プロローグ・5 『十字路の死神 下』
アバラズは、暗い道を走る。
ルニィの街はさほど大きくない。ジェッテが動転していても、何も見通せない街の外まで行くはずはなかった。
ジェッテは短気だが、鉄火場では冷静な男だ。その男が、何を見てあれほど恐れたのか。
裏路地に入ると、アバラズは地面に血だまりを見つけた。
「ジェッテ……!?」
よく知っている顔が、暗闇に差し込む薄明りに、照らされていた。
禿げた隻眼の男が、廃屋の壁にいた。
首を掻き切られ、腹から内臓がまろび出た体が、太い釘で奇妙に壁に貼り付けられ。血塗れのオブジェと化したその死体を、無残に晒していた。
ジェッテの顔は、巨大な恐怖に歪んでいた。
「ひいっ! ひ、ひでえ……こんな……!」
よろよろと、アバラズは死した仲間に近づいていく。
──その首に、突如として、首縄が現れた。
引き上げられる。
「ぐええっ!!」
近くの柱にかけられた縄が、アバラズを宙に浮かせた。二階の高さまで括り上げられ、吊られた片耳の前に。
一人の男がいた。
黒髪の男だ。
彼は、廃屋となった建物の二階。腐った本棚、足の折れた椅子や割れたテーブルなどが散乱する部屋にいた。
そこにある唯一無事な椅子に腰かけ。
窓から、ただ見つめていた。
ただ見つめていた。
街が照らすわずかな光が、暗闇に棲む彼に、辛うじて輪郭を与えていた。
「あがっ、うぐっ、かはあぁっ……!」
アバラズは吊られながら彼の顔を見て、気づいた。驚愕と恐怖に震え、もがき苦しんだ。
それを見つめる彼は、何も言わなかった。何の感情も表さなかった。
死にゆく人殺しの男を単に、静かに観察していた
「げ。が……」
アバラズの体が脱力した。
完全に息の根が止まったのを確認してから、黒髪の死神は、後ろに下がった。
そしてもう、そこに彼の姿はなかった。
魔法のように、音もなく。闇の中にかき消えていた。
無人になった室内には、汚れて破れたカーテンばかりが風に揺れていた。
「──アバラズ! どこに! ……」
駆けつけてきたダリドが、路地で立ち止まった。二人の仲間の死骸を見つけた。
貼り付けられた死体と、吊られた死体。何もできずに殺された仲間の姿に、圧倒的な恐怖がダリドを支配した。
「う、うわ……! うわああああっ!」
狙われたら、終わり──
死神の鎌にかけられたという確信が、ダリドの足を動かした。
転げまわるように酒場へ戻り、酒代をカウンターに叩きつけると、ダリドは大きな銀貨袋を見せて大声で喚いた。
「誰かっ!! 俺に雇われるやつはいるか! 金は幾らでも払う! 【十字路】とかいう奴を、ぶっ殺してくれぇ!!」
誰も手を上げなかった。
命知らずの傭兵達が、目を伏せて顔を逸らしていた。
何十人もいて、誰一人も。
「お、俺の全財産を出してもいい。安全な場所まで守るだけでも……! ここにいる全員なら」
「無理だ」
誰かが言った。
ベニーの死を知らせた、あの傭兵だった。
「俺は噂より、もっと奴に詳しい。殺し屋なんぞにコケにされて、俺達が何もしなかったと思うか?
以前、20人余りが有志になり、【十字路】を追ったことがある。
翌日には全員殺されて、辻に放られていたよ。そいつらの剣には戦いの跡がなかった、つまり、何も出来ずに殺られたんだ。きっと無駄に終わる。ここの全員でも……」
それは死の宣告と同じだった。誰もが、哀れな犠牲者を諦めた目で見つめていた。
ダリドは絶望的に身を震わせ、やがて、脱兎のように逃げ出した。
光の及ばぬ街の外には、自然に潜む怪異がいる。夜のうちに野へ出歩く者など、よほど大勢か軍の行軍か、自殺志願者でもなければ、傭兵でもやらないことだ。
それでもダリドには、あの街にいるのが耐えられなかった。
街道を真っすぐ行けば、他の街がある。そこにはツテがあり、顔と身分を捨てて逃げ隠れられる犯罪組織の知り合いがいた。
そこまで夜道を走るしかなかった。
ルニィの街が遠ざかり、光も見えなくなった頃。
十字路に、差し掛かり──急いだせいか、足をもつれされて転んだ。
そして一人の男が、道の脇に立っていた。
────────────────
彼が、闇の中で、俯いていた。
静かに。
「ずいぶん時間が経ってしまった」
倒れたダリドは動けなかった。フードを被り顔の判然としないその者が、ゆっくりと踏み出した。
「手がかりが少なかった。もっと早く来るべきだった」
「お前、は……!」
「まあ俺の苦労も聞け。あの場所がどこなのかも分からなくてな。言葉を覚えて特定するのに、二年かかった。あの子達を見つけて、埋葬して墓を作った。
それからは、お前達だ。流浪の傭兵を名前も分からず、人相だけで探すのは骨だった。結局、合わせて五年も過ぎてしまった」
彼がフードを取った。
黒髪の死神──その顔を見て、ダリドは額の古傷を押さえた。
死神の本当の名は、葦原 樹壱、と言った。
「──ダリド=モルス。ジェッテ=ガバラス。アバラズ=ニグ。ベニー=サンマラン。大陸中の紛争地帯を渡り歩く、慣れた傭兵の四人組。ならず者揃いの傭兵の中でも、特に残虐な行為が目立つ。
そして五年前、サドーリ村近くの廃墟で、十人の子供達を殺した。当時、お前らの参加した軍は敗勢で、食料を求めて付近を徘徊していたらしい」
樹壱が語る。
その顔つきは以前と大きく違い、凄惨なものとなり瞳は冷酷で、穏やかな優しさの色など消え失せていた。
しかし同時に、在りし日の激情もなかった。
冷たく、凍ったような──冷徹な殺意だけがあった。
「危険な傭兵稼業で四人とも生き残っていたのは、俺には幸運だった。この手で殺すことができるからな」
「な、なぜ。お前は殺したはず……!」
「一度殺して蘇った奴が、どうして二度目がないと思う?」
樹壱はゆっくりと剣を抜いた。
あの日の始末をつける。そうしなければならない。
ダリドも立ち上がり荷物を放り出し、武器を構えていた。
「てっ、てめえが仲間を殺ったのか。てめえが【十字路】か!」
樹壱は、剣を虚空に動かした。
次の瞬間、あの廃城で殺戮を行った外道のリーダーは、手首を斬り落とされていた。
「ぎゃああっ!!」
手首のついた剣を落とし、ダリドがもがく。
残った腕からは、鮮血がとめどなく溢れ出し、地面を濡らしていた。
「【十字路の男】か。そんな名前が通っているな。名乗った覚えはないし、辻以外にも現れるが。
噂では、死神はこう聞くらしい……『お前の道を選べ』。
だがお前らのような人種には、俺は質問しない。なぜなら道はすでに選ばれ、お前達は通り過ぎた後だからだ」
再び樹壱が、剣を振る。
届かないはずの場所から刃が届き、男のもう片方の腕から血が噴き出した。
「ぎいいっ!」
「殺しておいて、己だけは助かる道が残されていると考える。そんなわけがないと、思い知るべきだ」
ダリドが逃げ出した。道を外れて坂を駆けていく。
樹壱は追わなかった。
その場で静かに佇み、哀れに逃げる人殺しの背中を見ていた。
ダリドは草原の小さな丘を登り、藪に入り、泥まみれになって外へ出た。近くの木陰を見つけてそこに隠れ、追ってくる気配を確認する。
服を破り手首に巻きつけると、懐のナイフを抜き、周囲を見回した。
──だが、ナイフの柄が、握った指ごと両断された。
さらに後ろから腿を突き刺され、悲鳴を上げて男は這いつくばった。
その背後には、いつの間にか、闇の中から現れた樹壱が立っていた。
息一つ乱さず。
どうやったのか誰にも分からない。
死神は、気づけばそこに居た。
「無駄だ」
「ひい、ひいい……!」
黒髪の死神は、夜の漆黒の中で凍ったように冷たく、見下ろしていた。
「お前は逃げられない。お前は報いを受ける。あの子達にした事の、報いを」
「たす、助けて。殺さないで」
「あの子達も、そうだったはずだ」
死神は言った。一切の許容もなく。
残虐な傭兵の男の犯した罪の、全てだった。
「みんな殺されたくなかった。死にたくなかった。お前達は殺した。食料だけでなく、命を意味もなく奪った。
誰に迷惑をかけたわけじゃなかった、戦争に巻き込まれて親を亡くしても、住んでいた村を失っても、健気に生きようとしていただけの優しい子供達を」
樹壱の剣が、ダリドの首に突き付けられ。
振り上げられ、闇の中で瞬いた。
罪人の首が飛び。血を振り撒いて、胴体が崩れ落ちた。
夜の闇を歩く。
地平線の彼方を見る。
夜明けはすぐそこだ。まもなく、陽は昇る。
樹壱は、その時間を歩いていた。夜という終わりが、終わる時間。
黎明というまた新たな始まりの、少しだけ前の時間。
空気は澄んで冷たく。消えゆく星々を見上げる。白い光の帯が、少しずつ彼らを追いやっていく。
ようやく終わった。
あの日の全てが。
──結局、樹壱は、何もできなかった。
ただあるべきように、敵に償いを齎しただけだ。あの子達の魂は自分を許してくれるのか、樹壱には分からなかった。
今から三年前。廃城を再訪した時のことを思い出す。
あの花畑は残っていた──中庭の一面に、大きくなって広がっていた。
花に埋もれたあの子達の骨を、一つ一つ拾って、丁寧に弔った。
風化しかけた骨はすかすかに軽かったのを、覚えている。
忘れられるわけがない。
そして、事前に調べていた情報から、彼女らが住んでいた旧サドーリ村を訪れた。
もう何も遺っていなかった。ただの野原になっていた。
外から調べただけでは、誰の名前も知ることはできなかった──村の戸籍制度など、この世界で整備されているのは稀だからだ。
ただそこに住む者が、親からそう名付けられた名前を、呼んでいただけだ。
だから滅びた村に生き残りが一人もいない以上、十人の子供達の名を知る者は、地上にいなかった。
──だから。樹壱は能力を使った。
過去を再生する『力』。
滅びて跡すら残らない村の上で、古い記憶の映像が、呼び起された。
あの子らがなんと呼ばれていたのか、樹壱は知った。戦争に巻き込まれるまで大切にされ、幸せに過ごしていたのも。
だがそれは、あの子達の大切な個人の記憶の、勝手な覗き見でもあった。褒められた行為ではなかった。
しかし、あの十人の名前を忘れることはないだろう。
「──君達の名を呼べなかった。ユニ。パイリ。俺達はもっと仲良くなれたろうか。下らない喧嘩をすることもできただろうか。
ディーンは小さいのによくできた奴だった、君達の諍いを止めようと、一番最初に俺を呼んだぞ。
エイミとオルトは、俺に収穫のコツを手振りで教えてくれた。クルーンは、よく俺の頭を棒で突いていたな。ティントリとは結局話せなかった。お喋りなラティス、サルカ、アストンも。
……俺はしつこすぎる大人だろうか。たった二日間。もう五年も前のことなのに」
樹壱は一人歩く。
闇の間に、ついに陽が差した。それは始まりを告げる光だった、だが彼は孤独だった。
昇る太陽に向かって樹壱は進む。光線に暖かさはなく、夜の冷気の残り香を纏わせて。
行く先に。
十字路があった。
彼は少し立ち止まり、そして、右へ曲がった。次の目的地はそちらだった。
鬱蒼とした木々に遮られて夜の残る、陽の届かない道だった。
また、闇の中へ。
────────
そして……それから、永い時が過ぎた。
永い、永い時が過ぎた。
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