二章・『スタートライン』

2-1

 四月初旬。新学期のはじまりを翌日に控えたその日の空は、雲一つ無い快晴だった。天気予報によると、今年は春の訪れが例年よりも早いそうで、ここ数日は晴天ばかりが続いていた。

 昼下がり、穏やかな日差しと、少々埃っぽい黄砂混じりの春風を身に受けながら、俺は街外れのガレージまで原付スクーターを走らせていた。

 国道から逸れ、農道に入って周囲をぐるりと見渡せば、数日前まで田んぼを覆い尽くしていた白い冬の精はずいぶんと存在感を薄くしていた。この様子なら、もう何日かすれば雪の面影すらこの景色から完全に消えてなくなってしまうだろう。


「おう、二人とも早いな」


 原付のエンジンを切った俺は、ヘルメットを脱ぎながら云った。ガレージには、一足先に正樹と信が到着していた。


「へへっ、待ちきれなくってよ。つい早く来ちまったんだ」

「僕も同じだね。でも、隆太だって充分早いんじゃないかな」


 信に指摘された通りだ。予定していた待ち合わせ時刻より、まだ一時間も早い。

 みんな気持ちがはやっていたんだろう。なんたって、今日ついに、俺たちのマシンが手元に届くのだ。これまでも、暇を見てはマシンの持ち主のところへ様子を伺いにいってはいたが、いざ手に入る瞬間がやってくるとなると、やはり胸がときめく。


「だが、この何もない野っぱらで一時間は長いな」

「それならさ、中でミーティングの続きをしないかい。この間は突発的だったし、今回はこれからの予定についてきちんと話し合おうよ」


 信の提案に「そうするか」と俺が同意したところで、国道側からこちらに向かって、一台の赤いママチャリがゆっくり近づいてくるのが目に入った。


「おっ、我らがお姫様のお出ましですぜ」


 正樹がひやかすように口笛を吹く。

 ママチャリのベルを鳴らしながら現れたのは、ヒラヒラしたピンク色のスカートなんて履いた、油臭いガレージには不似合いな出で立ちの少女だった。


「もう、みんな来るのが早いよぉ……」


 ママチャリから降りた少女は、肩で息をしながらうらめしそうに上目づかいで俺たちをにらむ。

 通称カナこと、青山加奈子。彼女もまた俺たちの仲間であり、小学校時代からの長い付き合いだ。紅一点とも云えなくはないが、おっとりした性格のカナは、俺たち車バカの中にあっては明らかに浮いた存在だった。


「ごめんね、加奈子ちゃん。みんな待ちきれなかったみたいでさ。そういえば、従姉妹のお姉さんのお産はどうだったの?」


 信は謝るついでにカナに訊ねた。俺が二人に病気のことを告白したあの日、カナは臨月が近い従姉妹の身の回りの手伝いに行っていて、ちょうど地元にはいなかった。

 だから、カナは俺の事情についてはまだ何もしらない。

 俺が難病を患っているなどとは、カナは露ほども思っていないだろう。瞳を輝かせながら、自分が立ち会った従姉妹の出産について一生懸命まくしたてる姿はこの上なく嬉しそうで、生気に満ちあふれていた。


「あ、あのね! 赤ちゃん、すっごくちっちゃくて可愛いの。柔らかくって、あったかくて。それでね、子どもを産むって、本当に凄いことなんだなっていうのがわかったっていうか……、ええと、その、もーうっ、上手く言葉で説明できないよぉ」


 肌身に感じた生命の素晴らしさによほど心を動かされたらしく、カナはうっとりした表情で一方的に話し続ける。


「可愛かったなあ、赤ちゃん。お母さんになるって本当に素晴らしいことなんだね。実を云うと、わたし泣いちゃった。だってね、あんな光景を目にして感動せずにはいられなかったんだもん」


 俺も含めた男三人は、カナの熱弁ぶりに押され気味で、困ったように表情をほころばせるしかなかった。


 ……まったく、どうしてこうも真正面からオンナノコやってるようなやつが、俺たちなんかに混ざってるんだかなぁ。


 そもそも、カナは別に車好きでもなんでもない。手芸にお菓子作りが趣味という、ちょっとレトロな少女漫画から抜け出てきたような女の子らしい女の子だ。

 昔、ふとしたきっかけでできた縁がなりゆきで続いているだけで、俺たちの車バカの中に混じる姿は、いつまでたってもアンバランスで馴染まない。

 とはいえ、俺たちがカナを邪魔に感じたことは一度もなかった。たぶん、カナの振りまく笑顔にはリラックス効果でも含まれているんだろう。現に、カナを中心とした半径一五メートル以内は、すっかり和やかな雰囲気に包まれてしまっている。

 だけど、その和やかさの中で、俺は苦い想いを噛みしめずにはいられなかった。

 カナにだけは、当分病気のことを言わないでおくつもりだった。カナは昔、親父さんを病気で亡くしていた。俺がカナと知り合ったのもそれが遠因みたいなものだ。

 俺は覚えている。今はこうして明るく笑っているコイツが、図書館の隅で一人膝を抱えて泣きじゃくっていたその姿を。

 それに、身内を早くに失ったこともあってか、カナは生き死ににひどく敏感だ。道ばたで轢かれた猫の死骸を目にしただけでも三日は引きずって落ち込む。

 もともと繊細で優しい性格なのも確かだが、死に対する反応の極端さの根っこには、間違いなく親父さんとのことがある。

 もし、カナが自分にとって身近な人間――つまりは俺が、そう遠くないうちにこの世からいなくなってしまうと知ったらどうなるのか。


 ……考えたくもないな。


 いつかはわかってしまうことなのだとしても、カナだけには、そのいつかをできるだけ先延ばしにしておいてやりたかった。


「……ん、なんだ?」 


 ふと、視線を感じて考えごとを打ち切る。なぜだか、カナが顔を赤くして、俺の様子を伏し目がちにチラチラうかがっていた。


「ななな、なんでもないよっ!」


 目が合うなり、カナは慌てて顔を背けてしまった。


「おい、俺が何かしたか?」

「イッヒッヒッ、いや、なぁに、カナちゃんがあんまり羨ましそうに赤ちゃんのことを語るもんだからさ、いっそリュウちゃんと協力して自分の赤ちゃんを作っちまえばどうかと提案したわけよ」

「あのなぁ、セクハラ親父かお前は……」


 俺は心底呆れて眉間を押さえた。正樹も気さくなのはいいが、こういう下品なところは昔から相変わらずだ。


「さすがに子づくりは早いにしても、隆太とカナちゃんなら、そろそろ婚約ぐらいはしてもいいような気がするけどね」

「バーカ、信まで何云ってんだ、ったく……」


 正樹のワル乗りに便乗してきた信を横目で睨みつけてやるが、さして意に介した様子はない。この手のやりとりは、今にはじまったことではないからだ。

 どうにもこいつら二人は、俺とカナをくっつけたがる。

 俺にとってカナは大切な仲間には違いないが、いわゆる恋愛対象とはまた別だ。

 カナが俺に気があるのには気づいている。だけど、それに俺が応えてやるには、気持ちを後押しするだけの何かが今ひとつ足りていなかった。

 どのみち、今の俺にはもうカナの想いに応える権利はない。時間も残されていない。それに余命を宣告された身であるからこそ、カナの優しさに逃げるようなことだけは、意地でも選びたくなかった。


「でさぁ、カナちゃんは結婚式はどこでやるのがいいと思う? 無難にどっかの式場かホテル? それとも教会? ああ、船の上ってのもいいねえ」

「けど、あまり豪勢な結婚式にしてしまうと、隆太に――というより隆太の親父さんの財布に負担がかかりそうだから難しいかもね。幹事は僕がやるとして仲人は正樹に任せるよ」

「も、もうっ! 正樹くんも信くんも勝手に話を進めないでよぉ。だ、だいいち、わたしとリュウちゃんじゃもったいなくて釣り合わないよぉ」


 こんなじゃれ合いじみたやりとりも、今にはじまったことじゃない。これまで何度も繰り返してきた、ばかばかしい悪ふざけだ。

 だから、俺はいつも通り、「やれやれ」と呆れかえって頭をかく。いつも通りを演じる。

 その内心では、日常という舞台をわざわざ演出してくれている正樹と信に頭を下げずにいられなかった。

 カナにだけは病気のことを秘密にするという提案に、二人は一切の異論を挟まなかった。仲間を偽ることになるにも関わらずだ。


「あのっ、リュウちゃん、もしかして怒ってる?」


 いつの間にか複雑な顔でもしていたのだろうか。ふと気がつくと、カナが不安そうに俺の顔を覗き込んでいた。


「いや、別に怒っちゃいないよ。いつもの、いつものことだしな……。それよりも全員揃ったことだし、そろそろミーティングをはじめようぜ」


 そう云って俺は、みんなに背を向けた。いつも通り賑やかな正樹たちの姿がどこか無理をしているようにも思えて、これ以上見ていたくなかった。

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