第22話 ゆかの介抱

 また、いつの日かの記憶。

 微かに——脳裏に浮かんだ出来事だった——。


『ゴホッ、ゴホ……!』


 彼女の咳が聞こえるたびに、俺は子どもながらに胸がざわついた。

 いつも穏やかな笑顔を見せてくれるけれど、体が弱くて、少しでも無理をすればすぐに顔が青白くなってしまう。


『だ、大丈夫……? お水持ってきたよ!』


 俺は、慌てて彼女のために水を差し出した。

 彼女は驚いたように目を丸くしてから、ふんわりと微笑み、俺の手からそっとコップを受け取った。


『ありがとう、あきら君。あなたはいつも優しいわね』


 その声に胸が弾むようで、俺は照れくさくて視線を泳がせた。


『ぼ、僕がいつも守るからね!』


 思わず言ってしまった言葉に、自分でも驚き顔を真っ赤にさせる。

 だが、彼女はそれが嬉しいようで、笑顔を浮かべた。


『頼もしいわね、あきら君がそばにいてくれたら心強いもの』


 彼女の優しい笑みに、胸が熱くなる。

 そんな風に言ってもらえるだけで、子ども心に強くなれた気がした。俺は、そんな彼女の役に立ちたくて、さらに張り切って言った。


『あ、あのね、——さん』

『なぁに?』

『いつか僕が大きくなったら、もっと色んなこともできるし、強くなるんだ! そしたら……』

『そしたら、どうしてくれるの?』


 彼女は笑みを浮かべながら、小首をかしげて俺を見つめてくる。

 その問いかけに、俺は少し照れながらも決心して答えた。


『僕が、全部助けるんだよ。どこにも行かなくていいように、ずっと守るんだ』

『ずっと、守ってくれるのね?』


 彼女の声はどこか甘く、でも儚げで、俺は強くうなずいた。


『うん! それに、そしたらお外にも行けるよ。きっと楽しいところいっぱいあるんだ』

『楽しそうね。いつか、あなたと一緒にお外で遊べる日が来るのを楽しみにしてるわ』


 彼女のその言葉に、俺は心の底から嬉しくなり、思わず笑みがこぼれた。


『約束だからね!』


 彼女は笑顔のまま、少し疲れたように目を閉じて、俺の小さな手を軽く握りしめてくれる。

 その温かさが、心に深く刻まれていくようで、俺は彼女のために本当に強くなりたいと思った。


 ——思った、はずだったんだ。



 ——————————————————————



 保健室は不在だった。

 養護教諭の前川は、どうせタバコでも吸いに行っているのだろう、気が楽だ。

 ゆかをベッドに連れていき、様子を見た。


「じっとしてろ、今拭いてやるから」


 俺は適当にかかってあるタオルを持ち出し、適当な介護の知識を頼りに、ゆかの口元を拭ってやる。

 すると、彼女は枯れがれの意識の中、口を開いた。


「ごめ……んね、あきら……くん……」

「喋らなくていいから寝てなって」


 きっとあの薬のせいだろう。

 身体が小さいから、薬が回るのも早かったのだ。


 もしかすると、5限から相当ヤバかったのかもしれない。

 身体の震えの症状がゆかから見受けられる。


 振戦という、よく死にかけの高齢者から目にする異常な反応——コデイン中毒だろうか。それとも副交感神経が優位になった事による薬理被害か。

 医薬品副作用被害救済制度(長い)なんか使えもしない飲み方したからな。


 そんな事を考えていると、何か暖かなモノを感じた。

 俺の手をゆかが取っていたのだ。


「あ、あのね、あきら……くん……」

「……どうした?」


 喋るのは苦しそうだが、俺は続きを聞きたいと思った。


「わたし、き、汚いよね……教室でもどしちゃって、気持ち……悪いよね……けほっけほっ……う、うっ……」


 ゆかはまた苦しそうに咳き込みながら、うつむいていた。

 教室での一部始終がまだ彼女の中に重く残っているのだろう。

 その姿は、懺悔の言葉を吐き続けるかのようで、見ていてどこか切なさがこみ上げた。


「ゆか」


 俺は彼女に声をかけ、軽く頭に手を置いた。


「……よく頑張ってたな、えらいな」

「……っ⁉ ~~っ!」


 彼女は一瞬息を呑んだようで、驚いた表情を浮かべる。

 頭を撫でられたことが本当に嬉しかったのか、それともたった一言の優しい言葉が心に響いたのか、頬がほんのり赤く染まっていく。


「ほ、本当に……?」


 俺の言葉を疑うように、小さく尋ねてきた。


「本当さ。だけど、これからも無茶させると思うけど……やってくれるよな?」


 俺の問いかけは、彼女に新たな天秤を差し出すようなものだった。

 けれど、もうゆかの感覚は既に麻痺していて——


「うん、私……がんばるね……!」


 その力強さは、どこか危うさを孕んでいた。

 ゆかの頬が赤らみ、瞳が少しだけ輝きを帯びているが、その光はどこか不安定で、無理やり奮い立たせているかのような印象を受けた。まるで、自分を鼓舞するためだけに作り上げた一時的な勇気だ。


「がんばる、がんばるから……!」


 ゆかのその言葉には、歪な自信が見え隠れしていた。

 俺が彼女に向けて投げた「無茶をさせる」という言葉に、ゆかは何の迷いもなく応じている。

 それは彼女の純粋さなのか、それとも俺の存在が彼女の心を麻痺させてしまったのか——その答えは、ゆかの瞳の奥に隠れているようだった。


「うんうん」


 俺は、わずかに笑みを浮かべて彼女の頭をもう一度軽く撫でた。

 ゆかの小さな体から湧き上がる温もりが、俺の手にじんわりと伝わってくる。

 このまま彼女が俺のために、どんな無茶でもやり遂げてしまうのだろうと思うと、妙な満足感が湧き上がってきた。


「これからも、頼りにしてるよ、ゆか』


 俺のその言葉に、ゆかは微笑んで小さく頷く。

 その笑顔が、どこか悲しい未来を暗示しているように思えたが、俺はあえてその考えを押し込めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る