幕間・『加奈子』2

「なんだ、急にぼーっとして。もしかして眠くなったのか?」

「ううん、そうじゃなくてね。少し、昔のことを思い出してたの」


 少し潤んでしまった瞳に気づかれないよう、わたしは流れる海岸線の風景に顔を向けました。 


「昔ねぇ……。過去もいいが、未来も見ないとダメだぜ。人生ってコースは逆走できるようには出来てないんだからさ」

「ふふ、リュウちゃんらしいね。だけど、わたしは過去も大切にしたいの。みんなとの思い出は、かけがえのない宝物だと思うから」


 そう云いながら、わたしは心の中で、あの日の男の子にお礼を述べました。

 ありがとう、リュウちゃん。あなたのおかげでわたしは、心に開いていた穴を楽しい思い出で埋めることが出来ました。と、云い尽くせない感謝の気持ちを込めて。


「海、綺麗だね。どこまでも青くて、泳いだら気持ちよさそう」

「おいおい、まだ六月だぜ。気が早いって」

「じゃあ、夏になったらまた来ようよ」


 車内に入り込んでくる潮風は肌に心地よく、そう遠くない夏の到来を告げているようです。

 春が過ぎ去って、代わりに夏がきて。その次は秋、冬、そしてまた春が巡ってくる。

 わたしたちの楽しい思い出は、きっとこれからも積み重なっていくんだ――。


「あのね、わたし毎日がすっごく楽しい」

「周りはむさ苦しい男ばっか、話題といえば車のことばっかでもか?」

「うんっ!」

「ハハ、云うねぇ。そうだな、あの油臭いガレージにだって青春は詰まってるもんな」


 ――青春。


 ありふれた言葉ですが、リュウちゃんの口から出たそれは、どこか特別な響きが感じられました。

 1/4マイルの距離を、わずか一秒でも速く駆け抜けることにすべてを賭けるリュウちゃんの青春。

 速く。少しでも速くゴールラインをくぐり抜けることだけ考え、アクセルペダルを踏み続ける青春。

 おこがましいかもしれませんが、わたしはそのゴールラインの先に立っていたいと思ったんです。リュウちゃんがゴールする姿を、一番近くで見られたらな、と。

 だから、わたしは決心を固めました。ずっと胸の内に秘めていた想いを、今日こそはっきり伝えるんだというを決心を。




 わたしたちがドライブを終えて北鷹町に戻ってきたころには、時刻は夕方の六時を少しすぎていました。

 沈む夕日と同じオレンジ色に染まった車内。黄昏の街並みを流し見ながら、わたしは想いを告げるタイミングを探ります。


 ……やっぱり、別れ際が一番かなぁ。


 別に、その場で答えをもらおうとは思っていません。ただこの機会に、わたしがリュウちゃんのことをどう思っているのか、はっきり伝えておきたかったのです。

 なのに情けないわたしは、堂々とレースに臨んだリュウちゃんみたくはなれません。さっきから手にはたくさん汗をかいてますし、夕焼けが上手くごまかしてくれていますが、緊張して顔が真っ赤になっているのが自分でもよくわかります。

 隣町へと真っ直ぐ続いているバイパスの途中でウィンカーを点け、左へ。もう少し進んで国道を右に逸れれば、わたしたちの家がある市街地に入ります。

 しかし、なぜかリュウちゃんは、市街地とは正反対の方向に車を向けました。


「もう少しだけ俺に付き合ってくれないか、カナに伝えたいことがあるんだ」


 わたしが訊ねるよりも先に、リュウちゃんがこちらを見ずに云います。声色が、どことなく硬さを含んでいました。

 伝えたいことってなんだろう? まさかリュウちゃんがわたしに告白とか……。


 アハハ、そんな、まさかね。あるわけないよね。うん、そんなわけないってば。


 都合の良い妄想を必死に打ち消そうとはしますが、一度頭に浮かんだそれは、風船みたいにどんどん膨らんでいきます。


 どどど、どうしよう。まさかリュウちゃんのほうからだなんて、わたしなんの覚悟も出来てないよ……。


 内心パニック状態に陥るわたしをよそに、MR2は市街地の反対側にある街外れの高台へと辿り着きました。

 その場所はちょっとした展望台みたくなっていて、駐車場の端に車を止めれば、ちょど車内から街並みが見渡せます。


「悪いな、時間を取らせて」

「ぜぜぜ、全然問題ないからっ! ほら、わたしなんか家に帰ったって何もすることないし!」


 動揺のせいか不自然なぐらい早口になってしまいます。

 落ち着け。落ち着きなさいわたし。もともと自分から云い出すつもりだったんだし、向こうから云われたって答えは決まってるんだから。

 スーハー、スーハーと深呼吸を大きく二つして息を整えます。そんなわたしの狼狽ぶりを、リュウちゃんは薄く微笑みながら眺めていました。

 そして、何か云い出すタイミングを計るかのように、いったん会話が途切れました。

 わたしは、リュウちゃんと目を合わせることができずに、正面のフロントガラスに視線を釘付けにします。

 夕焼けに染まった街並みは真っ赤っか。きっと、わたしの顔も同じでしょう。

 横目でチラリとリュウちゃんの様子をうかがいます。リュウちゃんは、何か言葉を探すように、あるいはどこか遠くに思いを馳せるように、わたしでも外の景色でもなく、じっと天井を見つめていました。こんな感情の読めない表情のリュウちゃんを見るのははじめてかもしれません。


「悪いが、落ち着いて聞いてくれ」


 そう断りを入れ、一拍置いて、リュウちゃんは静かに、とても静かに話しはじめました。


「俺な……実は病気なんだ――」


 そしてはじまったリュウちゃんのお話は、わたしにとって何もかもが突然で、想像の及ばない内容でした。

 まったく理解が追いつかず、「あはは、ちょっと意味がわからないかも……」などと、とぼけたような笑みを返すのがやっとだったのです。

 そんなわたしに、リュウちゃんは落ち着いた口調で順を追ってすべてを説明してくれました。

 悪性グリオーマという脳腫瘍によって、余命が一年しか保証されていないこと。

 残された時間は、自らの夢の実現に費やすのだということ。

 わたしを除く仲間のみんなはすでに事情を知っていること。


「……聞きたくない……。そんなの聞きたくないっ!」


 困惑。混乱。拒絶。

 気がついたら、わたしは声を荒げていました。

 ついさっきまで火照っていたのが嘘のように、体中から血の気が引いていくのがわかりました。

 心が理解を拒むのとは裏腹に、今まで他のみんなとの間に感じていた隔たりのような違和感の正体や、リュウちゃんたちの度を超した真剣さの理由が、パズルが解けるように一気に明らかになっていくのです。


「ぃ……やだ……」


 現実から逃れたくて吐き出した言葉は、いつかのように呻きに似ていました。

 わたしの脳裏にお父さんが亡くなったときの記憶がよみがえります。

 病院のベッドで管に繋がれたまま、なんの言葉も遺すことなく眠るように息を引き取ったお父さん。

 だんだんとフラットになっていく心電図のライン。徐々に温度をなくしていく握った手。


「いやだ……ぃやだよぅ……」


 気がつくとわたしは、リュウちゃんの隣で声をあげて泣きじゃくっていました。

 次から次へと涙がこぼれて止まりません。顔もすっかりぐしゃぐしゃでした。


「……ごめん」


 ただ一言。感情を押し殺した低い声で、リュウちゃんはわたしに云いました。


「謝ったりなんてしないでっ!」


 本当に泣きたいのは、理不尽に憤らなければいけないのはリュウちゃんのはずなのに。だけど、それをわかっていても、わたしは溢れる涙を押しとどめることが出来ません。

 底の見えない真っ暗な穴。埋まったはずと思っていた心の中の空虚な穴が、こぼした涙によって浸食され、じわりじわりと面積を広げていきます。

 そのとき、ふいにわたしの携帯電話が鳴りました。

 液晶画面の表示を見ると、自宅からです。きっとお母さんか誰かが、わたしの帰りが遅いのを心配したのでしょう。だけどわたしには、着信ボタンを押す気力はありませんでした。

 着信音に設定してある流行歌の明るいメロディーが、わたしの弱々しい嗚咽をかき消します。


『――明日も明後日もそのずっと先も、変わらぬ毎日が続きますように』


 そんな、何気ない日常の幸せを歌ったポップスでした。

 わたしは嗚咽を噛みしめ、目元を拭いながら、絞り出すように、


「ごめん……なさい……。本当につらいのは、リュウちゃんなのに……」


 これだけ云うのがやっとでした。

 ああ、そういえば、わたしたちはまた「ごめん」に対して「ごめん」を返してしまっている。お互いに謝っている。

 ふいに蘇ってきた記憶が懐かしくて悲しくて、わたしはまた泣いてしまいました。

 あの日、わたしを寂しさから救ってくれた男の子が大変なことになっているというのに、何もしてあげられない自分の無力さがたまらなく悔しくて、静かに泣きました。

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