第25話 プール

 高校生にもなって水泳の授業があるというのは、正直なところ風紀的にどうなんだろうかと思ってしまう。

 発育がほぼ完成されつつあるこの年頃の男女が、ほとんど水着一枚で肌をさらし合う場にいるとなれば、当然のようにいろいろな問題が起きかねない気がする。


 クラスの女子が少し派手な水着を選んだだけで指導が入ったとか、男子が女子をからかってトラブルになったとか、風紀委員が目を光らせる場面もあるらしい。

 もっとも、あまりに規則を厳しくしすぎると、それはそれで生徒たちの反発も大きくなる。


 結局のところ、誰もが気まずさと好奇心を抱えながら、なんとかこの“行事”をこなしているのが現状だろう。


「ちょっと男子からの視線が気になるのだけれど」


 そう漏らしたのは歌乃。

 教室での貴族然とした優雅な振る舞いとは打って変わって、今はスクール水着姿。

 プールサイドに並んでいると、その堂々たる態度も薄布一枚の前ではなんだか無防備に見えてしまう。


「いいじゃん、歌乃は出る所出てるんだからさ~私なんて……」


 と、少し落ち込んだように口をとがらせる佳乃。

 ちらりと歌乃の方を見て、どこか羨ましそうな目を向ける。

 彼女が気にしているのは、どう見ても胸のことだろう。佳乃はそれがコンプレックスなのか、自分の胸元をさりげなく隠すような仕草をしている。


「どうして勝手に落ち込まれているのかしら、私、何かしたかしら?」


 歌乃はそんな佳乃に軽く肩をすくめて返すが、どこか余裕が感じられる。

 そのやり取りが、なんとも微妙な雰囲気を醸し出していて、他の女子たちも苦笑いを浮かべながら二人のやり取りを聞いている。


「まぁ、男子なんてすぐに視線を泳がせるんだから、気にするだけ損よ」


 歌乃の少し棘のある言葉に、佳乃が一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「確かにね~」と少し自嘲気味に笑った。


 それぞれが自分の気まずさを抱えつつ、この水泳の時間が早く終わらないかと心の中で思っているのがありありと伝わってくる。


 そんな女子達へ好奇心旺盛な視線を向ける男がいた。


「うっひょぉ~~流石歌乃ちゃん、出るトコ出てるね~」


 蓮は女子たちの反応を気にもせず、プールサイドに立つ彼女たちをじろじろと眺め回している。

 視線は完全に市場に並んだ果実を値踏みするようで、他の男子たちも少し離れたところからニヤニヤと蓮に同調しているようだ。


 歌乃は表情を崩すことなく無視を決め込み、冷たい視線だけを送り返しているが、誰もそれを指摘しようとはしない。


「……ちっ、佳乃っちは相変わらず貧相だな~」


 蓮のあからさまな一言に、佳乃がすぐに噛みつくように振り返った。


「はぁ~~~? あんたキモイのよ、こっち見るなしっし!」

「いやお前なんか見てねーし、眼中にねーし、興味ねーし!」


 蓮がわざとらしく視線を逸らし、軽く鼻で笑うような仕草を見せる。

 佳乃はますます顔を赤らめ、歯を食いしばるようにして睨み返した。


「うっっっわ~~腹立つ、ホント死ねよ。溺死すればいいのに」


 佳乃の言葉に蓮は「言うねぇ」と満足げに笑い、さらにこちらへ挑発的な視線を送る。

 彼の余裕たっぷりの態度が、佳乃をさらに苛立たせているのが見て取れた。

 歌乃も小さくため息をつきながら、蓮を軽蔑するような目で見ていたが、それもまた蓮にとっては面白い挑発材料でしかないようだ。


 しかし、もう一人の変態けいが現れる。


「お前は間違っている……何故なら、貧乳も愛すべき存在だからだ!」

 圭が突然、真面目な顔で割り込んできた。

 その様子に周りは一瞬で静まり返り、佳乃も驚きのあまり言葉を失ってしまった。


「ははっ、何言ってんだよ圭。お前ってほんと変わってるよな~」


 その言葉を聞いて、蓮が吹き出すように笑い出した。

 圭は真剣そのもので、さらに力を込めて続ける。


「俺が言いたいのは、胸のサイズなんて関係ないってことだよ。むしろ、個性だろ? それを笑うなんて、美の神に失礼じゃないか?」


 佳乃はその言葉に一瞬きょとんとする。

 だが、次第に表情が和らぎ、顔を赤らめながらも小さく頷いた。


「そ、そうよね。圭、あんた意外とわかってんじゃないの……?」


 圭はにっこりと笑い、得意げに胸を張った。


「当然さ! 大切なのは内面なんだよ、俺にとってはな!」


 蓮はなおも笑いをこらえきれないように肩を震わせているが、周りの女子たちは、いつになく真剣な表情の圭を見て、ドン引きしている様子。


「まぁ、そういう変わった好みのやつがいても、世の中のバランスが取れるってもんかもな~」


 と、蓮が軽く肩をすくめて言うと、圭はさらに真剣な表情を浮かべて蓮に向き直った。


「バランスの問題じゃない。すべての形に価値があるってことさ! この世の美しさは多様性にあるんだ!」


 ……このやり取りを、俺はどこか冷めた目で、退屈そうに眺めていた。

 そんな俺の様子に気づいたのか、歌乃が軽やかに近づいてきた。


「ずっとつまらなそうな顔をしているのね」

「そんな風に見えたか?」

「えぇ、教室にいるときからずっとね。何か考え事でもしているんじゃない?」


 頭によぎったのは、先ほどの圭の「パパ活」発言。

 だが、あえて口に出すことはなかった。

 そんな俺の沈黙を察したのか、歌乃はふっと微笑み、艶やかな瞳をこちらに向けて囁いた。


「大丈夫よ。もうすぐ、あなたが楽しみにしていることが始まるわ……♡」


 彼女の言葉と微笑みが、どこか含みのある響きをもって胸に残る。

 思わず不穏な予感がよぎったが、俺はただ静かに視線を逸らした。


 歌乃は、まるで全てを知っているかのように含み笑いを浮かべ、ゆっくりと視線をそらした。まるでこの後に何かが起こるとでも言いたげで、心の奥で何かが引っかかる。


「……なんなんだよ、俺の何を知ってるんだ」


 すると、そいつは突然現れた。


「——きゃああっ、篠崎さんっ! 貴女その格好どうしたの⁉」


 突如、教師の悲鳴が聞こえてきた。

 皆がその教師の視線の先へ眼を見遣ると——


「あ、これは……その……」


 ——ボロボロの水着姿で立つ、ゆかの姿があった。


 彼女の水着は所々が破けており、ところどころ肌が露出している。

 その破れ方は妙に不自然で、大事な部分は何とか隠れているものの、あまりにも際どい状態だった。


「おいおい、マジかよ……」

「なんで見学しないんだ?」

「……ゴクリ」


 男たちの視線が、遠慮もなくゆかに向けられているのがわかる。

 その表情には好奇心や興奮が入り混じり、明らかに彼女を観察している様子が見て取れた。


「せんせー、篠崎の家って貧乏だから新しいのが買えないんですー」


 佳乃のカビの生えた善意。

 学級崩壊した教室に善意など存在しない。

 彼女の言葉には、どこか嘲りと薄っぺらい優しさがにじんでいた。


「そ、そうなんですか……分かりました、授業を始めましょう……」


 間谷以外の教師は皆、面倒事を避けたがる。

 だから、こんな目に見えるイタズラにも関わらないようにするのだ。

 教師になりたての頃は、一体どんな夢や未来を抱いていたのだろうか。


「面白いでしょう……?♡」


 歌乃が小声で囁くその言葉には、どこか冷たい響きがあった。


「……何がだよ?」


 俺は眉をひそめ、彼女を見つめる。

 だが、歌乃は悪びれることなく、微笑みを浮かべたまま視線をプールに戻した。


「いえ、ただ見ていて分かるでしょ? 誰もが何かしらの“隠された意図”を抱えている……そう思わない?」


 彼女の言葉は静かに響き、周囲の喧騒が遠のいたかのように感じた。

 まるで彼女は、この騒動や無関心な教師たち、そして周囲の冷ややかな視線すらも計算の内にあるとでも言いたげだ。


「……お前も、何か隠してんのか?」


 冗談交じりに返すと、彼女はふっと笑った。


「さぁ、どうかしら? でも、あなただって、こんな場面でただ“傍観”しているだけのつもりじゃないでしょう?」


 歌乃の目はまっすぐこちらを見据えている。

 その視線には、俺の心の奥底にまで入り込もうとするかのような鋭さがあった。


「……何が言いたい?」


 問い返した俺に、彼女はわざとらしく微笑を浮かべた。

 そして、去っていく彼女の背中に、俺は無意識に視線を追ってしまう。


 彼女の残した視線と微笑が、頭の奥に焼き付いて離れない。


 冷たいプールサイドに立っているはずなのに、頬がわずかに熱を帯びているのが自分でもわかる。心のどこかに、彼女の言葉がじんわりと染み込んでいるのかもしれない。


「……何を考えてるんだ、俺は」


 自分に言い聞かせるように小さく呟くと、ふと周囲のざわめきが耳に戻ってきた。

 水泳の授業、騒がしいクラスメイト、相変わらずの蓮や圭の馬鹿げたやり取り——どれも、いつも通りのはずなのに、ゆかの姿を見たあの一瞬だけは別世界だったかのような錯覚を覚える。


「大丈夫かー? 何、ぼーっとしてんだよ」


 圭の声が現実に引き戻し、俺はそちらを振り向いた。


「別に……なんでもねぇよ」


 努めて冷静に返したが、胸の奥のざわつきはまだ消えてくれない。

 むしろ、俺が隠したがっていた黒い衝動が湧き出る感触を覚えていた。

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