第21話 嘔吐

 あの妙な出来事の後も、俺は何事もなかったかのように授業を過ごしていた。そして五限の授業が終わった頃、蓮たちと暇を潰している時、ふと視界の端にゆかの姿が映った。


「なんだあいつ」


 トイレから戻ってきたのか、ふらつきながら教室へと入ってくる。

 彼女の様子は明らかにおかしく、酔いが回ったような千鳥足で、まるで地面が不安定なように歩いていた。

 視線もどこか虚ろで、焦点が合っていない。

 それでも、か細い手指を頼りに自分の机に向かおうとしている姿は、まるで狩場から逃げ帰ってきた小鹿のようで、その無防備さが一瞬、俺の注意を引いた。


「おーいっ、なーに見てくれちゃってんだよ。お惚気野郎かよ~!」


 蓮が笑い混じりに声をかけてきた。


「別に、なんかあいつの様子がおかしいなって思ったから、目に入っただけだよ」

「いつも可愛いな~って? あきらちゃんもスミに置けない奴だねー」


 と圭も茶化してくる。

 軽口を叩かれるのが少しばかり煩わしくなり、俺は視線を無理やり逸らした。


 実際のところ、別に大したことじゃないだろうと思っていた。

 彼女がどうなろうと俺の知ったことではないし、わざわざ助けてやるほどの気構えもない。

 あのまま様子がおかしいなら、それは彼女が自分で何とかするべきだろう——少なくとも、この時の俺は、見逃す以外の選択肢を考える気すらなかったのだから。



 —————————————————————



 6限目の授業が始まった。

 科目は英語で、煩わしい教師またにのお出ましである。

 もちろん、目の付けられている俺は何度も質問をされた。


「そこの楠木、また内職でもしているのか! お前、これ答えてみろ!」


 頬杖をついて、間谷の問いかけにあえて無視を決め込む。

 いつものように、教師の声は俺の耳にただの雑音でしかなかった。授業内容なんてどうでもよく、俺にとってはこの時間を適当にやり過ごせればそれで良かった。


「おい貴様ァ……人を無視するとは良い度胸だなぁ?」


 と、間谷が近づいてきて声を荒げる。

 机を揺らされ、唾が飛ぶほどの癇癪を俺に向けてくるが、俺はわざとらしく冷静を装い、挑発的な視線で見返してみせた。


「くくく……またあきらのヤツ狙われてやんの」


 隣で蓮が小声で笑いを漏らしているが、助ける気などさらさらない様子だ。

 蓮が横で嘲笑するも、助けようとはしない。

 そんな中、いつの間にか間谷が俺に迫って来ていた。


「——おいっ、話を聞いているのか!」


 唾が飛ぶくらいの癇癪と、机を揺らされた衝撃に、俺は耐えざるを得なかった。


「……テメ」


 気分を害された俺は、イラつきを隠さずに間谷を睨みつけた。

 停学になっても良い。そんな感情的で突発的な思考で俺は立ち上がり、間谷の胸倉に手をかけた。


「ほう暴力か……いい度胸だなぁ……?」


 その瞬間、教室の空気が凍りついた。

 周囲からは息を呑む音が聞こえ、皆が一瞬で状況を察したのだろう。間谷は唇を歪め、挑発的な笑みを浮かべているが、その目は冷たく、俺を完全に見下している


「ククク、停学になりたいか? このまま停学にしてやってもいいんだぞ?」

「お前にはうんざりしてたんだ……望むところだ」


 その声には、俺をさらに苛立たせようとする意図が透けて見える。ヤツの挑発が俺の中の抑制を少しずつ崩していくことが自分の中で分かる。

 止められない。

 停学覚悟でこの場で一発お見舞いしてやろうと、拳を固めようとしたその時——


「「!?!?」」


 ガタッ、ガタガタ……ッ!


 突然、教室の後ろで椅子が倒れる音と、かすかな呻き声が響き渡った。

 全員が一斉にそちらを振り返り、俺も自然と手を離して音の方に目を向けた。そこには、地面に崩れ落ち、口から胃液のようなものを吐き出しながら苦しんでいるゆかの姿があった。


「だ、誰か倒れているぞ!」


 そこには俺の玩具かのじょのゆかが倒れていた。

 外傷を受けたカエルのようにのたうち回り、口から胃液のような、饐えた匂いの液体を吐き出している。

 余裕がないせいか、吐しゃ物の上に膝と手を付いている状態で、どこかに向かい誰かに助けを求めようと足掻くといった、容量の悪くて無様な姿であった。


「きゃああああああっ、あの人吐いているわ!」

「うわっ……きったな、汚ねえな篠崎!」

「な、なんなんだよマジで……寄ってくんなよ、気持ち悪い」


 教室が一瞬で騒然となり、ゆかの周りには冷たい視線が集まる。

 容赦のない声が飛び交う中、彼女は涙を浮かべながら、まるで助けを求めるように床で体を震わせている。


「う、うぐっ……ううっ……おっ、おっ……えぇぇぇっ……」


 涙を流しながら大粒の雨に打たれているような、痛々しい姿。

 その異様な事態に、間谷も気付かざるを得なくて


「お、おいっ……! 何やっているんだ、どけ!」


 慌てて机の垣根を越えて、ゆかの元へやっていく教師。

 間谷がその事件を受け止め、事態の収拾へと尽力する最中、俺は——



「ふ、ふは……はははっ……」


 その光景が、俺の胸に妙な感覚をもたらした。

 今の俺は、恍惚で淫靡な笑みを浮かべているに違いない。


 篠崎ゆか——あれを例えるならフォアグラだろうか。

 世界三大珍味として有名な食材。

 アヒルやガチョウに無理矢理エサを与え、肥大させた肝臓は、非常にまろやかで甘美な味わいである。

 それがたった今、ゆかの人肉を賭して完成を目の当たりにしたのだ。


「お、おいっ……しっかりしろ!」


 間谷が慌てふためき、ゆかの元へと駆け寄るのを見て、俺はその場の緊張感とは裏腹に、心の底から笑いが込み上げてきた。

 教室中が騒然とする中、誰もが彼女を気味悪がり遠巻きに見ている。その視線の冷たさと彼女の無様な姿が、俺に一種の優越感を与えてくれる。


 「おい、何やってるんだよ!」と、間谷の苛立った声が飛んでくる。

 間谷は俺への怒りもそっちのけで、状況の収拾に走った。


 俺はその隙にゆっくりと席に戻り、教室が騒然とする中で一人、冷静を装いながら状況を見守っていた。停学になるかもしれなかったこの瞬間を、ゆかが“偶然”作った騒ぎが救ってくれたのかもしれない。


 俺はわざと何食わぬ顔をして間谷の方を見たが、その表情の片隅には笑みが残っていた。教師という立場でありながら、この事態を収められない間谷の無力さが面白くて仕方がない。


「可哀想にっ……! 誰か手を貸そうとしないのかっ!」


 授業を放棄することが出来ない間谷は周囲に協力を求めるが


「知らねーよそんなの……」

「授業中にゲロ吐くとか信じられねえし……きたねえ」

「間谷が連れて行けばいいんじゃねーの?」


 信頼の薄い間谷には誰も手を貸そうとせず、ただ時間ばかりが過ぎていく。


「……ぐすっ、あう……おえっ……」


 もちろん、食材ゆかは喋れない。

 ゆかはうずくまったまま、苦しげに呻いている。その必死で惨めな姿が、まるで俺に対する一種の献身のように感じられ——


「……うっ」


 ビリビリッ……。

 また、妙なモノが頭を霞める。


「また……邪魔、するなよ……」


 愉悦に浸っていたところをいつも邪魔するコイツはなんなのだ。

 わからない、だけど……


「じ、授業は中止だっ!! 私が彼女を保健室に……」

「——分かったよ」


 今はなんだか、ゆかを間谷の手で取り扱われているというのが俺には癪だった。

 そんな奴に手を貸すわけではないが、俺は模範的な生徒になってみせる。


「先生、俺が連れて行きます」

「……へ?」


 その言葉が教室に響くと、一斉に視線が俺に集中する。

 間谷も驚愕の表情を浮かべ、「わかった」と言葉を絞り出したが、明らかに戸惑っていた。

 蓮や圭も驚きを隠せない様子で、俺の行動を疑っているようだったが、そんなことはどうでもいい。


「先生は授業を続けてください。俺がこいつを保健室まで連れて行きます」

「お前、どういうつもりだ……?」


 俺は冷静を装いながらゆかの元へ向かい、肩を支え起こす。

 彼女は体を小さく震わせ、吐しゃ物で汚れたまま俯いていた。自分に寄りかかる彼女の弱々しい体が伝わり、どこか微かな満足感が込み上げてくるのを感じた。


 教室の廊下に出ると、俺はゆかを支えながらゆっくりと保健室の方へ歩き出す。

 彼女の頼りなさが妙に心地よく、その弱々しい姿が俺にとっては最高の贅沢に感じられる。

 この状況が、俺にとってなんとも言えない満足感を与えてくれた。


 ゆかが小さな声で「ごめんなさい……」と呟くが、俺はわざと無視をしてそのまま歩き続けた。

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