1-4

 春休みに入ってから数日、慢性的な頭痛と軽い手足のしびれが続いていた。

 はじめのうちは市販の薬で誤魔化していたのだが、教習所の日程を思いのほか早く消化してしまい、時間を持てあましていた俺は、親父に促されたこともあって地元の個人病院を受診することにした。

 そして、いくつかの簡単な検査を終えたあと、難しい顔をした町医者から、そのまま隣町の総合病院で精密検査を受けるよう紹介状を渡されたのだ。

 普段あまり病院とは縁がない俺も、このときばかりは何か嫌な予感がした。

 とはいえ、あくまでも予感だ。もし入院するような羽目になったって、せいぜい春休み中に片がつくレベルだろうと楽観的に受け止めていた。

 だが、総合病院での検査結果は予想の遥か斜め上をいっていた。

 思い返してみても、検査結果を告げられたあの日の記憶は、どこかあやふやでおぼろげで、いまいち現実感に欠けている。

 西日が差す夕刻の病室で淡々と告げられた、悪性グリオーマとかいう聞き慣れない病名。いわゆる脳腫瘍だという話だった。

 進行度自体はまだそれほどまででもないらしい。だが極めて特殊な症例で、現在の医学で治療は不可能というのが、俺を担当した医師からの説明だった。

 病を告げられたあのとき、俺はどんな顔をしていたのだろう。泣いていたのか笑っていたのか、あるいはまったくの無表情だったのか。どう記憶を辿っても、思い出すことができない。覚えているのは、医師に対して質問を二、三したことだけだ。

 そのうちの一つが、俺に残された時間についてだった。

 訊ねると、医師はしばらく考え込み、「一年は保証しよう」とだけ短く云った。


 ――一年。その間だけは確実に生られる。


 それがはっきりしただけでも俺にとっては儲けものだった。残された一年という時間をどう使うべきか、真剣に向き合うことができたからだ。

 やりたいこと、やるべきことは、わりとすぐにみつかった。

 だって、俺が好きなことなんて一つしかないから。


******


「……とはいえ、どうも現実感がないんだよな」


 渡された薬を毎日飲んではいるが、自らの死に対する現実感は正直云って薄い。こればかりは、いくら決意を固めてみたところで変わらなかった。

 ガレージでのミーティングを終えて帰宅すると、すでに辺りは真っ暗になっていた。春が近づいてきたとはいえ、まだ陽が落ちるのは早いし、朝晩はかなり冷え込む。

 俺は朝のように白い息を吐き出しながら、自宅の玄関をくぐった。


「ただいま」


 靴を脱ぎながら、帰宅を告げる。


「ああ、おかえり隆太くん」


 おそらく夕食を作っていたのだろう、室内から漂ってくる暖気と一緒に、エプロン姿の親父が、キッチンから穏やかな表情を覗かせる。


「外は寒かったろう。さあ、早く入って」


 親父はにこやかに促す。

 一八になった息子に対する態度としては優しすぎる気もするが、俺はこのお人好しで世話焼きな親父が嫌いではなかった。


「親父、そのままでいいからちょっとだけ聞いてくれ」


 俺はリビングに足を踏み入れるなり、いきなり切り出した。キッチンで味噌汁の鍋をかき混ぜていた親父は、お玉を持つ手を一瞬だけ止めたが、「なんだい?」とだけ穏やかに返して、再び手を動かす。


「今日さ、俺の病気のことを正樹と信に話したよ」

「……そうか、頑張ったね。お疲れ様」


 親父は、それ以上は何も云ってこなかった。あっさりしているが、冷たくしているわけではないのは痛いほどよくわかる。むしろ気づかってくれているのだ。俺はすべてを云いきるべく、さらに言葉を続ける。


「二人に病気のことを話しただけじゃなくて、はっきりと決めたんだ。どこまでやれるかわかんないけど、残された一年をレースに捧げようって。これでも俺なりに考えたんだよ。もし人生にゴールラインってのがあったとして、俺がそこに向かって全力疾走するには、具体的に何をすればいいのか」


 ――全力疾走。全ての力を余さず出し尽くし走り抜けること。


 タイムリミットを知ってしまった以上、悠長にこれまでと変わらぬ日々をすごすなんて、俺には耐えられなかった。


「こいつはきっと楽しくなるはずさ。もとから楽しみだった上に、なんたって俺の人生を賭けるんだからな。考えてみてわかったんだが、長くても短くても俺にとって人生を賭けるに値する何かってのは同じなんだ。だとしたら、自分のすべてを余すところなく出し切れさえすれば、人より短い命だろうと、充実した人生を送れるはずなんだよ」


 早口に語り終えて振り向く。いつの間にか、親父が真後ろに立っていた。並んで立つと、親父のほうが俺より頭半分ぐらい背が高い。親父はやや見下ろすようにして微笑み、


「できたよ。晩ご飯にしよう」


 ただ一言、それだけを口にした。

 俺は手のひらを拳でパンと小気味よく叩き、親父の目を真正面から見据える。


「なぁ親父、俺はやるぜ。タイムリミットがあるとはいえ、まだ時間はあるんだ。得るものがあろうが無かろうがどうだっていい。ただの自己満足でも結構だ。後悔のない人生ってやつが、寿命の長さとは関係ないってことを証明してやる」


 云い切ったら、胸がスッと軽くなった。

 俺は、今日まで秘めていた決意をあえて口にすることで、自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。一方、親父は微笑みを崩さず静かに佇んでいた。


「すまないね。僕は隆太くんに、これぐらいしかしてあげられない」


 親父は一言一言を区切るようにゆっくり云って、薄い手帳のようなものをポケットから取り出し、俺の手のひらにそっと握らせた。デフォルメされた柴犬のイラストが描かれたそれは、銀行の預金通帳だった。


「なんだよこれ、いきなり……」


 戸惑いながら、通帳を開いてみる。印字されていた数字は七ケタ。俺は驚いて、反射的に通帳を突き返した。


「僕は詳しくわからないけど、レースにはお金がかかるんだろう」


 たしかにその通りだ。だからといって、手渡された通帳に入っていた額はちょっと尋常じゃない。いくらこの状況とはいえ、これは俺なんかが手をつけていい金ではないはずだ。


「これは、さすがに受け取れねえよ」


 通帳を突き返そうと腕を伸ばす。しかし、親父は受け取ろうとはせず、黙って首を横に振った。


「いいんだ、いいんだよ。もともとこれはね、隆太くんのためにと思って貯めていたお金なんだから。キミのために使う以外には、使い道なんて存在しないのさ。だから、どうか受け取ってくれないか」


 親父は再び俺の手を取って、通帳を握り込ませる。俺の手を包み込む親父の大きな手。そこから伝わる温もりが、手のひらから腕を抜けて、胸の奥へと染みいっていく。


「……っ、本当に、いいのかよ。俺がこんな大金を手にしたら、全部レースに使っちまうのは確実だぜ」

「そうしてくれて構わないさ。隆太くんの使いたいように使いなさい」


 俺にかける言葉も、見つめる眼差しも、そのすべてがただただ優しかった。

 思い出のなかにあるこの人の姿は、いつもこんなだった。

 俺がすることに異を唱えられた記憶も、厳しく叱られた記憶もほとんどない。いつだってゆきすぎなぐらい大らかで、諭すように物事を教えてくれた。

 お袋を早くに亡くして、男手一つで俺を育てるのは楽ではなかっただろう。それなのに、苦労して育てた息子が死の宣告をされたにも関わらず平然と振る舞って……。

 俺なんかにはもったいないぐらいの最高の親父だ。


「隆太くん、胸を張りなさい。人生を賭けてまでやりたいことなんて、大人にだってそうそうみつけられるものじゃあない。だけどね、キミはそれをみつけたんだろ。そして、それに全力で取り組もうとしている。自分の息子がそういう立派な生き方を選んだことを僕は誇りに思う」


 親父がはっきりとした口調で云った直後、ふいに玄関のインターホンが鳴った。


「こんな時間に誰だ?」


 玄関に向かおうとした俺を制して、親父が代わりに向かう。そして来客と何か話し込んでいたかと思うと、親父は見慣れた二人を引き連れてリビングに戻ってきた。


「よっ、夕飯時に邪魔して悪いな」


 きさくに片手を挙げ、リビングに入ってきたのは正樹だった。後ろには信の姿もある。


「やっぱり、まだ夜は冷えるねぇ」


 俺に話しかける正樹の様子はいたって普段通りだ。むしろ平然としすぎていて、逆に気を使っているようにも見えなくはない。

 俺がガレージで病気のことを告げたあと、二人は理解が追いつかないといった様子で、目をまんまるにしてしばらく固まっていた。そして、ようやく喋れるようになってからは、俺が告げた内容が本当なのかどうかを何度も聞き返した。

 見た目健康そうな人間が、突然あんなことを云い出したのだから、信じられないのも無理はない。


「よう、今日は驚かせて悪かったな」


 俺もまた努めて平静に話しかける。結局、俺のドライバー問題も含め、すべてがうやむやのままだ。いったん気持ちを整理するための時間をくれ、というのが二人からの返答だった。


「まったく、本当にびっくりしたよ。わざわざあんなに改まって云わなくてもよかったのにさ」


 信もまた、なんでもないように振る舞っている。


「それで、だ。僕らが訪ねてきた目的はレースのドライバーについてなんだけど」

 信の表情が、やや真剣になる。俺は黙って次の言葉を待った。

「あー、我々二名による協議の結果、小林隆太くんを本計画のメインドライバーとして承認することに決定いたしました。よって、貴殿は我々の期待に恥じぬよう、全身全霊ドライバーとしての職務を全うすることを誓いなさい」


 信から言葉を引き継いだ正樹が、ゴホンゴホンとわざとらしく咳払いしながら、大仰な云い回しで俺に同意を迫る。

 俺は、「ああ、まかせろ」とだけ静かに言葉を返した。

 本当は二人に頭を下げて、心から礼を云ってやりたい気分だった。だが、あえてそれをしなかった。きっとそんなものを、この二人は求めていないだろうから。

 もし、その礼を口にするときがくるとしたら、すべてが終わったあとだ。


「あと、僕は当初の予定通りチーフメカニックをやるとして、正樹の役職はチーム監督ということになったから」

「おう、俺、監督。よろしくな!」


 正樹が得意気にドンと胸を叩く。その表情はHIDのヘッドライトのように眩しい。


「これで役割分担は決まりだね」

「ああ、それからもう一つだ。信、コイツを受け取ってくれ」


 俺は信に、今さっき親父から渡された預金通帳を預けた。


「うちの親父からだ。遠慮せず使えってさ」


 親父本人からも促され、信は慎重な手つきで通帳を開いた。


「――っ! これはダメだよ! とても受け取れない」

「ハハハ、同じことを俺も親父に云ったよ。だけど気にすんなってさ」


 通帳に記された額に驚きを隠せない様子の信に、俺はケラケラ笑いかける。


「俺は、この一年に人生すべてを賭けようって決めたんだ。だから、やってみないか? 遊びの延長なんかじゃなく、本気で勝ちにいけるレーシングマシン制作を」


 金も、手間も、そして人生までも注ぎ込む最高のマシン。そいつを作り上げ、駆って走ることが、俺にとって最高の満足に、人生の充実に繋がるはずなんだ。


「いいねえそういうの。おもしれえ、俺は乗ったぜ。とにかく凄いマシンを作ろうじゃねえか」


 まず乗ってきたのは正樹。ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、俺と信に向かって手のひらを差し出す。意図を察した俺は、正樹の手のひらに自らの手のひらを重ねる。そして、揃って信を見つめた。


「本気で勝ちにいけるマシンか……。それが隆太の夢なんだね」


 信は真剣な面持ちでうなずき、やや照れくさそうに手のひらを重ねる。

 俺にとっての、いや、俺たちにとっての特別な時間がはじまろうとしていた。

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