2-4

 四月中旬。新学期がはじまって数日が経ったその日。

 俺は六限目の終了を告げる鐘が鳴るのを、今か今かと待ち焦がれていた。

 黒板の上にかけられた壁時計の秒針が、たった半周するのを待つだけなのに、それが今日に限っては酷くゆっくりに思えてしょうがない。

 はやる気持ちを抑えながら、まるで永遠のような三十秒を耐え抜く。そして俺は、鐘が鳴ると同時に、チャイムを最後まで聞き終えることなく、飛び跳ねるように席を立った。


「よっしゃ、いくぞリュウ!」


 後ろの席から正樹の声。どうやら、気持ちは同じらしい。


「ちょっと二人とも、帰りのホームルームまだだよぉー!」


 カナの制止をまったく耳に入れず、突然立ち上がった俺たちに目を丸くする担任教師を尻目に、俺と正樹は二人揃って勢いよく教室を飛び出した。

 廊下に出ると、同じタイミングで隣の教室のドアが開く。姿を見せたのは信だった。


「なんだ、真面目なお前にしちゃ珍しい」

「たまにはいいだろ。僕だって、二人と考えてることは同じなんだから」


 そう云って、俺たちは車バカ同士ニヤニヤと笑い合い、示し合わせるように目線を交わす。目指す場所も、教室を飛び出した目的も同じだった。


*****


 学校の駐輪場から、原付をスピードメーターの表示いっぱいまですっ飛ばして向かった先は、お馴染みのガレージだ。

 四月の中旬ともなると、ほんの一ヶ月前まで周囲の田んぼを埋め尽くしていた積雪は跡形もなく消えてしまっていた。田植えの時期もそろそろで、遠くには田んぼの土を耕すトラクターの姿も見える。


「ねえ、つまらないことで免停とかなったら洒落にならないから、原付とはいえ速

度違反にだけは本当に気をつけたほうがいいよ」


 わずかに遅れて到着した信が、ヘルメットを脱ぎながら俺と正樹に釘を刺す。

 ほんの一日前、俺はついに車の運転免許を取得していた。これでようやくMR2を公道で走らせることができる。


「わかった、これからは安全運転を心がける」

「そうしてくれると助かるよ。メインドライバーが免停で降板なんてつまらないオチはゴメンだね」


 話しながら、俺はシャッターを開け放つ。ガレージの真ん中では、これ以上ないほどピカピカに磨かれたMR2が、出発の瞬間を待ちわびるように車体の先端を外へ向けていた。

 MR2が俺たちのもとへ届いてからというもの、俺たちは暇をみつけてはこれでもかというぐらいにボディを磨き込んでいた。そのおかげか、年式が平成一ケタの車とはとても思えないぐらいボディの表面は艶々と光沢を放っていた。


「いつ見ても素晴らしい輝きだねぇ。なんたって、このオレ様がポリッシャーと艶出しワックスで徹底的に磨きに磨いてやったからな。ワハハ」

「こらバカ、わかったから頬ずりは止めろよ」

「まぁまぁ、勘弁してあげなよ。このMR2はいわば僕たちみんなの愛車なんだからさ。というわけで、正樹に一仕事だ」


 信が正樹に何かを投げる。手のひらに収まる大きさのそれは、MR2のキーだった。


「へへっ、リュウじゃなく俺がやっていいのかよ。そんじゃあ、遠慮なく……」


 正樹は慎重な手つきでMR2のドアを開け、シリンダーにキーを差し込む。俺は固唾を飲んで見守った。


「へへ、いくぜ」


 正樹が手首をゆっくり右に捻った。キュルキュルというセルモーターの音に続いて響き渡るのは、四気筒エンジン独特の重低音だ。

 エンジンに火が入ると同時に、屋内には排気ガスの刺激的な匂いが漂いはじめる。排気音は振動となってガレージの窓ガラスをビリビリと震わせた。

 正樹も信も喜びを隠しきれない面持ちで、その光景を見守っていた。きっと俺も似たような顔をしているのだろう。この状況で湧き上がる感動を抑えることなんて、俺たちに出来るはずがないのだから。


「す、すごい! エンジンがかかってる……」


 振り向くと、遅れてやってきたカナが驚きを露わに突っ立っていた。


「よう、遅かったな」

「遅かったじゃないよぉ。リュウちゃんも正樹くんも、二人ともホームルーム前に帰っちゃって、酒井先生怒ってたよ」


 浮かれきって上機嫌な俺たちに、カナは頬を膨らませて、この春からクラスの担任になったばかりの女性教師の名前を口にする。


「あっちゃー、酒井先生を怒らせちったか。だけどまあいいか。あの人、怒った顔もチャーミングだしなぁ」

「もう! 正樹くんったら、そういう問題じゃないの。とにかく、今日は二人ともお家のお手伝いがあるみたいなんです、って言い訳しておいたから。リュウちゃんも正樹くんも今度からはホームルームが終わるまでは我慢しないとダメだよ」

「へいへい、っと」


 おどけたように首をすくめる正樹の横では、同じくホームルームをすっぽかした信が苦笑いしていた。


「カナ、すまなかったな。じゃあ、せめてものお詫びだ。……乗るかい?」


 俺は、立てた親指でMR2を指し示す。カナは、一瞬ポカンとしていたが、やがて意味を悟ったのか、弾けた表情で「うんっ」と元気よくうなずいた。




 俺は運転席のドアを開け、シートに腰を下ろす。レース用のフルバケットシートは少々窮屈だが、だからこそ確実に体をホールドしてくれる。

 その包み込まれる感触に慣れないからか、助手席のカナは、少し緊張した面持ちでバケットシートに収まっていた


「そう緊張するなよ。テストコースに着くまではそんなに飛ばさないから」

「う、うん、お手柔らかに」


 それにしても、何から何まで新鮮だ。バケットシートもそうだが、座席二つ分しかない室内空間のタイトさは教習所で運転した4ドアセダンとは大違いだ。

 後ろを振り返れば、すぐ目の前にリアウィンドがある。そして背中でダイレクトに感じるのは四気筒エンジンの振動と音。この感覚はMRでなければ味わえないだろう。


「ふふっ、リュウちゃんなんだか嬉しそう」

「ん、俺そんな顔してるか?」


 指摘されて、顔の表面に手を当ててみる。知らないうちに口もとが緩んでいたようだ。それも仕方ないだろう。事実、俺は嬉しいのだから。


「では、出発進行と行きますか」


 ややペダルの重い強化クラッチをそろそろと繋ぎ、MR2をゆっくり前に進める。そして、さらなる新鮮さを味わうために、ガレージ前の農道を抜け、国道へと乗り出した。


*****


 国道に出て、市街地とは反対の山道に向けてMR2を走らせる。

 全高の低いスポーツカー特有の目線の低さは本当に新鮮だった。見慣れたはずの景色が、いつもとまったく違って写る。

 途中、国道を外れて農場や牧場が周囲に広がる農免道路に入る。

 この辺も今年は雪解けが早いようで、青々とした草原がフロントウインドウ越しの視界いっぱいに広がっていた。

 そのまま数km走ったところで、すでに閉鎖された養鶏場の門の前に辿り着く。俺は、あらかじめ預かっていた鍵で重い鉄製の門を開け、MR2を敷地の中へ。そして、敷地内にある駐車場通り抜けた先に、目的の場所はあった。

 距離は、ざっと2kmあるかどうかだろう。敷地内の草原を貫くように、アスファルトで舗装された長い直線道路が走っていた。車線を区切る白線こそ引かれていないものの、道幅も二車線の道路と同じくらいはある。


「いつきても、ここは空気が凄く澄んでるよね」


 助手席を降りたカナが、青空の下で大きく伸びをする。俺もマシンを降り、ぐるりと周囲を見渡した。

 広大な草原と直線道路。そして、ここが元は養鶏場であったことを知らせる鶏舎の跡地だけが、広々とした景色の中に存在している。

 人の気配というものがまったく感じられない。聞こえてくるのは、空を悠々と舞うトンビの鳴き声ぐらいで、声を張り上げればやまびこでも返ってきそうな雰囲気だ。


「こういうなーんにもない大自然って、わたしは好きだな」

「何もないからこそ、俺たちにとっては好都合だ」


 この開けた場所は、俺たちの――もとはといえば山さんの秘密のテストコースだった。

 元あった養鶏場のオーナーが山さんの知り合いで、なおかつ還暦を過ぎてもスカイラインGTRを乗り回すような大の車道楽者ということもあり、すでに閉鎖したこの施設内の直線道路をテストコースとして快く提供してくれたのだそうだ。

 法律上私有地に当たり、通っている道路はすべて私道ということになる。だから制限速度なんてものは存在しない。加えて、周囲が山と草原ばかりなおかげで、騒音に苦情を云ってくる人間もおらず、テストコースにはうってつけの場所だった。


「……にしても、あいつら遅えな」

「ふふ、違うよ。リュウちゃんが早く来すぎたんだよ」


 云われればそうかもしれない。ここに来るまで、カナが「いいよ」と許可したのもあって、ついついアクセルを余計に踏み込んでしまった。原付で俺たちの後ろをトコトコとついてきた正樹たちなんか、あっという間に振り切ってしまったことだろう。


「ここに来るまででわかったが、このMR2、マフラーとエアクリーナー以外ノーマルのわりにはなかなかパワフルだ。Ⅰ型のエンジンはⅢ型以降にピークパワーで劣る分、低回転のトルク感では勝ると聞いていたがまさにその通りらしい。一般道での扱いやすさは褒めていいレベルだ」


 強化クラッチをあらかじめ組んであると山さんから聞かされたときは身構えてしまったが、実際に乗ってみればクラッチペダルの重さと繋がりのシビアさこそ若干感じたものの、低回転の力強さも手伝ってか、そこまで乗りづらくはなかった。


「結構トバしたわりには、カナはあんまり怖がってなかったな」

「うん。楽しいとは感じたけど、あまり怖いとは感じなかったかな。きっと運転してたのがリュウちゃんだからだね」


 歯の浮きそうなお世辞を、カナはニコリと微笑んで自然に云った。

 車好きというわけでもないのに、スポーツカーの加速を楽しいと云える辺り、これでなかなか肝が太い。

 そうやって話をしているうちに、


「あっ、二人が来たみたいだよ」


 門のほうから原付の排気音が連なって聞こえてきた。

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