2-3

 まず動いたのは正樹。バネ仕掛けのように勢いよく部屋を飛び出し、入り口のシャッターを潜って外へと駆け出していく。俺たちも急いであとに続いた。

 日が照らす屋外へと出た俺たちは、揃って音の聞こえた方角へ目をやった。一台の赤い車が国道を左折してこちらに向かってくるのが見えた。


「来たな」


 思わず呟きがこぼれる。

 ついにやって来た。俺をゴールラインの向こう側へと連れて行ってくれる駿馬が。

 純正色とはまた違う色鮮やかな朱を纏ったその車は、ガレージの敷地内に入ると、立ちすくむ俺たちに向かってこれ見よがしにエンジンを吹かしてみせた。

 野っぱらに響き渡る直列四気筒エンジンの排気音。

 決して上品とは言えないが、力強さを感じる重低音が耳に心地良い。

 朱い車は俺たちの視線を集めながらガレージの正面に停まった。ドアが開き、中からガタイの良いブルーのツナギ姿がゆったりと姿を現す。


「よう、お待たせ」


 車から降りたツナギ姿のその人は、俺たちの期待一杯な眼差しを受け止めるかのように、気どった仕草で腕を広げた。


「待ってたぜ山さん!」


 正樹が喜色に満ちた声を上げる。

 山さんこと山崎哲也さん。こと車に関してなら、この人以上に頼りになる人を俺たちは知らない。

 今でこそ地元の農機具店の若社長に落ち着いてはいるが、かつては全国屈指のプライベートチューナーとして、ドラッグレースの世界ではずいぶんと名を知られた存在だったらしい。


「悪いな、待たせちまったみたいで。ちょいと陸運のほうが混んでてよ」

「いえ、そうでもないです。俺たちが早く来すぎただけですから」


 どうやら、山さんは陸運支局で車検を取得してから直でガレージに来てくれたらしい。俺は興奮を抑えながら、エンジンを停止したばかりの朱いスポーツカーのボディに視線を落とした。

 まず印象的なのがやたらに眩しい真紅のボディカラーと、今時の車じゃまず見かけなくなったリトラクタブル式と呼ばれる開閉式のヘッドライトだ。

 次いで目を惹くのが、これ以上ないほど急角度に寝ているフロントガラスと低い屋根、そして通常では有り得ないぐらい低いボンネット。

 わかる人間が見れば、この車がフロントにエンジンを積んでいないことは一目瞭然だろう。


 ――トヨタ・SW20型MR2。


 この平べったい車の名前だ。エンジンを運転席の後ろ――車体の中央に搭載するMR(ミッドエンジン・リヤドライブ)という駆動方式を採用した、一風変わったスポーツカー。


「どうだい、ほれぼれするぐらいカッコイイだろ?」


 山さんは自慢げに云って、俺の肩を上機嫌にバシバシ叩く。

 その通り、俺は見惚れていた。春の陽光を浴びて輝く朱い車体に。だが、ただ単にスタイリングの良さに惹かれたわけではない。


「ええ、ちょっと感動してますね。このマシンに乗るっていうのは、俺にとって憧れでしたから」

「なるほど、憧れね。今でも覚えてるぜ、もう十年近く前か、まだガキンチョだったお前が、このガレージに飛び込んできた日のことを。なんたって、いきなり、これなんていう車なんですか!? だもんな」


 山さんは愉快そうに思い出話をはじめた。それは懐かしいけれど、まだセピア色に染まってなんかいない。今でも鮮やかな色彩を伴って思い出せる特別な思い出。


***** 


 あれは、俺がまだランドセルを背負ったガキンチョだったころ――。

 五月連休の中日。暇を持てあました俺は、どこへ行くとでもなく、ただ漠然と山の向こう目指して自転車を走らせていた。

 坂を一つ越え、二つ越え。橋を一つ越え、二つ越え。気がつけば、畑と農場ばかりが広がる開けた景色の中に俺はいた。

 そして、すっかり上がってしまった息を整えようと、ペダルをこぐのを止めた俺の目に、その光景は飛び込んできた。

 山道を繋ぐ直線道路の遙か先から、息を飲むほどの猛スピードで駆けてくる一台の赤い車。

 特に衝撃的だったのが、生まれてこのかた耳にしたこともないような、怪獣の咆吼のようなエンジン音だった。

 瞬く間に通り過ぎ去っていったその車のインパクトに、俺は一瞬で惹きつけられてしまった。

 慌てて後を追おうと来た道を引き返したものの、当然ながら自転車が車に追いつけるはずもなく、朱くて平べったい派手な車は圧倒的なインパクトと勇ましい音の木霊だけを残して道の先へ消えていった。

 はっきりとわかる。俺が車を好きになったのは、間違いなくあの瞬間だった、と。

 そしてその後、目標を見失って、がっかりしながら帰路についた俺は、たまたま帰り道の途中で、このガレージとそこへ入っていくMR2の姿をみつけ、山さんとの運命的な出会いを果たすことになったわけだ。


*****


「神の巡り合わせだと思ってますよ。あのとき、このMR2と山さんに出会わなかったら、まったく別の人生を歩んでた気がしないでもないです」

「ははっ、そうかい。そこまで云われるとさすがにむず痒いがな。それはともかく、しっかりやれよ。なんたって俺の愛機と秘密基地をタダで貸してやるんだからな」

「でもさ、山さん。エンジンから何から、昔の仕様とは全然違うんでしょ?」


 横から入ってきた正樹の指摘に、山さんは「まぁな」と頭をかいた。

 たしかに、正樹の云うとおりだった。かつて俺が目にしたこのMR2は、カラーリングこそ同じ朱だったものの、ステッカーやら何やらでもっと派手な外見をしていた。

 エンジンもそうだ。もっと猛々しい、いかにもチューニングカー然とした音を発していたのをよく覚えている。


「仕方ねえだろ。昔使ってたパーツのほとんどは、欲しい人間にあげちまったんだから。でもボディだけは当時のまんまだぜ。見てみろや、この見事な補強を」


 そう云って山さんは、車内に張り巡らされたジャングルジムさながらのロールケージを自慢げに見せつける。

 たとえ付いているパーツが昔とは全然違っても、マシンの本体であるボディの造り込みだけは相当なレベルにあるということか。

 ただ、今の今まで、俺たちには一つだけどうしても解せないことがあった。なぜ山さんは、ここまで作り込んだマシンを降りてしまったのかということだ。

 これまでも、そのことについて何度か尋ねてみたけれど、その度に山さんは答えを適当にはぐらかすばかりで、本当のところがどうなのかはよくわかっていない。

 本人いわく、あくまでも休止期間とのことだが、だったら、せっかく作り上げたマシンを車体だけ残してドンガラにする必要はなかったはずだ。

 ひょっとして、山さんのはもうとっくに車への情熱を失ってしまったのだろうか?

 この疑念は、俺だけでなく他のみんなの中にもあるはずだ。

 しかし、勝手知ったる口調でマシンの仕様についての説明をはじめた山さんの姿からは、その胸の内を読み取ることは出来なかった。


「エンジンのほうは結局どうなったんですか? 適当なエンジンを載せたと正樹から聞きましたけど」

「おう、ちょうどオークションで良いのを見つけてな。Ⅰ型だけど程度は良いぜ」


 MR2に搭載される3S―GTEエンジンは全部でⅤ型まであって、Ⅰ型は純正で225馬力を発揮する。本音としては、内部部品が強化され240馬力以上を発揮するⅢ型以降のエンジンが欲しかったのだが、山さんからのサービスだったことを考えると、あまり贅沢は云えない。


「あの、何から何まで、本当にありがとうございます!」


 一通りの説明が終わるなり、カナがぺこりと深く頭を下げた。俺たちもハッとしてそれに倣う。

 マシンの提供、ガレージの設備にと、ここまで山さんにはずいぶんと世話を焼いてもらっていた。頭ぐらい下げなければバチが当たる。

 揃ってお辞儀をする俺たちに、山さんは照れくさそうに「いいって、いいって」と手をひらひらさせていたが、これはけじめみたいなものだ。


「ったく、律儀に頭なんか下げなくたって、本当にいいんだよ。出来ることなら、置物にしとくよりも走らせてやったほうがマシンだって嬉しいにきまってるんだからよ」


 山さんはどこか遠くを見つめるように云った。


「そう……ですか。なら、お言葉に甘えてマジで好きに弄くらせてもらいますけど」

「へっへへ、もしかしたら山さんが乗ってた時よりも速いマシンが出来上がるかもしれないけど、くやしがらないでくださいよぉ」


 減らず口を叩く正樹に、「コノヤロウ」と山さんはぶっそうに笑った。


「ああ、そういえば隆太、ちょっといいか?」


 ふと、山さんが、俺の耳もとへ顔を近づけてきた。なんだろうと首をかしげる俺に、小声で囁く。


「ところでおまえ、体は大丈夫なのか?」


 俺の体のことについて、山さんには昨日電話であらかた説明してあった。しかし一見健康そうな本人を目の前にして、訊ねすにはいられなかったのだろう。

 俺は努めてさりげなく、「まあ、なるようにしかならんみたいです」とだけ苦笑を返した。


「そうか、わかった……」


 山さんは言葉少なにうなずき、それ以上は何も訊かなかった。


「ねぇ、二人とも何か内緒の相談?」


 そんな俺たちを、カナが不思議そうに覗きこむ。


「いいや、加奈子ちゃんが気にするようなことじゃねえよ。おう、そうだお前ら。この際だからチーム名決めろ。レースにエントリーするのに、自動車愛好会なんてしみったれた名前はさすがにナシだぜ」

「あっ、それいいですね。わたしも賛成ですっ!」


 俺は、強引とも取れる話題転換に少し戸惑いながらも、たしかにそれもそうだと、考えを巡らしてみる。

 これまで、ずっと仲間同士集まって行動してきたのに、チーム名について話し合ったことはあまりなかった。


「で、チーム名だが。誰か、良い案はあるか?」


 俺は全員の顔をグルリと見渡す。


「はーい、俺に良い案があるぜ!」


 いの一番に手を挙げたのは正樹だ。


「ハッピー☆ブライダル! リュウ&カナってのは……」

「即却下だ却下っ! おまえなぁ、モンキーレンチで殴るぞ! ったく、信ものんきに笑いやがって。それに山さんまで……」


 ひどいセンスに、俺は思わず手で顔を覆いたくなった。そんな俺の気も知らずに、正樹はまたも元気よく手を挙げる。


「へへっ、すまんすまん、今度は真面目に云うからよ。それでだ、昔観た映画のタイトルからなんだが、“ライトスタッフ”ってのはどうだ?」


 聞き覚えのある映画のタイトルだった。

 俺もDVDで観た覚えがある。音速の壁に挑んだ飛行機パイロットとアメリカ初の有人宇宙飛行に挑んだ宇宙飛行士たちの姿をドキュメンタリー風味に描いていて、果てしなき夢、天空へのロマン、そして挑戦。そんな、冒険心溢れる要素がぎっしり詰まった作品だ。


「なんだよ、悪くないじゃないか」


 映画の中の登場人物たちそうであったように、俺たちもまた一介の学生にとってはずいぶんと壮大な目標に挑もうとしている。正樹の発案にしては、悪くないネーミングチョイスだ。


「となると、このMR2はさながらチャック・イエーガー号ってところかな」


 信も映画の内容を知っているようで、まんざらではないようだ。しかし、好意的な反応とは裏腹に、信は首を横に振った。


「うーん、僕はそのチーム名には反対かな。だってさ、あの映画のラストを思い出してみると、あまり縁起がよくないよ」

「映画のラスト?」


 あの映画の終わりはたしか……ああ、そうか、なるほど。

 記憶を辿ってみて納得した。あの映画は、高高度記録挑戦飛行に挑んだ主人公のチャック・イエーガーが墜落して終わるのだ。そう考えてみると、信の云うようにあまり縁起の良いネーミングではない。


「ちぇっ、だめかぁ。んじゃ、俺たちが住む北鷹町から取って、ノース・ファルコンってのはどうよ?」

「うーん、それだと安直な気がするなぁ」


 頭を悩ませる仲間たちを横目に、俺もまたチーム名について深く考えてみる。

 高みへの挑戦。すべての力を出し切る。充実した最高の人生。

 頭の中にインプットされた様々な言葉をミキサーのごとくグルグルと回し、当てずっぽうに検索をかけて、やがて俺は一つの言葉に行き当たった。


「……ステイゴールドってのはどうだろう?」

「おっ、なんか響きはカッコイイな。んで、どういう意味よ?」

「色々な訳があるらしくてな。俺が聞いたのだと、“いつまでも輝き続けるもの”“とか純粋な輝き”とか、そういう意味合いの言葉らしい」


 輝き。俺の命、一生を凝縮したような眩いばかりの輝き。


「うん、それいいかも。なんだか青春の輝きって感じもするし」


 俺の案にカナが賛同する。他のみんなも同じくうなずいてくれた。

 だが、言葉に含まれた強い決意を感じ取ったのだろう。明るい表情のカナとは対照的に、正樹も信も山さんも、俺に真剣な眼差しを向けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る