幕間・『加奈子』1
「週末は暇か? 助手席が空いてるんだが」
リュウちゃんから、突然そんなことを訊かれたのは、記念すべき初レースから、ちょうど一ヶ月が経った六月のある日のことでした。
いまいち察しの悪いわたしは、どういう意味なのかすぐにはピンとこなかったのですが、それが週末のドライブの誘いだとわかると、二つ返事で喜んで首を縦に振らせていただきました。
仙台から戻って以降のリュウちゃんたちは、学校にいってるとき以外はガレージにずっと籠もりっぱなしでしたから、どこかにドライブにでもいって息抜きをするのはとても良い案だと思います。
ほら、お日様の光を浴びないと健康にもよくないって聞きますし。
でも、ひと月もガレージに籠もり続けただけあって、わたしたちの車はちょっと凄いことになってしまいました。
エンジンは信くんがインターネットのオークションでみつけてきた排気量が大きくしてあるものに載せ替えられちゃいましたし、タービンも今まで使ってたのより二回りも大きいのにチェンジです。
はじめて目にしたエンジンの載せ替え作業。
車体から降ろされたエンジンのなんとも形容しがたい無骨さ。息を飲むぐらい真剣な表情で作業に当たるみんな。何から何までが新鮮で、びっくりと凄いの連続でした。
「エンジンさんもタービンさんも本当にお疲れさま」
わたしは次の作業に没頭しはじめたみんなから離れ、役目を終えガレージのはじっこに置かれてしまった以前のエンジンとタービンに、そっとねぎらいの言葉を掛けてあげました。
今回外した部品の大半はまだまだ使えそうなのに、なんだかもったいないような気がしないでもありません。
「僕も隆太も、少しでも早いうちにフルチューンの車を知っておかないと」
信くんはそう云っていましたが、どこか腑に落ちないところがあります。
三人ともいやに急いでいるように見えるのです。せっかく楽しいレース活動をしているのですから、もう少しゆっくりでもいいと思うのに。
それから、お金の使い方も激しすぎる気がします。レースのために、みんなアルバイトをがんばってお金を貯めてきたのは知っていますが、それにしたって、もう相当な額を使ってしまってるはずです。
加えて、時折垣間見える思い出作りのレース活動という域を超えた真剣さ。
なんというか違和感。そう、違和感です。
うまく説明は出来ないのですけれど、計画が本格的に動き出して以来、ときどきわたしは、みんなとの間に見えない壁のようなものを感じるときがあります。
これが根っからの車好きなみんなと、そうじゃないわたしとの違いなのでしょうか。
「カナちゃんが好きなのはさぁ、車じゃなくてリュウだもんな」
いつだったか、そんなことを云って正樹くんはわたしをからかいました。でも激しく図星なので反論はできません。
わたしはリュウちゃんが好きです。
みんなにはとっくにもうバレバレでしょう。わたしって思ってることがすぐ態度に出ますから。
きっと、リュウちゃんにだって見抜かれてるはずです。なのにちっとも関係が進展しないのは、もしかしたらさっぱり脈ナシなのかもしれません。あるいは、リュウちゃんの目には女の子なんか写っていないのか。
わたしはリュウちゃんが好きだけど、リュウちゃんが好きなのは車やレース。
だとしたら、どうやら勝ち目はなさそう。
だって、車を触っているときのリュウちゃんは、誰が見たってわかるぐらい目の輝きが違っていますから。
「せめて、もうちょっと積極的にならないとだめかなあ……」
勝ち目のない戦いに想いを馳せながら憂鬱な息を吐くのは、もはやわたしにとっての日課みたいなものでした。
*****
週末。約束したドライブの日は、梅雨のシーズンの真っただ中とは思えないぐらいお天気に恵まれていました。
心なしか風があるおかげで、ジメジメした湿気も今日はなりを潜め、降り注ぐ陽ざしと相まってすっかり初夏の陽気です。
自宅の前にあるコンクリートの塀に寄りかかって腕時計に視線をおとすと、針は九時半を指す少し手前。
もうそろそろかな、と顔を上げたところで、大通りのほうからわかりやすい元気な排気音が聞こえてきました。
音のした方角を向くと、ピカピカの朱い車が大通りを曲がってくるのが見えます。やがて車は、ちょうどわたしの目の前に止まりました。
「よう、待ったか?」
「ううん、全然だよ。待ち合わせ時間ジャストだもん」
ドアが開いて、リュウちゃんが姿を現します。ここ数日見慣れた作業着姿ではなく、ラフな私服姿のリュウちゃんは久しぶりです。
「他の二人は、後から来るの?」
わたしはふと、信くんと正樹くんの姿が見えないことに気づき、素朴な疑問を投げかけました。
しかし、リュウちゃんは頬をポリポリかきながら、
「いや、今日ははじめから俺とカナの二人だけのつもりだったんだが」
「えっ、そ、そうだったの、わたしてっきりみんなでドライブにいくんだと思ってた」
なんという勘違いでしょう。でもこれじゃあまるでデートみたいなんじゃ……。意識した途端、胸の鼓動が速くなってきます。
リュウちゃんに促されて助手席に座ると、これまで気にしたことのなかったスポーツカーの車内の狭さ、つまりは運転席と助手席の距離の近さがやけに気になります。
「そう緊張するな、大丈夫だよ。慣らしを兼ねてのドライブだからそんなにトバさないって」
どうやら、リュウちゃんは、わたしが緊張している理由を勘違いしているみたいです。
……どうしよう。リュウちゃんと二人っきりでドライブだなんて。
期待と不安に揺れるわたしの胸の内をよそに、リュウちゃんは前よりも排気音の大きくなったMR2を大通りに向けて発進させました。
国道に出たわたしたちは、住んでいる街とは正反対の方向に車を走らせます。
特にこれといった理由はないのですが、どうせドライブするなら海が見たいと、わたしが提案したのです。
そうして、一時間ぐらい車を走らせているうちに、窓の隙間から入り込む風のなかに潮の匂いが濃くなってきました。
「海に来るのって、結構久しぶりかも」
わたしの何気ない呟きに、「ああ、俺もだ」と、ハンドルを握りながらリュウちゃんも言葉を返します。
もうこのころには、ついさっきまで感じていた胸のドキドキはすっかり収まっていました。
それというのも、今さら二人きりでドライブにいったぐらいで進展するような仲ならば、何も苦労はしないのです。
一人舞い上がってカチコチになっていた自分が滑稽に思えてしょうがないぐらい、リュウちゃんの態度はいつも通りでした。
ちょっとと云うか、かなりがっかりですけれど、今さらといえば今さらのことなのでしかたありません。
そういえば、エンジンを載せ替えたあとのMR2に乗ってみて印象的だったのが、部品を交換したせいで重くなったというクラッチに悪戦苦闘するリュウちゃんの姿です。
なんでも、クラッチの板の枚数を一枚から三枚まで増やしたのが原因だそうで、信号で止められた際の発進のときには何度かエンストしちゃったりもしていました。
だけど、それぐらいぎこちなくったって本当は何も不思議なことなんかないんです。だって、リュウちゃんが免許を取ってから、まだ半年も経っていないのですから。
「リュウちゃんって、やっぱり車の運転上手だよね」
「そうかぁ? 練習だけは必死にしてるつもりだから、少しは成果がでたのかな」
話題が車のことになると、リュウちゃんは途端に上機嫌になります。わたしが振る何気ない話題(ドラマの話とか、料理の話とか)にも律儀に付き合ってはくれるのですが、車の話のときは声の弾みが段違いです。
「中古で買ったわりに、このエンジンの出来は素晴らしいな。わかるか? 内部にも相当手が入ってるにも関わらず、アイドリング状態での回転数のばらつきがほとんどない」
リュウちゃんが回転計を指さして説明してくれますが、わたしには全然ピンときません。
だけど、よほど楽しいおもちゃをみつけた子供のように、目をキラキラ輝かせているリュウちゃんはとても素敵で、いつまでも見ていたいとさえ思えました。
「またセッティングで忙しくなりそうだが、こいつは本当に良いマシンになるぜ。なりそうじゃなくて、なるんだ。予感じゃなくて確信な」
とっておきの宝物を自慢する少年の眼差し。それは、初めての出会いの日から今も変わらずわたしの目の前にあります。
******
――わたしは小学校六年生のときにお父さんを病気で亡くし、お母さんの実家があるこの北鷹町に引っ越してきました。
あのころの記憶はどれもみんな灰色で、気持ちに折り合いをつけた今でも、思い出すと胸が締めつけられそうになります。
なんと云えばのでしょう。まるで、心臓の中心に埋めることのできない大きな穴が、ぼっかりと開いてしまったような心地だったのです。
引っ越し先の近所の皆さんや、転校先で知り合ったクラスのみんなは、そんなわたしを気づってかとても優しくしてくれたのですが、そうしてくれればくれたぶんだけ、埋めようのない大穴の存在がより強く感じられて、わたしは部屋や女子トイレの個室で一人涙を流していました。
あの日もそう、誰もいない放課後の図書室で、わたしは行き場をなくした感情を抱えたまま一人で泣いていたんです。
「っ……おと……ぅ……さん」
こぼれた嗚咽混じりのそれは、言葉というよりも呻きのようだったと思います。
どんなにその名を口にしたってお父さんが帰ってくるはずはないのに、わたしはせり上がってくる言葉を止めることができませんでした。
そうやって、わたしは図書室の机に突っ伏したまま泣いていて、ふいに誰かに肩を叩かれたのです。驚いて顔を上げると、そこには同い年ぐらいの見覚えのない男の子が立っていました。
「ええと、あのさ……。おれ、本を読んでたら、わからない言葉があって、ちょっと教えて欲しいんだけど」
男の子は、ちょっとぶっきらぼうな感じで目を逸らしがちに云うと、車がたくさん載ってる雑誌を机の上に広げました。
わたしは戸惑いながら男の子の指さした部分に目をやると、まったく馴染みのない横文字で書かれた単語がいくつも踊っています。突然のことなのもあって、なにがなんだかさっぱりわかりませんでした。
「えっと……、ごめんなさい。わたしじゃ、わからないかも」
「いや、こっちこそごめん」
少し気まずく、そしてぎこちなく、お互いに謝ってしまった二人。これが、わたしとリュウちゃんの出会いでした。
きっと、リュウちゃんは泣いているわたしを心配して声をかけてくれたんだと思います。
その後、なんとなく目についた単語について尋ねてみたのをきっかけに、リュウちゃんは車に関する色々な知識をわたしに披露しはじめました。
曲がった道をカーブではなくコーナーと呼ぶのがカッコイイだとか。ハンドルではなくステアリングであるだとか。
わざとらしいぐらい得意げにまくし立てていたのを覚えています。今になって思うと、なんでもいいから明るい方向へ話題を持っていきたかったのでしょう。
ただ、当たり前ですけれど、小学生の女の子にとってはわからないことだらけでした。
それなのにこれほど深く記憶に残っているのは、車について熱く語る男の子の姿が、眩しいぐらい生き生きしていたからに他なりません。
「おれさ、将来は絶対に車でレースをやるんだ!」
まだ小学生なのにも関わらず、何年も先の夢をさも現実のように語るその姿は、鬱屈した想いを抱え泣いていたわたしには、お日さまみたいに輝いて見えました。
そうして、お話をしているうちに、あとからまた別の二人の男の子が図書室にやってきて、気がつくとわたしは、リュウちゃんたちの仲間に加えられていました。
校庭の運動場でも公園でもなく、町外れの廃車置き場を遊び場にする、隣のクラスのちょっと変わった男の子たち。
彼らとの出会いが、わたしを暗闇から救ってくれたのだと思います。
そして、すべてのきっかけを作ってくれた、輝く目をした男の子は、今もわたしのすぐそばに――。
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