第23話 教師の忠告

「あら、用事は済んだのかしら」


 保健室を出るところで、前川先生とばったり出くわした。

 煙草の香りが微かに漂ってきて、彼女がどこで時間をつぶしていたのかを物語っている。ゆかの具合を確かめるように、前川先生はちらりと彼女に視線を送った。


「ちょうど終わったところです。ゆかも少し落ち着いたみたいなんで」


 そう言って軽く笑みを浮かべたが、前川先生は俺の様子をじっと見つめ、どこか疑わしげな表情を浮かべている。


「そう。でも、あなたがそんなに面倒見が良かったかしら?」


 彼女の声には皮肉が含まれているようだった。

 俺は一瞬、顔に浮かんでいた笑みを引っ込めたが、冷静を装って「まぁ、たまには」とさらりと返してみせた。


 前川先生はわずかに目を細め、口角を上げると少し意地悪そうに続けた。


「本当にそれだけかしら? 君が急に模範生徒のように振る舞うのは、少し不自然に思えるけどねぇ」


 その問いに一瞬返答を迷ったが、笑みを浮かべてみせること前川の視線から逃れることにした。


「まさか、先生。俺だってちゃんと彼女の面倒くらいは見ますよ」


 前川先生は視線を逸らさず、「そう。それならいいけど」と、軽く肩をすくめた。

 その目には何か含みのある光が見え隠れしているようで、どこか心にひっかかるものを感じるのも当然だった。

 こんなことを言い出すのだから。


「でも、無茶をさせないようにね。特に、無理に何かを強いるのは感心しないわ。分かるでしょう?」


 その言葉に一瞬ギクリとしたが、俺は動揺を隠して頷いた。


「強いるって何のことですか? もちろん無茶なことはさせませんよ」


 前川先生は、俺の返事を聞いてもなお、探るような視線を向け続けていた。

 その視線には、表面的には「信じている」と見せかけながらも、何かを見透かそうとする意図が隠れているように思えた。


「まあ、そうしてくれるならいいけれど。楠木君、あなたって……たまに、少し掴みどころがないのよね」


 その言葉に、俺はただ軽く肩をすくめてみせた。


「そんなことないですよ。俺だって普通に面倒見のいい人間ですから」


 先生はわずかに微笑んで首を振った。


「そうかしら? でも楠木君。人の弱さに付け込むのは、時に自分の首を絞めることになるわよ」


 含みのある言葉に俺は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を整え


「先生、心配しすぎじゃないですか?」


 と、軽く返した。

 どこか諦めたように、前川は言う。


「そう。それならいいけど……ただ、彼女も君も、保健室にはしばらく来ないようにしてくれると助かるわ」


 前川先生の言葉には、暗に「これ以上、面倒ごとを増やさないで」という警告が込められているようだった。彼女は一瞬、視線を遠くに向けたかと思うと、ふと俺の方に目を戻して、少し柔らかな口調で付け加えた。


「楠木君、あなたには期待しているのよ。人を助けるのもいいけれど、自分を見失わないようにね」


 その言葉に一瞬心がざわついたが、俺は努めて冷静な表情を保った。


「先生、俺も結構ちゃんとしてますよ。心配には及びませんから」


 前川先生は、俺の言葉に小さく笑みを浮かべ、わずかに首を振った。


「そう、それならいいけど。何かあれば、遠慮なく相談に来なさいね。でも、なるべく穏やかに過ごせることを祈ってるわ」


 その言葉は、一見優しさに満ちていたが、その裏にはどこか監視の目を感じるような重みも含まれていた。


「先生もタバコの吸い過ぎには気を付けてくださいね」


 逆に俺もわざと軽く言ってみると、前川先生はふっと笑い


「ありがとう、忠告はありがたく受け取るわ」


 前川先生は再び肩をすくめてから俺たちを後にして、ゆっくりと廊下の向こうに歩き去っていく。その背中を見送りながら、微妙な胸のざわつきを振り払うように深く息をつくのだった。



 ——————————————————————



 保健室を出て廊下を歩いていると、鐘が鳴り響き、授業も終わり、ホームルームも済んだ時間帯だと気づいた。教室に戻ってカバンを取りに行こうとしたところで、見覚えのある顔が凄んだ表情でこちらに向かってくる。


「見つけたぞォ……?」


 間谷だ。

 彼の険しい顔から察するに、怒りが頂点に達しているのだろう。

 一体何があったというのか。


「この瓶に見覚えはないか……いや、聞かなくても分かる。お前なんだろう?」


 彼は指の間に小瓶をいくつも挟み、こちらに突き出すように見せつけてきた。

 あの瓶は、先ほどゆかに飲ませたものと同じやつだ。

 俺は、わざと飄々とした態度で答えた。


「授業のお礼じゃないのかよ」


 間谷の顔色がさらに険しくなる。


「ふざけるのも大概にしろぉぉぉぉぉ~~~~っ!!」


 俺は軽く肩をすくめたが、彼の真剣な眼差しがこちらをまったく許す気配を見せない。

 だが、同じ教師でもここまで子供じみた怒り方をするとは、少々意外だった。間谷の顔は真っ赤で、まるで今にも爆発しそうだ。


「お前なぁ……このふざけた態度を見ていると、もう我慢ならないんだよ! この学校にいる必要なんてないんだからなっ!」


 彼は声を震わせながら、まるで幼稚な口調で言葉をぶつけてくる。

 その顔は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、子供じみた威嚇そのものだ。俺はわざと表情を崩さず、飄々とした態度を保ったまま彼の怒りを受け流す。


「どうせ、篠崎を運んだのは、後ろめたい気持ちがあったからだろう」


 その言葉に俺は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を整え、平静を保つ。

 間谷が何を掴んでいるのかはわからないが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。


「後ろめたい気持ち? 先生、俺はただ面倒を見ただけですけど?」


 間谷の目には、俺を疑う意志がはっきりと宿っていた。


「いい加減にしろ楠木。お前が何を考えてるかなんて、お見通しなんだよ!」


 彼は小瓶を指で挟みながら、わざとらしく俺の顔の前に突き出してきた。

 その勝ち誇った表情は、まるで鬼の首を取ったかのようで、こっちが引くほど子供じみている。


「はんっ、他の生徒にいい顔を見せるために保健室に連れてくだなんて努力家だなぁ? お前みたいな奴は、学校に必要ないんだよ。誰かがいなくなったって、誰も困りゃしないってのに!」


 ……誰も困らない、か。

 俺はその言葉に軽く笑みを浮かべ


「それで、先生は一体どうしたいんですか?」


 と問い返した。


「どうしたいだと? お前をこの学校から追い出してやりたいのさ! 協力者も証拠もあるんだ。お前の行動なんて全部把握してるんだよ!」


 俺は間谷の口から出た「協力者」という言葉に少し興味を引かれ、問い返した。


「協力者? 先生、そんな物好きがいるんですか」


 間谷はニヤリと不敵に笑い、こう返した。


「くくっ、証拠なら揃ってる。お前のやり方は、バ~レバレなんだよ? 誰に何をさせたか、全部、逐一把握しているんだ、はははっ」


 その言葉に、俺は一瞬だけ心の奥で冷たいものを感じたが、顔には出さず、飄々とした態度を崩さなかった。


「へえ、わざわざ俺を監視するなんて熱心ですねえ。俺ってそんなに注目されるほどの存在だったとは」


 間谷の顔がさらに怒りで赤くなり、声を荒げる。


「ふざけるな!? お前みたいなバカでブスの、危険な奴を野放しにしておくわけにはいかないんだ。分かるだろ? いい加減、観念しろよ!」


 その声には子供じみた苛立ちがにじみ出ていた。

 だが、俺は冷ややかな視線を返しながら応じる。


「観念するも何も、先生がそこまで言うなら……で、それで終わりなんですか?」


 間谷は一瞬言葉を詰まらせたが、さらに息を荒げて叫ぶように続けた。


「次に何かやらかしたら、お前をこの学校から追い出してやる! これは最後の警告だ。いいな?」


 俺はその宣言を、まるで脅しに聞こえないかのように軽く受け流し、表情を崩さずに答えた。


「わかりましたよ。先生がそこまで言うならね」


 そう答えると、間谷は一瞬だけ満足げな表情を浮かべ立ち去っていった。

 その背中を見送りながら、俺は呟く。


「……お前だって、相当な悪党じゃねえかよ」


 俺だって知っている。

 あの間谷も善人ではないことを——


 俺は胸の奥に湧き上がる妙な感覚を振り払うように、無表情を保った。

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