3-5

 まばらな人影、かすかに残る喧噪の余韻、空気に溶け込んでいく焼けたゴムとオイルの残り香。それはさながら、祭りのあとだった。

 陽の沈みかけた入場ゲート前の駐車場は、朝の賑やかさが嘘のように静けさに包まれている。

 一日を終え、走った本数はトータル五本。最初の走行で一二秒六を出したのを皮切りに徐々にタイムを伸ばし、最終的にベストタイムは四本目の走行で出した一二秒フラット。

 この仕様のMR2としてはなかなかのタイムで、山さんも感心していたほどだ。

 初陣となる大会でクラス三位。俺より上位のマシンはすべて車格が上だったことを考えると大健闘だ。

 そうして、表彰式を終え一通り帰り支度を済ませた俺たちは、帰路につく前にゲート脇の洗面所で顔を洗っていた。


「ったく、まさかあんなことになるとはよぉ……」


 俺の口からこぼれたぼやきは、どこか呪詛のような重苦しさを含んでいる。


「気にしなくたっていいじゃないか。いまさら恥ずかしがることでもないだろうし」


 どうでもいい風に云ってのける信を、じろりと睨みつけてやる。だが、信は気にする様子もなく、俺の視線を薄く笑って受け流し、「お先に」と残して、一足先に車へと戻っていった。

 三位入賞の喜びから一転、インタビューのあとに起こったちょっとした出来事が、俺をアンニュイな気持ちにさせていた。

 表彰式のあと、入賞者全員を表彰台に立たせての写真撮影を行ったのだが、いかんせん俺たちチームメンバー全員が表彰台に上がりきれるはずもなく、メンバーを代表する形で俺とカナの二人が身を寄せ合うように表彰台に上がることになったのだ。

 それだけならまだよかった。だけど、思ってもみなかったのが、ちょうどシャッターを切る瞬間、カナがとっさに俺の体に抱きついてきたことと、その写真が今日の大会の特集記事として来月発売の車雑誌に載るらしいということだ。


「はぁ、まいったな」


 こぼれるため息が一つ。洗面所の鏡にはげんなりした顔の俺が写り込んでいた。

 わざわざ二人で表彰台に上がり抱き合っている光景は、誰が見たってそういう関係の二人にしか見えないだろう。


「おい正樹、一応云っておくが……」


 雑誌が発売されても学校で見せびらかさないようお調子者に釘を刺しておく。しかし、


「いやだね。俺たちの栄光の第一歩なんだぜ、派手にアピールしなくてどうするんだよ」

「そこをなんとか」 


 クラス一の目立ちたがり屋を相手に、どうにか説得を試みる。事によっては学校公認カップルなんてこっぱずかしい称号をいただきかねないだけに、俺だって必死だ。

 そうして交渉の末、何か一つ云うことを聞いてやるという条件付きで、俺と正樹との間に協定が成立した。


「で、俺は正樹に何をすればいいんだ?」


 財布の中身に想いを馳せながら、正樹の要求を待つ。正樹は、わざとらしくうんうん唸って考える仕草をしたあと、一転して、いやに真面目に表情を引き締めた。


「一応云っておくが、おごってほしいなら、千五百円以内に収めてくれると助かる」

「ばか、ちげーよ。そういうのじゃなくてさ、お前にやってもらいたいことは……その……、もう、そろそろいいんじゃないか?」 


 正樹らしくない不明瞭な言葉だった。いつもずけずけとものを云うお調子者が口ごもっていた。


「もう、いいんじゃないか、って、いったい何がだよ?」


 俺は意図を察することができず、そのまま訊き返す。だが正樹は、


「すまん。変なことを云っちまった。ピンとこなかったのならそれでいい、忘れてくれ」


 目に馴染んだ人なつっこい顔で詫びると、それきりこの話を打ち切ってしまった。

 

******


 帰りの車内。俺は、夕焼けに染まった道路沿いの木々を窓ガラス越しに眺めながら、正樹が取り消した言葉の意図について考えていた。


(もう、そろそろいいんじゃないか?)


 あのとき、アイツは似合わない真面目な顔でそう云った。

 運転席に目をやる。正樹はどうやらだいぶ肩の力が抜けたようで、来たときとは打って変わって運転する姿には余裕が感じられた。


 ……そろそろ、か。


 いったい何がそろそろだというのか。疲労でぼんやりした頭で思案してみる。

 隣のシートでは、疲れたのか、カナが小さく寝息をたてていた。俺は小声で一言断りを入れ、体を痛くしないようにシートを少しだけ後ろに倒してやった。


「ああ、そういうことか」


 幼子のようにすやすやと眠るカナの寝顔を見てピンときた。正樹は、病気のことをカナにも明かすよう俺に促したのだ。

 仲間内でカナだけが俺の抱える事情をまだ知らない。いずれ伝えなければならないとわかっていながらも、忙しさにかまけて先送りにしていた。

 正樹も、信も、ヤマさんも。俺がどういう状況にあるかを知った上で、今という時間を共有してくれている。

 だけど、カナは違う。

 本当のことを何も知らず、あくまでも高校生活の最後を彩る青春の一ページとして計画に参加しているにすぎない。

 本音を云うと、別にそれでも良いと思っていた。すべてを明かすのは、俺のこだわりにカタがついてからでいいと。

 だけど、それで良いはずはないとも思っていた。かけがえのない仲間を欺いて――、


「んぅ……あれ……わたし、シート……」


 思案の最中、カナが薄目を開いた。表情は虚ろで、まだ半分夢見心地のようだ。


「シートなら俺が倒したよ。いいからそのまま寝てろ」

「うん……リュウちゃん、ありがと……」


 寝ぼけた口調。再び目を閉じたカナは、すぐにまた眠りの中へと戻っていった。


「ったく、幸せそうに眠りやがって」


 口をわずかに開いたままの寝姿に、思わず笑みがこぼれる。こうも無防備な寝顔を男に見られても気にならないのだろうか。


「それだけ信用されてるってことかな」


 だからこそ、俺はカナに本当のことを伝えられないのかもしれない。

 俺は嫌なのだ。嫌で嫌でたまらないのだ。

 この純朴でおっとりした少女を悲しませることが。日だまりのような笑顔が悲しみに染まることが。

 俺はカナの寝顔から顔を逸らし、再び窓の外へ視線を戻す。宮城から山形へ抜けたことを示す看板が、ちょうど目の前を流れていった。

 また明日からは、学校とガレージを往復する日々がはじまる。

 スタートのタイミングとシフトアップに神経を研ぎ澄ました非日常は過ぎ去り、向き合わなければならない現実が待ち受ける日常が戻ってくる。

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