写真だ。まだ若い親父に物心がつく前の俺、そして生前のお袋が写っていた。
なぁ、お袋。このぶんじゃ、そう遠くないうちに会えそうだ。
四つ切りサイズに閉じ込められた柔和な笑顔を見つめながら、そんなことを考える。もしかしたら、このままということだってありえるかもしれない。なんにしろ、こうもはっきりとした症状が出たのははじめてだ。
「だけどよ……まだ少しだけ待っていてくれないかっ」
今度ははっきりと言葉が出た。心なしか手足にも力が戻ってきた気がする。
立て! 小林隆太。お前はまだ何もやり遂げてはいないだろうが!
自らに気合いを入れ、手足に意識を集める。
そうだ、こんなところでは終われない。俺のゴールラインはまだ先にあるんだ。
全身を叱咤して、指先一本一本の感触を確かめながら体を起こす。
もう少し、あともう少しですべてにカタがつく。1/4マイルのゴールラインをくぐるまで体が満足に動いてくれればそれでいい!
俺はしびれの抜けてきた二本の足で踏ん張り、よろめきながらも、どうにか自分のベッドまで歩いて仰向けに倒れ込んだ。そのままじっと回復を待ち、すべての感覚が戻るまでには数分間を要した。
「へへっ、まだまだ……」
口の端をつり上げながら、目だけを上に動かすと、白い輝きを放つ上弦の月が、カーテンの隙間から覗き込むように、静かに俺を見下ろしていた。
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