第五話 『コロッセウムに待つお姫様 5/5』




 コロシアムの敷地内。


 外周部にある道を、樹壱はニケと歩いていた。


 樹壱はインベントリで抜け穴を通り、闘技場の外へ彼女を連れ出していた。


 この距離なら、魂を留める魔法効果の範囲内だった。


 夜の道は暗く、持った松明の光のみが照らしていた。


 そのためか、「手を繋ぎたい」とニケに頼まれ、樹壱のもう片手は少女の手を握っていた。


「……」


 背後を振り返れば、コロシアムの天井から緑色の光がぼんやりと放たれていた。まだ剣闘士達による復讐の宴は中で続いているようだが、声はだいぶ遠くなっていた。


 隣のニケを見る。


 ニケは、じっと自分の手を見つめていた。


 その顔には哀しみと後悔があった──ニケの手は、微かに震えていた。顔は少し血の気が引き、まるでその手が真っ赤に染まっているかのようだった。


 樹壱が尋ねる前に、彼女の口が開いた。


「私。む、無関係の、罪のないひとたちにまで。ひどいことしました」


「……君は悪い奴らに騙されて、仕方がなかったんだ」


 それは彼女の懺悔だった。


 100年の間に、多くの生きた人間がコロシアムを訪れたはずだった。


 精神を操作された彼女は、迷い込んだ旅人や遺跡発掘者も、対戦相手として斬ってしまっていたはずだった。


「心を操られ、状況を自覚できないんだ。そういう術なんだ」


「でも、みんな死にたくなかったはずなんです。私のせいで。あの子達のことも忘れてたくせに、私っ……!」


 ニケは肩を抱いて震えた。彼女の心には拭い難いトラウマが、いくつも残されていた。


 樹壱はニケの肩を抱き止め、落ち着くまで慰めた。彼女がやむなく犯してきた全てを、許すように。


「大丈夫か」


「すん。はい……ごめんなさい。おじさま」


 謝ることなど何もなかった。樹壱は再びニケの手を取り、歩き出した。


 コロシアムの裏手に差しかかると、うらぶれた石造りの建物がいくつかあった。


 ニケが立ち止まり、その一つを見つめた。


「あれだな」


 樹壱が言うと、ニケは小さく頷いた。そして肩を落として、俯いた。


 彼女の家だった場所……。


 ニケが帰りたかった家、暖かい家族が待っていた場所だった。粗末な奴隷小屋は、今や冷たく夜闇に沈んでいた。


 それでも。


「──私、帰ってきた。やっとっ……!」


 力が抜けて崩れ落ちそうになったニケを、樹壱が支えた。


 あの日から、100年。


 魔物の大群の前に斃れ、辿りつけなかった我が家に、ようやく彼女は帰宅した。


 永い……永い、帰り道だった。


 樹壱の手を借りて、ニケはよろよろと建物へ向かった。


 ドアはなくなっていた。玄関をくぐって、まっすぐ続く共用廊下、奴隷たちの集合住宅だった五つの部屋のうち、正面にあるそこへ。


 そこへ。早く──


 部屋へ入った。


 真っ暗だった。疲れ切った彼女をいつも出迎えた暖かい光と、暖かい二人の弟妹の笑顔は、もうなかった。


 ニケが、樹壱の手を離れた。


 暗闇で見えなくとも、ニケは全部知っていた。目をつぶっていても何があったのか分かっていた。


 段差。角。突起。


 テーブル、椅子、食器入れのあった場所。


 花瓶のあった棚。弟の宝物の置き場。妹の小物入れの場所……。


 ニケが、腰が抜けたように、部屋の中央で座り込んで。


 泣いた。


「──うわあああん。うわあああん……うわああああん……!」


 彼女は帰ってきた──


 安堵と、喪失の哀しみと、無念と。抱えきれないほどのいっぱいの感情を抱えて、ついに帰ってきた。


 冷えた闇の中で。


 彼女の暖かい涙が、彼女の頬を伝っていた。


 樹壱は……ニケの後ろ姿を見つめていた。


 壁掛けに松明を起き、照明の呪符を取り出した。オレンジ色の光が室内を照らした。


 中へ入り、いくつか残骸を手に取り、じっと見つめた。


「ふむ」


 ぼろぼろの木刀のかけら。それに、錆びついた金属のペンダント。


 指先で、ざり、となぞる。


 問題ない──


 インベントリから、大きなスクロールを一枚出し、床に設置する。


 描かれた魔法陣に線を入れ、魔力の籠った黒石を置いた。


 白い光が魔法陣の模様を通り、発動する。


 部屋、そして建物に力が満ちていく。


「おじさま……?」


 ニケが樹壱に振り返っていた。樹壱は微笑んで、言った。


「みんな待っていてくれたのさ。君のことを」


 ──二つの光が、樹壱の手の中にあった残骸から、飛び出した。


 瞬いて、ニケの周りを優しく飛んだ。


 泣き腫らした彼女の近くで、輝きを振り撒いて。


「あ」


 ニケが両手を伸ばした。二つの光が、彼女の手に寄り添った。


「うそ。うそ。聞こえる──」


 震えた。


「アルコとミーナの声が!」


「幸運だった。これは単純な魔力補充用のスクロールだ。力を使い果たし動けなくなった死者の魂にも、再び活動する力を与える」


 樹壱には、彼らがここにいる事は分かっていた。


 樹壱がコロシアムに設置した、緑色の結界魔術。それに元の黒い魔法陣の効果の一部。


 強弱の差はあるがどちらの魔法効果も、魂を消滅させず地上に束縛する、というものだ。


 そして対象となる効果範囲は、コロシアムの敷地内全て。


 つまり、


「ここで死んだ者の魂は、最初から保存されていた──労働用に使う者だけを人工レイスに変え、それ以外の不要な魂は、そのまま放置されていたんだ」


 あとは魂が活動のエネルギーの魔力を失った時、依り代になるものさえあればよかった。


 そして生活空間には、生前に愛用し依り代となれるものは、いくらでもあったはずだった。


 彼らはここでずっと、眠っていたのだ。


 コロシアムの侵入者への対応として、必ずニケが出てくることになるはずだと、樹壱は読んでいた。彼女は最強の門番だったからだ。


 事前に彼女のことは調査した──コロシアムの裏手、奴隷小屋に家族と共に住んでいたことも。ニケのために何をしてやれるのか。


 外から、光の球がいくつも部屋に飛び込んできた。


 光達はくるくると宙を踊り、ニケを囲んだ。彼女を抱きしめるように、くっついた。


「ああ。ああ。みんな。隣のサナティ、タッカス、ハンナ。ウダおばさんまで」


 それはニケと同じ建物に住んでいた、奴隷仲間達の魂だった。子供や女性など、力が弱く労働者に不向きとして使われなかった人々の。


 魔力補充の魔法効果が広がり、上の階からも、隣の建物からも、さらに魂が目覚めてはニケの部屋に続々と集まってくる。


 もうニケの全身は、無数の光に包まれていた。


「え、え、待って、みんな待って! きゃあカール、パンツはだめって言ったのに! あっ、ルル泣かないで。

 クルスおじさん、魂なら動けるの? ちょっとバジダおじいちゃん、笑ってないで、みんなに止まってって言って!」


 生前、彼女は近所の人々に愛されていたのだろう。


 彼女の優しい性格を考えれば当然だ。闘技者には食料や医療品などいくらかの権利があり、多くの奴隷仲間に分け与え、手を差し伸べてきたのだろう。


「た、ただいま、みんな。ただいまっ……!!」


 いっぱいの魂を抱きしめて。ただいまを言って、おかえりを聞いて。


 ニケは泣いた。


 今度は、暖かい光の中で。




─────────────────




 朝日が昇る。


 樹壱は道端の岩を、椅子代わりにして座っていた。


 視線の先にニケがいた。いくつもの魂の光に包まれ、眩しい陽光の中で、彼女は楽しそうに愛する人々と言葉を交わしていた。


 一晩中語っても足りなかったのだろう。100年ぶりの再会だ。


 あの子を家に帰すことができた……。


 今回もまあ、上手くいった方だ。幸運も時には続くものかも知れない。


 コロシアムの方向を眺める。道端に、幾人かの剣闘士達の姿があった。


 彼らは困憊し、一晩中の報復乱闘で疲れ果ててぐったりしていた。仲間割れもあったのか、手足を失っている者もいた。


 内部にはもっと大量の観客どもや、剣闘士達が、戦いの果てに倒れて蠢いているだろう。ニケには見せなかったが、特別観覧席は地獄絵図のまま放置してある。


「そろそろ頃合いか」


 魔法陣を停止させれば、彼らの魂は消滅し、全てが終わるだろう。


 樹壱は手を上げて、ニケを呼んだ。


 ニケが駆け寄ってくる。


「はい。おじさま」


「さっきの話だが。本当にそれでいいのか? 君達には権利がある。生前にはできなかった、穏やかに暮らす権利が」


 樹壱は一枚の呪符を取り出し、ニケに見せた。


「俺は魔法陣を設置できる。魂を地上に留め、隠れて暮らせばいい。

 多少時間はかかるが、あの黒い魔法陣を解析すれば、いずれ他の者も霊の体が手に入り、レイスとなっても狂うことはない。

 軽く読み解いたが、精神の操作法は指定可能だ。前のように記憶を奪われるのではなく、生前の正常な肉体感覚を定期的に思い出すだけで……」


「いいえ」


 ニケは首を振った。


「みんなで話し合って決めたんです。私たちは、私たちを終わりにします──」


「……そうか」


 ニケは微笑んでいた。弟妹の魂が、その周囲を回っていた。


「おじさまの好意は嬉しいです。私も、あの頃みたいな暮らしをできたらいいなって、少し思ったり。

 でも、あの、こういうのってやっぱり不自然だと思うんです。死んでるのに体があって。心が壊れないように、そのたびに魔法で直して、なんて。

 ずっとそうしてるわけにもいかなくて、終わりのタイミングも分からないですし」


「そうだな……」


 この子の言う通りだった。


 死を覆すのは正しい姿ではなく、現世に未練があったとしても、やはりあるべき自然の形に反している。


 仮に死の法則の外へ行って生き永らえても、それが幸福を意味するとは限らず、むしろ大いなる不幸となり得る可能性があることは、樹壱は誰よりもよく知っていた。


「それと──私やっぱり、お父さんとお母さんに会いたいです」


「ふむ」


 樹壱は頷いた。


 彼は、死後の世界を知らない。死んでも決して滅びず蘇る樹壱には、その後の世界があるのかないのか、判断することはできない。


 彼が知っているのは紫色の宇宙だけだ。あれが死後の世界とは、言いきれなかった。


 樹壱の不死能力の本質は、おそらく本当は死んでいないわけではない。


 死んだ後に、自分の記憶を引き継いで連続した新しい自分が、世界に再生産されていると解釈するのが正しい。そのために死体が残るのだ。


 だから、もしかしたら、死した魂の行き先があるのかも知れなかった。


「いいだろう。君達がそれを望むならば」


 樹壱は立ち上がり、ニケと共に歩き出した。


 コロシアムの大きな門。そこまで来ると、樹壱は言った。


「八つの魔法陣の解体には少し時間がかかる。その間、終わりを思って待っているのは少し怖いだろう。それよりは、ここの外へ出て、一思いに消える方がいいかも知れない。

 敷地の外へ出れば魔法効果の範囲を出て、魂は──天国へ行くだろう」


 その言葉に、ニケはコロシアムと外を繋ぐ大門を見上げた。


 彼女は、彼女の周囲にいる光達に目を向けた。やがて小さく頷いた。


「そうですね。みんなも、その方がいいって。え、バジダおじいちゃん?」


 光の一つが明滅した。


「……うん。そうだね──おじさま、私たちやっぱりこっちがいいです。

 自分たちの足で、ここを出ていくんです。胸を張って、外へ。

 奴隷として扱われたこの場所から、自由な人間になって、もう誰にも捕まらない自由な場所へ。それって少し素敵じゃないですか?」


 魂達が、賛意を示すように瞬いた。


 決まりなようだ。


「よし。じゃあここで……?」


 ニケが樹壱の袖を引いて、もじもじと見上げていた。


 少し恥ずかしそうに。


「あ、あの! おじさまに、お願いがあって。その、変なわがままですけど、どうしても」


「最後だ。言ってごらん」


 樹壱が目線を合わせて言うと、ニケはためらっていたが、意を決したように言った。


「外に出たら自由で、えっと、だから。だっ、抱っこして欲しい!! で、です」


「抱っこ?」


「きき、騎士さまとお姫さま、みたいな抱っこ。私、憧れてて。いいい、一度、くらい……」


 ニケは真っ赤になってしまった。樹壱は微笑んで頷いた。


「分かった。さあ行こう」


 まず胸に手を当て一礼し、彼女の手を下から取る。


 その手を自らの腕に取らせる。紳士の作法を守った、丁寧なエスコートで歩き出す。


 無骨な鎧姿とは裏腹に、スマートで洗練された動きだった。


「ふわわ? こ、これ、もしかして本物の? おじさまって」


「こう見えて心得はあるんだ。大丈夫、自然に歩いて」


 歩幅を合わせて。


 外へ、一歩。


「あ──」


 ニケの体が少し浮いた。


 樹壱は優しく彼女を、お姫様抱っこで抱き上げた。


「これでいいかな? お姫様」


「ああ、私……。ありがとうございます、おじさま。本当にありがとう」


 ぽろぽろと、少女は涙を零す。


「来てくれた。こんな私にも、迎えに来てくれた……!」


 黒髪の騎士を抱きしめて、小さなお姫様は言った。


 ニケの体の輪郭が曖昧になり、光の粒子となり、空中へ散りはじめる。


 浮力が強まり、ニケは樹壱の手を離れて、宙へ上がっていく。


「おじさま! さよなら。さようなら……!」


「さようなら。ニケ」


 射し込む朝日の中で、彼女の周囲を、親愛する魂達が踊った。


 最後に。


 ニケは二つの魂を胸に抱いた。きっと、弟と妹の。


 アルコ。ミーナ。ごめんね、ありがとう。彼女の口がそう動いたのが、読唇術で見えた。


 光が弾けて──消えていった。


 樹壱はそこに残されていた。


 雲の隙間から、陽光が彼を照らしていた。


「……さようなら」


 終わった。


 一抹の寂しさを心に仕舞い、樹壱は振り返った。


 そして後始末が残っていた。魔法陣を停止させ、囚われた魂を全て解放しておく作業だった。


 樹壱は、再びコロシアムの中へ歩いて戻っていった。



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