2-5

「ふぅ、ようやく着いたぜ。こんにゃろ、人を置いてさっさと行っちまいやがってよぉ」

「相手が2リッターターボじゃ、原付でついていくのは無理だって」

やっとこさ追いついて、むくれたふりをする正樹と信に、俺は悪びれずに云った。

「ご苦労だったな二人とも、カナがOKしてくれたもんで、ついアクセルを踏んじまった」

「それで、実際乗ってみた感じはどうだったの?」

「ああ、ほぼノーマルのわりにはずいぶんと良かったよ。エンジンもパワフルだし、足回りも悪くなかった。あれ、サスは何が入ってるんだ?」

「山さんが言うには、バネはノーマルだけど、ショックは純正オプションのビルシュタインが入ってるらしい。特にドラッグレースとはかなり相性が良いとの話だね」


 ビルシュタインというのはドイツの一流サスペンションメーカーだ。扱いやすさと高性能さを両立していることから、自動車メーカーがこぞって純正やオプションに採用している。

 このマシンに装着されたパーツをあり合わせだ、と山さんは云っていたが、さりげなくビルシュタインのような高性能パーツをチョイスしてくれた辺り、あり合わせという言葉を、そのまま受け取ることはできない。


「よっしゃ! んじゃ、全員集まったことだし、さっそくはじめますか!」


 正樹の大きなかけ声に、遠くからやまびこが返ってくる。

 今日ここにやって来た目的は、現時点での性能チェックだ。この状態で1/4マイルをどれぐらいのタイムで駆け抜けることが出来るのか、これからの基準にするために計測するつもりだった。


「ああ、そうだな。そのために来たんだ。よし、はじめようぜ」


 MR2に乗り込み、いったん止めていたエンジンに再び火を入れる。道の脇に避けたカナが「がんばってね」と、にこやかに手を振った。俺は親指を立てて応えた。

 運転席に収まってシートベルトを締めた俺は、インパネ周りにずらりと並んだ各種メーターに一通り目を通す。

 水温、油温、油圧、過給圧、排気温。どれも異常なし。仕様はほぼノーマルなんだから異常がなくて当然といえば当然だ。

 あとは、タイム計測係の二人の準備が出来るのを待つのみ。


「計測は正樹がやるってさ。スタートした瞬間に僕が正樹に合図を送るから、隆太は好きなタイミングでスタートしてくれ」


 運転席の真横に立った信が、連絡用のトランシーバーを片手に話しかける。

 直線の先には、ずっと昔に山さんが設置したらしい、1/4マイル通過の目印となる手作りの看板が見えた。

 やがて、目印まで辿りついた正樹が、大きく手で円を作って俺たちに準備OKの合図を送った。


「じゃあ、いってくる。あまり緊張するなよな。これはまだ練習だぜ」


 俺は、唇を固く結んで見守るカナに笑いかけると、道路脇に立つ信の誘導に従って、アスファルトの上にスプレーで引かれた白線にMR2の鼻先を揃えた。

 俺がスタート位置に着いたのを確認した信は、トランシーバーを口に寄せると、指で輪っかを作って準備OKの合図をした。


 ……っと、緊張してきたのかな。カナにああ云っておきながら情けねえ。


 気づかぬうちに、ステアリングを握る手が強ばっていた。大会でもなんでもなく、テストコースを使った練習走行でしかないのに、ざわつきはじめた胸の動悸もなかなか静まってくれない。

 俺は回転計から視線を上げ、直線の遙か先に目をやる。まだ白いベールをかぶったのままの山々が立ちふさがるように並んでいた。

 わずかに開いた窓の隙間から、ひんやりとした山風が入りこむ。

 方角から云えば、あの山々のずっと先にレースの舞台となる仙台ハイランドがあるはずだ。

 そうか、わかった。俺は緊張しているのではなく、興奮しているのか。

 数学の方程式が一気に解けていくように、体を硬くさせていた気持ちの正体が明らかになっていく。俺はひとり納得して、視線をコース上と回転計に戻した。

 相変わらず体は硬いし、心臓はさっきよりずっとバクバク云っていた。

 だけど、これでいい。出陣前の武者震いみたいなものだ。

 小さく息を吐き、一拍置いてからクラッチペダルを踏み、ギヤを一速に入れた。そして信に目で合図を送り、これからスタートすることを伝える。

 アクセルペダルを踏む右足に力を入れ、回転数を高める。

 コンマ一秒以下の差で勝負が決まることもあるドラッグレースでのスタートは、街乗りでのゼロ発進とは違い、マシンを静止状態から一気にフル加速で前に進められるように、あらかじめ回転数を高めておく必要がある。

 これは一見シンプルだが極めて奥の深いテクニックで、回転数が高すぎるとクラッチを繋いだ瞬間にタイヤが空転して路面にパワーが伝わらず、低すぎるとタイヤが路面の抵抗に負けて失速してしまう。

 ドラッグレースにおけるテクニックとは、このスタートをいかに上手く確実に行えるかを指し、その難易度はエンジンパワーの上昇に比例して飛躍的に上がっていく。

 回転計を確認。現在およそ3800rpm。最大トルク発生回転数の少し上。

 背中にエンジンの唸りが伝わってくる。

 ちょうど頃合いだ。現状のパワーなら、ある程度高めの回転数でクラッチを繋いでもホイールスピンは最小限のはず。


「――いけ。これがはじまりだ」


 俺は右足に力を込め、跳ね上がった回転計の針が4500rpmを指したか指さないかの辺りで勢いよくクラッチを繋いだ。

 空転したタイヤが発するスキール音を伴って、MR2がスタートラインから飛び出す。

 体全体をシートに押しつけられるような加速感。

 爽快さを覚える程度の心地よい加速G。かすかな非日常感。

 レッドゾーンギリギリで次のギヤへシフトアップ。視界の端をどんどん景色が流れてゆき、ゴールの目印が近づいてくる。

 クラッチペダルを素早く蹴り、二速、三速とテンポよくギヤを変え、四速5000rpm弱で目印を通過。


 ――――アクセルオフ。


 マシンをゆっくり減速させる。ゴール直前の終速は160km/hぐらいか。

 これは案外良いタイムが出たかもしれない。満足感を覚えながらルームミラーを見上げて、鏡に映った自分と目が合った。

 とんだマヌケ面だ。頬も口元も緩みきっている。だけど気にはならない。だって、こんなに楽しいのは生まれてはじめてなのだから。

 減速していくMR2の車内、俺はギヤをニュートラルに戻し、自由になった左手を胸に当ててみる。スタート前の興奮とはまた違う、体の奥底から沸き上がる喜びが胸を高鳴らせていた。


「なんだってこんなに面白いんだか。まだほんのノーマルなんだぜ」


 大声で笑い出してしまいたいぐらい愉快な気分だった。

 俺は減速を終え、道路を途中でUターンして、緩んだ顔のままタイムを計っている正樹の元へMR2を寄せた。


「おい正樹、今の走りはいったい何秒だ」


 窓から顔を出し、上機嫌に訊く。だが正樹は、すまなそうにストップウォッチを差しだした。

 俺は窓から体を乗り出して覗きこむ。デジタル式のストップウォッチは未だに回り続けたままだった。どうやら、計測を止めるボタンを押し損ねてしまったらしい。


「スマン、俺たちのマシンが走ってく姿に感動して、思わず見とれちまってた」

「バカ、気にすんなよ。何度だって走ってやるさ」


 俺は明るく笑いかけて正樹の胸を小突いた。「次はちゃんと頼むぜ」と告げて、もう一度MR2をスタート地点に向かわせる。

 そうだ、何度だって走ってやる。こんなに楽しいことは何度繰り返したって飽きやしない。

 回り続けるストップウォッチ。そう、時間は動き出した。

 すべてのお膳立ては整い、俺は本格的にスタートラインに立った。本番はこれからだ。

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