異世界へ飛ばされ不死になった男が、滅びた女神復活の為、当て所なく旅をして悪を裁いて断罪する、哀しいお話。~Who he comes after the end.~
第三話 『白き鬣《たてがみ》のシンガ 上』
第三話 『白き鬣《たてがみ》のシンガ 上』
彼は、シンガが好きだった。
それは大いなる霊魂を語る神話だ。
シンガとは、獅子の魂のことだ。
強く巨大で勇敢な獅子は、故郷の山脈から出て、平地へと彷徨いやがて、貧しくも善なる者の家を見つけ出す。
家の中に守るに値するものを見定め、それがそこにあるのだと認めると、守護のために家へ憑り付く。
そして常に家の玄関先に立ち、邪悪な侵入者が来れば立ち塞がって、打ち払う。
彼の背後にある、かけがえのない宝を守るために。
シンガの持つ立派な白いたてがみは、獅子の誇りであると同時に、聖なる火を立ち昇らせる。
火は邪悪を討つ以外に、薪すら買えない貧しき家に暖かさを与えるという。聖なる火は、心根の優しい貧乏人とその家族と家だけは、決して焼くことがないという。
シンガは、貧しくも正しき善人のための守護神である──。
年の近い姉に寝物語に聞かされたその話が、彼は好きだった。大好きな姉の次に好きだった。
彼の家は、祖父の代に山奥の遠地から越してきた家系だった。だからこの神話は、自分の家だけに伝わっていたもので、村の他の者達には知られていなかった。
村には村の信仰と地域風習があり、その話とやり方も興味深かったが、遠き一族の伝統の話はやはり特別なものだった。
彼はシンガに憧れ、強く優しい守護者シンガのようになりたい、と願った。
悪疫が、彼の家を襲ったのは、ある秋のことだった。
十人いた彼の家族は病に蝕まれて倒れ、体の先から黒く染まり、みな死んでいった。
最初に逝ったのは、体力のなかった祖父母と幼児達だった。
村人達は村の外れにあった彼の家を、封鎖した。
門に板を打ちつけ、周囲を柵で覆い、見張りを立てて誰も出てこれないようにした。
死の淵に立つ家族に、一切の助けはなかった。
それは仕方のない事だったかも知れない。
医療もろくにない辺境の村に病が伝染すれば、全滅の恐れすらあったからだ。こうしたことは、この世界では普遍的に見られることだ。
だが彼の心には、深い傷を残した──
その日が訪れるまで温かかった村人達の、恐ろしく冷たい目。
一緒に遊んでいた子供達から向けられた言葉。
汚い、気持ち悪い、近寄るな。
病気を
お前達などいなければ。
自分はこの村で生まれ育って、祖父の代からここに住んでいるのに。
死んだ家、と言われた。
自分達はまだ生きているのに。
家が封鎖されてしばらく、ついに食料が尽きた。その時点で両親は亡くなっていた。
彼と姉は比較的病状が軽く、這いずるようにして外へ出た。
閉じられた門の隙間から、見張りの村人の男たちに食料を求めた。まだ息のある弟妹達のために、わずかでいいから食べ物が欲しい、お願いします、と懇願した。
願いは拒絶された──
板張りから伸ばされた手は棒でさんざんに打ち据えられ、姉の幼く細い指の骨が、三本折られた。
死んだ家に与える麦はない。
それが、彼らの残酷な返答だった。
彼は、弟が、妹が死んでいくのを、つぶさに見た。
弟妹達は全身の痛みから引き攣けを起こして、黒く染まった両手足を畳んで体を丸めた、この疫病の独特の姿で死んでいった。
彼と姉は、家族の墓を掘る余力すらなかった。遺体を部屋の隅に追いやるようにして、布をかけてやるだけで精一杯だった。
雪が降り始める頃には。
家の中で生きているのは、彼と、姉だけになった。
体は酷く冷えているのに、寒さは感じなかった。
閉じられた木板の窓の外は見えないが、ボタ雪の降る気配がした。窓の隙間から冷気が浸み込むが、隙間を布で埋める気力すらも、彼らには残っていなかった。
室内は闇の中だった。
中は腐臭で満ちていたが、彼と姉の鼻は、嗅覚疲労で機能していなかった。
腐った床の上に敷かれた藁の上に、彼は仰向けに寝ていた。
すぐ隣には、姉がいた。
やせ細って、互いの手を握り合い、彼らは最期の時を待っていた。
「おねえちゃん」
最期まで残った二人は気力の限り、互いに相手を呼び合うことにしていた。
死んだら分かるように。
残された方は、すぐに刃物で喉を突くか舌を噛んで、追いかけられるように。
この闇に、少しでも置き去りにしないために。寂しくしないために……。
「━━」
姉が彼の名前を呼んだ。その声は掠れて、ほどんど聞こえないほどだった。
それでも声は、この暗闇の中で、彼に温かい何かを与えてくれていた。
「おねえちゃん」
手を握る姉の手が、もぞりと動いた。横目に見ると、姉は目を閉じていた。
ひび割れた唇が、囁いた。
「村のみんなを恨んじゃだめだよ。━━は、いい子だから、分かるね?」
「……でも」
「わたし達じゃなくても。村の誰が病気になっても、きっと同じだったから……。ここにはお医者さんがいなくて、しかたないことだったから。
家族のみんなが死んだの、嫌だったよね?」
「うん。おねえちゃん。嫌で、悲しかった」
「うん。わたしも、すごく嫌で悲しかった。村のみんなも同じで、家族を守りたかったから。だから憎んだり恨んだりしたらだめ。できる?」
「……うん。おねえちゃんが言うなら」
慈悲の声に、彼は耳を傾けた。
彼にとって残されたものは姉だけであり、その姉が赦せと言うのであるならば、彼は怒りを捨てる事もできた。
姉がのろのろと手を動かし、彼の頭を撫でた。
姉の指は、痛ましく曲がったままだった。10歳に満たない彼らには、骨折の処置の為、あて木をするやり方も知らなかった。
「おねえちゃんの指が……」
「だいじょうぶ。もう痛くないの。それに、食べるごはんももう無いからいいの」
少女は微笑んでいた。
彼はそれで全て納得した。
後はもう、ただ一つのことだけだった。世界で一番好きな人と共に、死ぬだけ──
姉と一緒に居続けることだけが、彼に残された全てだった。
「おねえちゃん。大好きだよ」
「━━、わたしも。大好き」
彼は姉の肩に頬を寄せ、姉は彼の頭を優しく抱きしめてくれた。
……だが、最期の時は待てども待てども、訪れることがなかった。
外では、冬が退いて雪が融け、濡れた地面から真新しい新芽が顔を出し、大きな嵐が一度来て過ぎたら──村にはもう、春が来ていた。
彼と姉はただ仰臥し続けたままそこにいて、生きていた。
名前を呼び合い、食料も水も口にせず、薄く眠りを日々繰り返していただけだ。
己の身に何が起きているのか、幼い彼らには分からなかった。
ただとにかく、二人は生きて呼吸していた。
季節を知らせる鳥の鳴き声が、閉じた窓の向こうから聞こえてきた。
彼は姉に尋ねた。
自分の分からない事は、物知りで頭の良い姉に聞くしかなかった。
「どうして? おねえちゃん」
「どうしてだろう……」
姉が分からないなら仕方ない。自分は、姉より賢くないからだ。
従って、きっと自分では想像もつかない何かなのだろうと、彼は決めた。
それより、これからどうするかだった。
待っても終わりは来なかったのだから。
起き上がれば、外に何かあるだろうか? 庭に食べられる野草が生えてきてるかも知れない。
野草の見分け方は知っている、姉に教わったからだ。
「おねえちゃん。外に出てみようよ」
「う、うん」
起きるのには難儀した。限界を超えて消耗した体は、立ち上がるだけでも困難だった。
一刻以上かけて、姉弟は家を出た。
庭を見回ると、芹とはこべらによく似た植物が、風に揺れているのを見つけた。二人は震える手でそれをむしり、口にした。
調理する余裕などなく、乾いた喉では飲み込むのも大変だったが、それでも数か月ぶりの食べ物だった。
食べ終えて家に戻ると、どっと疲労が押し寄せてきて、二人は藁の上に倒れこんで気絶した。
姉弟は、手を握り合って眠った。
その翌日だった。
彼らの家の門に張られた板が剥がされ、口元を布で覆った村人達が怒声を上げ、棍棒を手に乗り込んできたのは。
何が起きたのか、彼はすぐに分からなかった。
村人達は二人を縄で縛り上げ、言った。
「やっぱり生きていやがった。おまえら、村に呪いをかけたな」
そんなことは知らない。呪いってなんだ。
自分達はただ見捨てられて、この家で寝ていただけだ。
彼は事実を答えるしかなかった。
「村の春の作物がすべてだめになった。俺達を恨んで呪ったんだろう、おまえらのせいだ。言い逃れやがって」
知らない。知らない。そんなことやってない!
「嘘をつくな。お前らが冬の間、生きていられるわけないだろう。何も食べずに生きていられるわけないだろう」
それは……。
「魔女だ。化け物だ……! 昨日、お前達が外に出たのを見た奴がいる、これで犯人が分かった。処刑してやる」
弱り切った彼の体では、抵抗することは出来なかった。
姉が締めあげられ、痛みに悲鳴を上げた。彼は姉に手を伸ばそうとしたが、届かなかった。
二人は、村の広場に引き出された。
広場には、見当はずれの怒りに染まった村人全員が集まっていた。
罵声が響く中、斧を持った者が近づいてきた。
彼の目の前で、姉が先に、断頭台に頭を乗せられた。
彼は、心底恐怖した。自分の命など、とうにどうでもよかったが、姉がこうして殺されるのを見るのだけは絶対に嫌だった。
あの優しい姉に、誰もを思いやれる姉にそんな由縁はないはずだった。
やめろ。やめてくれ。
彼は必死に叫んだが、衰弱してほとんど声にならなかった。
這いずって行こうにも体は押さえつけられ、動けなかった。
どうしてこんな。僕らがみんなに何をした……!?
見捨てられて、家族の後を追って。二人で死のうとしていただけだ。
ただ最期まで、一緒にいたかっただけなのに。
姉の首に向けて、恐ろしい斧が振り上げられた。
彼は最後には哀願までした、お願いだ、おねえちゃんを殺さないで。
何でもするから殺さないで──!
姉が振り向いた。
彼女の口が小さく動いたのが、見えた。
……ないで。………くだよ。━━。
刃が、振り下ろされた。
その瞬間。
彼の世界から、全ての音が消えた。
そして彼は見た。
掲げられ村人に晒された、血みどろの姉の首を。
ああああ
首のない姉の体が、
あああああああア
村人どもの歓声が上がり、姉の屍体へ石が投げられ、唾を吐きかけられた。
アアああアアアアア゛あ゛ア゛ア゛
次は彼の番だった、痩せこけた体が断頭台へ引きずられていった。
断頭台の首籠が血で赤く濡れていた。
だが彼の視界は突き上げる怒りで、それ以上に朱く染まっていた。
朱く。
朱く。
それは、燃え盛る炎のようだった。
彼は記憶に無いその色を知っていた──
立ち昇る、聖なる火の色。
これは彼もあずかり知らぬことであったが、彼の家系は古き故郷の地で、拝火の儀式を司る巫者として、尊ばれた家だった。
彼の首が切断された瞬間。
彼の肝臓に癒着して存在していた物と、姉の腎臓に埋め込まれていた物が、共鳴した。
それらは親から子へ、祖先から子孫へと、受け継がれ続けていたものだった。
おねえちゃん
獅子の遠吠えが、遥か遠き山岳の、彼方より。
聞こえた気がした。
こ
ろす
────────────────
白きたてがみの、巨大な獅子がいた。
彼の死体から生まれた『それ』は、ゆっくりと身を起こし、周囲を睥睨した。
赫怒を湛えた
急激に発生した超高熱で最初に焼かれたのは、哀れな姉弟の首を落とした処刑人だった。
男は、骨も残さず蒸発した。
近くにいた三人が余熱で火達磨になった。獅子はもがく者どもを踏み越えて、その場にいた村人達に牙を剥いた。
背後には、死んだ少女の首と体とがあった。
獅子は、伝説の通りに。
背後にある『宝』を、守るために──それが宝の残骸であったとしても──
全ての敵対者を、抹殺しようとした。
悲鳴を上げて逃げ出した村人達が、獅子の火のたてがみから飛び出した、巨大な炎の球によって次々に焼かれていく。
若い男女も。
年寄り達も。
女房、妊婦達も。
父親と母親と子供達も。
一つの例外を除いて、獅子の怒りに、対象の区別は無かった。
動くもの全てを焼き焦がした後、遠吠えと共に、炎のたてがみが渦巻いて、爆発するように周囲へ広がった。
火のマントとも形容すべき、巨きな炎が、村一つをまるまる飲み込んだ。
それで、各家に残されていた赤子達も一瞬で焼き殺された。
朱色。
全てを焼いていく。
炎上した家が熱で吹きあがり、建材の欠片が燃える雨のように、降りしきる。
そして、例外……
火の海の中で、獅子の後ろにあるそれだけは、燃える事がなかった。
獅子は振り返り、少女の亡骸を見た。
地面に落ちた彼女の首に近づき、頬を優しく舐めた。
獅子の宝は、もう動かなかった。
最期まで二人一緒にいたかった。邪魔されず、受け容れた死へ向かって、あの家で。
たったそれだけの事だった。
だがふと、獅子は自分を疑問に思った。歪んだ復活によって、獅子には少年の記憶がきちんと残っていなかった。
なぜ自分は彼女といたかったのだろう?
自分は、誰なのだろう? 断片的な思い出が脳裏に現れては過ぎ去り、炎の壁の間で、獅子は首を傾げた。
少女の顔が想い出される「━━、わたしも。大好きだよ」
ああ、そうだ。
と獅子は得心した。確かに、少女から聞いた話だった。
自分はシンガだ。
大きく強く勇敢で、守護する獅子の霊魂。
燃え上がるたてがみは
シンガは、貧しくも優しい少女のための、守護神である。
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