第五話 『コロッセウムに待つお姫様 4/5』




 特別観覧席は、混乱の真っ只中だった。


「──どういうことだ! 一体どうすればいい!」「そんなものこちらが聞きたい!」「魔法陣が無力化されるとはのう……! ニケが敗れた時に他の闘士をなぜ送らなかった!?」「出入口を塞がれたと言ったろう!」


「ま、まあまあ皆さん、ひとまず落ち着いて、死ななかったわけですし」「黙れ! 誰ぞ衛兵を早く呼んで来ぬか!」「誰もわしらの命令を聞かぬわい! 魔法陣が動かんのじゃぞ!」


 烏合の衆。


 といった貴族達は、好き放題にわめき合っていた。


 王のいない横並びの貴族どもには、状況を収拾できる者もいなかった。


 召使いも全て逃げ出し、霊体で作られたご馳走が床に散乱したサロン。魔法の灯りが失われ、壁掛けの松明のみで薄暗かった。


「なんなの、ぜんぶ台無しじゃない! これからどうなるのよ!」「お、おまえ。どうか落ち着いておくれ」「お黙りなさい、この愚図! キーッ!」


 追い詰められたあげく、醜い夫婦喧嘩をはじめる者らの姿まである。


 本来、レイスでは精神的に耐えられないはずの歳月も、己に精神操作の魔法を定期的に使い、リフレッシュすることで正気を保ち続けてきた。


 無限に供給される『女神の欠片』からの魔力で、延々と生き延びてきた──この国の、退廃貴族達。


 彼らの100年の箱庭は、今、完全に崩壊していた。


 配下を洗脳し、死後もこき使った醜悪な貴族に、いまだ忠誠を誓う者など一人もいるわけがない。


 そして狂騒の中にある彼らは、その背後に、闇から闖入者が音もなく現れたことにもしばらく気づかないほどだった。


「……」


 インベントリワープで観覧席の窓から移動してきた樹壱は、愚か者どもを呆れた目で見つめていた。


 左に視線を移す。


 そこには、手を繋いで一緒に移動してきたニケの姿があった。


「着いたぞ。床に物が落ちているから気をつけて」


「あ、ありがとうございます。ふあ、本当に一瞬で来ちゃった……!」


「だが、本当にいいのか? 俺が一人で片をつけてもいいが」


 樹壱が尋ねると、ニケは首を振った。


 彼女の手には、愛用の曲刀が一本握られていた。


「無理をする必要はない。殺人が嫌なのは、当たり前のことだ。が正常なんだ」


「いいえ。一人だけは、どうしても私がやらなくちゃいけないんです。私の罪ですから」


「そうか……。どうしても辛いなら言ってくれ」


「ありがとう、ごめんなさい。でも、本当に謝りたいのは、今まで私が命を奪ってきた人たちなんです」


「……」


「私が臆病だったせいで」


 ニケは剣の柄を、強く握りしめた。


 ようやく樹壱達が侵入していることに気づいた富裕貴族が、声を上げた。


「な、なんだキサマら。いつの間に!」


 樹壱達を見て貴族が慄き、後ずさる。


 ニケはその中にカイゼル髭の貴族、彼女の主だった男を見つけると、剣を突きつけた。


「ひっ!? に、ニケ!」


「あなただけは。私がこの手で斬らなきゃいけない……!」


 ニケの目には怒りと、深い後悔があった。


 生前、少女は殺したくなかった──本当は誰一人として殺したくなかった。


 生きるために、弟と妹を守るために、涙を呑んで対戦相手を殺し続けた。


 この貴族の男に言われるまま。


 それは消極的な殺人の加担だったかも知れない──


 ニケは、この男を殺して逃げるだけの力はあった。


 だが幼い家族を連れて逃げられるのか、その後の生活はどうするのか。失敗した時を恐れるあまり、彼女は踏み出せなかった。


 そして可能ならば少しでも、人を殺したくなかったからだ。こんな最低の下衆でも。


 結果、彼女はこの男を斬らなかったために、余計に多くの人を自らの手で殺してしまった。


 それが、ニケの後悔だった。


「わ、私は臆病者で、卑怯者だった。人殺しを、きっと自分のせいにしたくなかっただけなの……! 命令されたから仕方ないって、自分にいいわけしてただけっ!

 私が自分で、終わらせなきゃいけない──!」


「……」


 殺して逃げる。そんな判断は、奴隷に落とされた15歳の少女にはできないと、樹壱は思っていた。


 実際、世間知らずの花屋の娘が大人の手も借りず、弟妹を連れて他国に亡命する手立てなど立てられるわけがない。


 しかしニケは、どうしても自分が許せないようだった。


「これは私のけじめ。霊のあなたじゃ今は殺せませんけど、それでも斬る。覚悟して!」


「や、やめろぉ!」


「はあっ!!」


 ニケが、大きな曲刀を振りかぶった。


 だが。


 ニケはそれ以上、剣を振り降ろせなかった。


 ぶるぶると体を震わせて、これから自分の意思だけで人を傷つけるという恐怖に、かちかちと歯を鳴らせていた。


 ニケは自分に混乱していた。


 あんなに戦ってきたのに、大勢を傷つけたのにと、それでも目の前の脆弱な男一人斬れなかった。


(難しいか)


 樹壱は思う。


 刷り込みの恐怖もあるだろう。だがそれ以上にニケという少女は、心根が優しすぎたようだ。


 おそらく殺さなければ殺される、やむを得ない極限状況でなければ、戦えないのだ。


「な、なんだ。ハッ! 怯えたのか、虫けら!」


「あううう……! どうしてっ……!」


「ぶひひひ! この私に逆らおうなど身の程知らずめ! 今すぐ剣を下ろせ。たっぷり躾直してやる」


 ニケは、ぽろぽろと悔し涙を零していた。


 その背後で樹壱が、静かに腰の剣の鯉口を切った。


 彼女ができないのなら、それができる者が代わりにやればいい。


 まずはその薄汚い笑い声を永遠に出せなくしてやろうと、男へ向けて、剣先を飛ばそうとした時。


 ニケは言った。


 震えた声で。100年間を吐き出すように……。


「──あなたが、アルコとミーナにしたひどいこと。鞭で、あの子たちを。やめてって私言ったのに。お願いしたのに何度も、何度もっ……!

 配給の食べ物に、見えないようにごみを混ぜられたことも。お腹を壊した二人が、何日も寝込んだ。

 遊んでいたアルコを蹴って怪我させたり、ミーナのぬいぐるみを取り上げて壊したこともあった。あの子達はいつも泣いてた。許せない、絶対に許せないっ……!」


「早く剣を下ろせ! 待て、おい、まさか」


「うーっ、うううーっ! わあああああーーっ!!」


 叫びと共に彼女の曲刀、翼の異名を持つつるぎが、袈裟懸けに振り降ろされた。


 男の胸を切り裂き、片翼は、床に突き立った。


「ぎゃああ! ひいひい、斬られたぁ!」


 男が喚き散らして地面を転がっていた。


 傷は皮一枚でごく浅く、生きている頃でも全く致命傷にならないだろう。大げさで無様なものだった。



 ニケは──膝を折り、泣いていた。



 小さくなって、顔を覆って泣いていた。


 ミスではなかった。彼女ほどの剣豪が斬り損じるわけがない。


 これがニケの、精一杯の怒りの発露……だった。


(──そうか)


 優しい子だった。


 積もった復讐の念からすれば、この男を地獄の拷問にかけてもいいくらいだが、斬り捨てることもできないのだ。


 だが、樹壱の倫理観で言えば、ニケの方が


 憎い悪党相手でも、自分の意思の乗った手では、他人を痛めつけることができない。


 口でいくら怒りや憎しみを発しても、


 それは臆病ではない。


 樹壱はそう呼びたくない。


 ──彼が、いつか忘れてしまったもの。


 人間的な正常性。


 当たり前の感情。


 ……樹壱は近づいて、ニケの肩を叩いた。


「よく頑張った。後は俺がやる」


「お、おじさま。私」


「いいんだ。優しさは誇るべきことだ。暴力よりもずっと……。部屋の外で待っていてくれ、できれば耳も塞いで」


 肩を抱いてニケを立たせ、観覧席の出口へ連れていった。


 扉を閉める前に、樹壱はニケに微笑んだ。その微笑みは優しく、許しを与えるようで。


 ドアが閉じられた。


 樹壱は室内に背を向け、立っていた。


 ──彼は、俯いていた。


 木のドアが閉まる音と共に、すでに心は切り替わっていた。彼が深奥に持っている、怒りを伴った、恐ろしく冷酷な面に──


 残酷さに。


 そこは『戸口』であり、彼が裁きと清算を与えに現れる前に、立つ場所だった。


 貴族達は泣き出したニケを見て恐怖が減じたのか。樹壱の背中に向かって、口々にわめき出していた。


「なんざんしょ貴方がたは! 下民の分際で我らに手を上げるなど。傅きなさい!」「無礼者どもめ、我らを何と心得るか!」


「そうだ! 弁えろ下郎! 貴族だぞ!」「今すぐ頭をわたくし達に垂れなさいよ!」


「処刑してやるぞ!」「痛めつけてやるぞ!」「薄汚い、この犬っ!!」


 もう十分だった。


 奴らは、ニケの人を傷つけることが出来なかった姿に、何一つ感じるものはなかったと分かった。


 樹壱は無言で振り返り。


 剣を抜き放った。


 剣先が、空間を跨いで飛び、老いた女と若い男の手を斬り落とした。幽体の腕が転がった。


「「「うわあああ!!」」」


「何が貴族だ。醜い亡霊のバケモノが──」


 機械的な瞳だった。


 目の前のものに、何の価値も感じていないような。


「最近、とてもいい事があった。本当に久しぶりで、まるで血の通った人間に戻れたような気さえした……。

 お前らを見たせいで、最悪の気分だ。

 俺はあの子のように優しくできない。この世界に来て、お前らのような屑どもを大量に見続けたせいで、もといた時代の正常な感覚など忘れてしまった」


【十字路の男】と呼ばれた、無慈悲な死神の顔をしていた。


 一歩、また一歩と、貴族どもに近づいていった。


 逃さない。


 ただの一人も。


 報いを与える。


 死神は今、とても機嫌が悪かった。あれほど優しいただの子供を、平気で痛めつけ続けた者どもが目の前にいた。


 裁きに八つ当たりを混ぜる気はないが、温情を与える気はさらさら起きなかった。


「あの子が怖がる。全員、最初に声を上げられなくする。首を落とし、それからだ。

 死なないレイスだ、数多の剣闘士達にしたことをお前らは可能な限り、自分の身で受けなければならない──」


 彼の剣が、闇の中で鈍く光った。


 罪人どもの絶叫が、合唱した。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 ドアの向こう側で。


 ニケは樹壱に言われた通り、耳を塞いで、しゃがんでいた。


 一応、周囲に人影がないか見ていたが、怪しい様子はなかった。


 無人だ……。死んでからも100年も仕えさせられたら、衛兵も嫌になって逃げるのは当たり前だ。


 ロゴスロンドの兵士や使用人は、みんなお金で雇われた人か奴隷で、死んだあとも忠誠心があるひとなんているわけないとニケは思った。


 私みたく、操られていたんだろうか。


 ──ものすごい悲鳴が聞こえて、ニケは飛び上がった。


 耳を押さえていても聞こえてくるほどだった。


 ニケはどきどきしながらドアに振り返った。騒動と、くぐもった声と、ガラスが割れる音がした。


 そしてそれを最後にドアの中は、すぐ静かになっていった。


 とても……。



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